共通フォーマットとしての「型」にはまるメリット
規則正しく並んだ稲。美しく並んだ稲穂を見ていると、自由と非自由のバランス按配について思索を思いめぐらせずにはいられませんでした。
自由だけが素晴らしいことですか?
人は自由でいたいのか?
それとも非自由でいたいのか?
非自由とは不自由とは違います。不自由とは自由ではないがゆえに困っている状況ですが、非自由とは単に自由ではないこと。
私の個人的な印象としては自由な部分と、自由ではないほうがよい部分が混在していると思います。
ですが、自由を賞賛する声のほうが圧倒的に大きいようです。
型にはまるなんてナンセンス。自由な発想で楽しくやろう!
非自由を否定するような声は、老若男女問わず聞かれるように思います。
型にはまった窮屈なことを避けたいということなのでしょう。
非自由のメリットを考える
一方、型にはまることには利点はないのでしょうか?
自由に考えること、自由に方針を決めること、そういうことは一見楽しいようにも映りますが、自由が過ぎると何から決めたらよいのかわからないほど選択肢が増え、コトを成し遂げるまでには相当の困難が待ち受けています。
それに対し、過去に積み上げられてきた型をベースとして、そこに自由をちょっと足すのであれば、選択肢は限られるものの、比較的困難は少ないはずです。
何もかもが型通りではつまらないという気持ちはあると思います。
とはいえ、既に出来上がっている型を活用することは、合理的でもあるのです。
自由と非自由にはそれぞれの役割がある
共通フォーマットである「型」に沿って物事を仕上げるとき、むしろ自由が少ないからこそ、少ない自由度の中にオリジナル性の高い成果を生み出せる余力が残るとも考えられます。
田んぼに稲を植えるとき、植え方を規則正しく整然と並べるのは、長年培ってきた合理的な理由から。どうやって稲を植えるのが効率的に作業ができるかといった視点で最適化されている方法です。
稲の植え方に関しては、もう悩むことはないとなれば、害虫に強い稲や、冷害に強い稲を植えるということに専念できるということ。
自由である部分と非自由である部分。そのあたりのよい加減こそが、一番の快適な道のり。
生活の中で、共通フォーマットとしての「型」がある部分に関しては、自由を求めないことは、自由にできる部分の自由度を思う存分使いこなすためでもあるのです。