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第四章 汝と相逢うこの「今」という場所

場所と行為

 「働くものから見るものへ」という言葉は一見動的な立場から静的な立場への移行に思える。だが実際に目指されているのは顕在から顕在へ矛盾に移り行く生滅の場所なのである。掴みえない「今」は単に静観的に見られるものではない。それはリアルな行動をその底で支える無の場所なのである。それゆえ、論文「場所」の時点でそれと行為との関わりが語られていた。

唯、真の無の場所に於てのみ自由なるものを見ることができる。限定せられた有の場所に於て単に働くものあ見られ、対立的無の場所に於て所謂意識作用が見られ、絶対的無の場所に於て真の自由意志を見ることあできる。対立的無の場所も尚一種の有なるが故に、意識作用には断絶あある、昨日の意識と今日の意識とはその間に断絶があると考えられる。真の無の場所は対立的無をも越えて之を内に包むが故に、行為的主観の立場に於て昨日の我と今日の我とは直に結合するのである。(IV, p. 232)

 この「行為的主観」という言葉は『芸術と道徳』に収められた論文の表題でもある。ここでは「場所」の顕在から顕在への考え方が先取りされている。「我は永久の現在なるが故に、孰の一点も我ならざるものはない。」(III, p. 441)と言った西田は、つづけて次のように述べる。

現在に於ての我の一つの働きは我の一つの働きであって、我の全体ではないことは云うまでもない、併し又単に全体がその中に潜在的というのでもない。潜在的なるものは何時か発展し尽くすと考え得るが、我は発展し尽くし得るものではない、無限の未来に於ても我は我を見ることはできぬ、見得たるものは我ではない。我は到る所に顕現的である。(III, p. 442)

 この考えが「場所」につながったのである。
 このようにみてゆくと、場所論ははじめから行為と関わっていた。とはいえ、その関わりは未だ十分に表立ってはいない。論文「場所」にて「行為」の語が使われるのはこの一ヶ所にとどまる。また論文「行為的主観」も十三頁をわずかに一行こえた短い論文にすぎなかった。
 さらに言えば小林敏明が「転落」を嗅ぎ取るのは単なる行為との関わりではない。歴史的行為である。「歴史的行為」という言葉に付着する「歴史」という特定の一般者に「転落」をみるのである。そして、場所の「一転」をこえたばかりの西田にとって、行為は必ずしも即座に歴史的行為ではなかった。

我々の真の自己は歴史の世界の中に生死するのではない。歴史の中に生死するものは所謂意識的自己であって、叡智的自己の影像に過ぎない。(V, p. 163)

 これは『一般者の自覚的体系』所収の「叡智的世界」における西田の立場である。しかし後の著書『哲学の根本問題 続編(弁証法的世界)』所収の「現実の世界の論理的構造」ではこうなる。

真の現実の世界は我々がそれに於て生れそれに於て働きそれに於て死にゆく世界でなければならない、社会的・歴史的世界でなければならない。(VII, p. 233)

 この変化について考えるためには西田にとって「歴史」とは何かを調べてみなくてはならない。

西田にとっての「歴史」

 『善の研究』において、「歴史」はまったく議論の俎上に持ち上がらない。西田がはじめて歴史の問題を取り上げたのは『思索と体験』所収の「自然科学と歴史学」であった。この論稿は表題からも分かるとおり、学問対象としての歴史についてのものである。そこで歴史学は単に過去の出来事を一切のこらず記載・蒐集するのでなく、ある時代、事件の特性、個性を明らかにするものとして考えられる。

苟も歴史と称すべきものは、単に時間的順序に従うて、事実を集めたものではない、或一つの個性に基いて、事実を総合統一したものでなければならぬ。歴史の目的は或一つの人物とか、事件とか、時代とかいうものの個性を現すことにあるのである。(I, p. 282)

 『自覚に於ける直観と反省』でも歴史はさまざまな「見方の違い」によって生まれたさまざまな世界の一つとして対象的に捉えられている。

或一つのアプリオリに依って或一つの客観界が立せられる、数理のアプリオリに依って数理の世界が立ち、自然科学的アプリオリに依って自然科学的世界が立ち、歴史学的アプリオリに依って歴史的世界が立せられる。(II, p. 347)

 ここでは「歴史の立場も自然科学的立場と同じく、絶対意志の一の作用たる純粋思惟の立場に属して居る」(II, p. 320)にすぎないのである。
 「場所」を経た『一般者の自覚的体系』での西田においても歴史は対象的なものにすぎない。
  西田は「叡智的世界」のなかで歴史について次のように述べる。

カントは質料所与の原理として知覚的意識の如きもののみを考えたから、認識対象の世界として単に自然界という如きもののみが考えられたが、所与原理としての自覚的意識の意味を深めて行けば、自然界から合目的的世界に至り、更に自覚的意識其者を対象とする心理的世界に至り、遂に歴史的世界にまでも至ることもできるであろう。併しそれは何処までも認識対象界であって、我々の真の自己其者即ち叡智的自己のある世界ではない、我々の真の自己は歴史の世界の中に生死するのではない。歴史の中に生死するものは所謂意識的自己であって、叡智的自己の影像に過ぎない。(V, p. 163)

 それゆえ、真の自己は歴史をこえたところに設定される。真の自己とは自由なる人格をもつものである。
 「自覚的一般者に於てあるもの及びそれとその背後にあるものとの関係」ではこうある。

自由意志は歴史的限定を越えたものである、歴史的世界の外に、我々は自由なる人格の世界を有つのである。(V, p. 336)

 この書の「総説」でも同様に自由意志を歴史をこえたものとして捉えている(V, p. 467)。ここでは「歴史」は対象的なものにすぎないのだ。「一般者の自己限定」ではこう述べている。

意志的自己を越えて叡智的自己の立場に立つ時、そのノエマ的方向に歴史的世界が見られると共に、そのノエシス的方向に行為の世界が見られるのである。(V, p. 339)

 『自覚に於ける直観と反省』では単にアプリオリの違いとして片付けられていたものが、一般者の体系のなかでの位置を精緻化したという変化はあるかもしれない。しかしいずれにせよ見られたもの、対象化されたものにすぎない。そうやって見出される歴史の姿はかつて「自然科学と歴史学」で見られたそれと大差ない。つまり、歴史を見るとは、その個性を見るということなのである。同「一般者の自己限定」にて次のような一文がある。

具体的なる歴史的内容は、一社会の個性的文化の内容にあるのである。(V, p. 400)

 歴史はこのようにあくまでも特殊な個性ある対象的存在にすぎない。それがどうして「それに於て生れそれに於て死にゆく」と言いうるようになるのだろうか。それはやはり「転落」にすぎないのだろうか。
 はじめの「歴史」と後の「歴史」は意味が違うと考えなければ理解することは不可能だろう。「それに於て生れそれに於て死にゆく」「歴史」は普通言われるところの「歴史」と異なる意味をもっていなくてはならない。事実、「私と汝」の書かれた二ヶ月後に行われた講演のなかで西田はこのように語っている。

実在は歴史であるといってもよいが、普通の人の歴史ということと私のいう歴史ということとは意味がちがうので誤解され易いから此処では用いないが、歴史的ということが真の実在の形であると云ってよいと思う。(XIV, p. 167)

 「此処では用いないが」とあるがこの「歴史」について「時は現在から考えられるという様に現在から歴史を考えることが出来る。」(XIV, p. 169)と西田は説明を加えている。このような意味での「歴史」において西田は講演中にこう述べる。

我々は歴史の上に生れ歴史の上に死んでゆく。(XIV, p. 171)

 現在から考えられた時というのは、時々刻々に現在と面する「永遠の今」のことである。つまり西田は「歴史」という言葉で「永遠の今」を指すようになったのだ。
 『無の自覚的限定』の第一論文「表現的自己の自己限定」において、西田はこう述べている。

歴史的事実という如きものに至っては、既に絶対無の自覚的限定の意義を有するものとして、事実が事実自身を限定すると云い得るのである。(VI, p. 54)

 この「事実が事実自身を限定する」というのはその序でも触れられているように後に「永遠の今の自己限定」として考えられる事態である(VI, p. 6)。「私の絶対無の自覚的限定というもの」では「事実が事実自身を限定すると考えられる時、そこに永遠の今の自己限定の意味がなければならぬ。」(VI, p. 134)と述べられている。歴史とはまさにこの事態を指すようになるのである。
 これは普通の意味での歴史ではない。それゆえ西田は同論文でしばしば「原始的歴史」「原始歴史」という言葉を用いている。そうして普通の歴史、つまり「所謂歴史」からあくまで区別するのである。

私の所謂絶対無の自覚的限定として今が今を限定する瞬間的限定に於て、私の所謂原始歴史の事実という如きものが限定せられ、その現在的限定の意義を極小にすることによって自然界という如きものが構成せられるのである。自然が歴史に於てあるということの真の意義はかかる意味に於てでなければならぬ、所謂歴史に於て自然があるのではない、所謂歴史とは自然と同じくかかる原始的事実から構成せられたものである。(VI, p. 164)

 その「原始歴史の事実」なるものは、『善の研究』における「純粋経験」とまったく同じようなものとして考えられている。「此鳥が飛ぶ」という命題に対し、同論文では次のように述べられる。

まだ「此鳥」としての言表の内容が外に考えられて居るのでもなければ、此事実を見て居る「私」というものが内に考えられて居るのでもない。唯かかる命題によって言表せられる事実そのものが、自己自身を限定する今の内容として自己自身を見て居るのである。かかる事実を見て居る所謂私というものも、かかる事実に即して限定せられるのである。私の所謂事実そのものがあるというのは主観に於てあるのでもなく、客観に於てあると云うのでもなく、永遠の今の自己限定の内容として、直に自己自身を見、自己自身を言表する意味に於てあるのである(原始歴史の事実である)。(VI, p. 168)

 続く論文「永遠の今の自己限定」でも二つの歴史が同居している。ここでは「真の自己は歴史をこえている」という『一般者の自覚的体系』と同様の「歴史」が語られている。

自己自身を限定する我々の真の自己と考えられるものは、対象的限定に沿うて考えられる客観的時という如きものをも越えてあるもの、即ち、歴史を越えたものでなければならない。〔中略〕歴史の底に自由なる個人的自己というものが考えられるのである。(VI, p. 193)

 しかし「自由意志」というこれまでは歴史をこえたところの真の自己として扱われた概念を表題に持つ論文では、もはやそのような対象的な「歴史」に触れることさえしなくなる。この論文で、西田ははじめて自己を「歴史に於て生れる」と明言する。

時は自覚的限定によって成立し、自覚的限定と考えられるものは分離的なるものの統一として、愛の限定に基くとするならば、我々の実在界と考えるものは、その根柢に於て人格的というべく、我々に直接なる具体的世界というべきものは歴史的ということができるであろう。我々の個人的自己は歴史的事物としてかかる世界に於て生死するのである。(VI, p. 331)
我々は我々の使命を果すべく歴史に於て生れるのである。歴史によって我々に与えられるものは、解くべく与えられる課題の如きものでなければならない。我々は何物もなき所に生れるのではない、与えられた境遇に、与えられた性格を有って生れるのである。かかる限定の意義なくして個人というものはない。併し我々の自己は永遠の今の限定として、何時もすべての過去を消し、すべての未来を始める意義を有っていなければならない。(VI, p. 337)

 なるほど西田の「歴史」はその実「永遠の今」であり純粋経験的な「原始歴史の事実」である。だから「歴史の上に生れ歴史の上に死んでゆく」というときの「歴史」は必ずしも「特定の「一般者」」とはいえない。だが歴史という言葉がそうした「特定の「一般者」」を想起させやすいのは明らかである。そのため「普通の人の歴史ということと私のいう歴史ということとは意味がちがう」と前置きしたり、歴史と「所謂歴史」とを使い分けるなどさまざまな工夫が必要になっていた。
 しかしそうすると疑問が生まれる。なぜそうまでして「歴史」という言葉を使わねばならなかったのか。

私にもっとも直接なところで顕現する汝

 その疑問に答えるためには西田にとって「汝」とは何かを見てみなければならない。
 その概念の登場する代表的論文「私と汝」には奇妙な点がある。
 西田はまずこう述べる。

私を私として限定するものは、汝を汝として限定するものであり、私と汝とは同じ環境から生れ、同じ一般者の外延として之に於てあるという意味を有つと云うことができる。(VI, p. 348)

 そしてこうも述べる。

私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何等の一般者もない。(VI, p. 381)

 これは矛盾である。「歴史において生死する/しない」の場合と同じような矛盾が同一の論文で発生しているのである。
 この矛盾を理解するためには最初の「一般者」と次の「一般者」とが別の意味をもっていなくてはならない。私と汝が共に於てあることのできる一般者とはどういう意味での一般者か。その点について読み進めていくと、それはどうやら「無の一般者」と呼ばれる意味での一般者であることが分かる。

私の所謂無の一般者として、個物と個物とが相限定せられる(VI, p. 401)

 すると、私と汝は共に「無の一般者」においてあるが、しかし何等の「有の一般者」にも包摂されないということになる。しかし、「無の一般者」「有の一般者」とはどういう意味か。ここで場所の「一転」が想起される。有の一般者に対する無の一般者とは、具体的一般者を更に包むという意味での抽象的一般者、またその生滅の場所なのである。
 「自愛と他愛及び弁証法」にはこうある。

アリストテレスは判断の基礎を個物に置いた。かかる場合、個物が自己自身を限定することによって判断が成立すると考えねばならぬ、個物が一般者を限定するということができる。それが具体的一般者というべきものであり、個物が一般者ということができる。併しそれまでであって、それ以上のことを云うことはできない。前に云った様に、点から点に移る連続というものすら考えることはできぬ。かかるものが考えられるには、私の所謂無の一般者の限定として考えられるのでなければならない。(VI, p. 278)

 無の一般者とはまさにあの顕在から顕在へと矛盾に移り行く生滅の場所なのである。それは「行為的主観」の世界である。その無の一般者は「私と汝」ではどのように説明されるだろうか。
 まずそれは「永遠の今」である。具体的一般者を包む無の一般者は、まず飛躍的に連続する「永遠の今」である。

私と汝とは以上述べた如き意味に於て、永遠の今の自己限定として、即ち働くものとして、共に永遠の今に於てあるのである。(VI, p. 368)

 しかし、その「以上述べた如き」を辿るとそれは単なる「永遠の今」ではない。その「今」は「環境」である。

我々はいつでも何等かの与えられた環境に於てあるのである、与えられた現在に於てあるのである。而もかかる現在と考えられるもの、即ち環境と考えられるものは、絶対の無の限定として何処までも固定したものではない、閉じられた円ではない。環境が個物を限定すると共に、個物が環境を限定するのである。(VI, p. 363)

 環境から限定されるというと、「寒い環境では針葉樹が根付き、温暖な環境ではヤシ科植物が根付く」という「ある特定の環境ではある特定の種が栄える」式の考えをしたくなる。だが、ここでいう環境とはそのような「固定したもの」ではない。
 人間にとって環境はそのようなものではない。人は寒い環境にも温暖な環境にも住むことができる。それは人間が道具をつくって様々な環境に適応することができるからだ。人間は原理的には海の底にも宇宙の果てにも住むことができる。そして、「住むことができるようにする」ということは「個物が環境を限定する」ということでもある。

無の一般者の限定というのは単に限定するものがないという意味ではない。有るものは何かに於てあると考えられる如く、物は環境を有つと考えられねばならない。而もかかる環境は無限に広く無限に深く考えられるものでなければならない。物がその環境から限定せられると考えられるかぎり、それは有の一般者の限定と考えられるものであり、何処までも真の個物というものは考えられない。唯、例という如きものがあるのみである。物と環境との間に所謂合理的関係という如きものが考えられるかぎり、個物というものは考えられない。個物は環境に包まれ何処までも環境から限定せられるという意味を有すると共に何処までも環境から限定せられないものであり、却って環境を限定する意味を有ったものでなければならない。(VI, p. 344)

 そのような環境を西田は「環境を越えた環境」「超越的環境」とも呼ぶ。西田のいう「社会」というのもこのような意味をもつのである。

我々の個人的自己の環境と考えられる社会的意識と考えられるものも、かかる意味に於て永遠の今の意味を有ったものでなければならない。(VI, p. 350)

 だが以上のことを踏まえても疑問は深まるばかりだ。西田はこれまで「無の場所」、「無の一般者」といった表現を用いることで、いかなる特定の何かに対象化されることのないこの「今」を描き出そうとしてきた。それをなぜあえて「歴史」「環境」といった特定の何かとして理解されやすい言葉でもって表現し直すのか。これらの言葉が誤解されかねないということは「原始歴史」や「環境を越えた環境」といった表現からみても西田は理解していたはずである。
 ここでまずそもそも「無の場所」「無の一般者」が何を目指していた表現だったかを振り返ってみよう。「赤は色である」という判断について、赤、青、黄色といった個々の概念から見てみれば「色」それ自体の概念は無であるといえる。その赤もその実その下位の特殊概念、たとえば「マゼンダ」「カーマイン」「緋色」「紅色」云々から見てみるならば無であり、またその「マゼンダ」といった概念も実際に見られた「この」赤から見るならば無である。このように一般‐特殊の特殊の方向の極限に見出された「この」赤がアリストテレスの言う「主語となって述語とならない基体」に相当する。
 西田はこれに対して「述語となって主語とならない基体」を見出した。色は音などとともに知覚に包摂せられ、知覚はさらに「知覚、思惟、意志、直観」(IV, p. 272)と並べられてそれらを包摂する一般者を予想させる。この最高位の一般者はもはや一般概念として記述することができない。「左右田博士に答う」にて「私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。」(IV, p. 322)と言われる所以である。「意志を意識するものは判断をも意識するものである。」(IV, p. 237)と西田の示す「意識」が「述語となって主語とならない基体」である。
 単に「一般概念として限定せられない」ときくと、ただの無規定で無内容な概念として「無の場所」を理解してしまいかねない。だが実際には西田が述語の極限の方向に見た無はアリストテレスが主語の極限の方向に見たものとほとんど同じである。「意識」と言うが、彼がここで示そうとしているのは「誰かの」意識ではない。あくまでもアクチュアルな「この今」なのである。

包摂関係に於て、特殊が何処までも特殊となって行くということは一般が何処までも一般となって行くということでなければならぬ、一般の極致は一般が特殊化すべからざるものとなるのである、すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである。〔中略〕主語の方向に於て無限に達することのできない本体が見られる如く、述語の方向に於て無限に達することのできない意志が見られるのである。而してその極、主語と述語との対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる。(IV, p. 284)

 この直観はすでに見たように「判断すら加わらない前」の「刹那」の今である。これこそ「無の場所」「無の一般者」なのだ。
 次に西田の「汝」について調べてみよう。彼の言う「汝」は必ずしも個人としての他者ではない。
 まず、西田にとっては過去の自分、未来の自分もまた汝であるということは既に何度も触れた。だがそれだけではない。『無の自覚的限定』に続く著書『哲学の根本問題(行為の世界)』ではこのように述べている。

私に対するものは、すべて汝の意味を有っていなければならない。私と汝というのは単に個人と個人との対立を意味するのではない。我々の自己が絶対の否定面即肯定面に於てあるものとして、絶対否定を隔てて相見る時、私に対するものは、山も、川も、木も、石も、すべて汝の意味を有つのである。(VII, p. 59)

 私に対するものはすべて汝の意味を有つ。それだから論文「自由意志」に述べられた「解くべく与えられる課題」「与えられた境遇」「与えられた性格」もまた汝なのである。しかし、「私に対するものはすべて汝の意味を有つ」という以上、さらに深い意味がなくてはならない。
 「山がある」と私が言う。このとき、山が汝として私に対している。汝というからにはそれは単に私にむかってあるだけではない。私が山に向かって呼びかけることができるように、山もまた私に向かって呼びかけることができなくてはならない。そうでなければあえて「汝」という言葉を使う意味はないはずだ。山があることを知る。単なる対象的な知であれば、それを「汝」と呼ぶ必要はない。
 だが、山があることを知る、ということは本当に単なる対象的な知にすぎないのだろうか。西田にとってはそうではない。『善の研究』でもすでにこのように述べている。

我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。花を研究して其本性を明にするというは、自己の主観的臆断をすてて、花其者の本性に一致するの意である。(I, p. 94)

 『自覚に於ける直観と反省』ではさらに明確に次のように言われる。

 「甲が甲である」ということを我々は「甲」を反省するという、併し「甲」其者から見れば「甲」なる意識が己自身の根柢に還り行くことである、換言すれば一層深き実在たる統一的「甲」が己自身を顕現することである。(II, p. 63)

 西田は判断を判断される「「甲」其者」から見る。それはつまり花を見たときは花そのものから見ることであり、山を見たときは山そのものから見ることである。そして「花がある」とか「山がある」という判断を花そのもの山そのものが自己自身を顕現することと考えるのである。
 この事態を論文「場所」では「私が色を見る」ならぬ「色が色自身を見る」という言葉で表現する。

真の無の空間に於て描かれたる一点一画も生きた実在である。斯くして始めて構成的範疇の世界の背後に於ける反省的範疇の対象界を理解することができるのである。此の如きものを叡智的実在と考えるならば、それは単に働くものではなく見るものでなければならぬ。色が色自身を見ることが色の発展であり、自然が自然自身を見ることが自然の発展でなければならぬ。(IV, pp. 250-251)

 「構成的範疇の世界の背後に於ける反省的範疇」とはこれまでも度々触れた「具体的一般者の背後の反省的一般者」のことであり、つまりは有の一般者の背後の無の一般者のことと考えられる。そこでは見られる色や自然の方が「生きた実在」として自らを顕すのである。
 ただしこのことはこれまでは色や自然の「汝」性という観点からは語られてこなかった。このレトリックで重要なのは判断する私、見る私というものが無化することである。「自己の主観的臆断をすてて」という観点からこうした表現は使われていたのである。
 「直覚的知識」ではこう言われている。

かかる〔叡智的自己の〕場合、考えられる自己即ち意識的自己は既に消失せるが故に、色が色自身を見、音が音自身を聞くと云ってよいのである。(V, p. 204)

 このように意識的自己の消失という点を強調するために「色が色自身を見る」と述べられていたのである。それはつまり純粋経験の「事実そのまま」を言い表したものといえよう。我ならずして事実が事実自身を見るのである。
「事実が事実自身を限定する」という言葉もこのことを言ったものである。
 このもっとも直接の経験は、いかなる恣意・臆断にも曲げられることはない。我々の主観・意識を絶対に否定してそれと関係なく事実の側から顕現するのである。そこに「汝」の意義がある。こうして意識的自己の消失という消極的側面から見られていた事態が「汝」の顕現という積極的側面から語られなおされる。先に「私の絶対無の自覚的限定というもの」で「原始歴史の事実」として示された「自己自身を見、自己自身を言表する」ものというのも、こうした「汝」の顕現なのである。
 ここに「無の場所」「無の一般者」が「歴史」と呼ばれ得る根拠がある。「無の場所」の無なる所以は我々の側から対象化、一般概念化できないところにあった。だがその「無」は決して無規定・無内容を意味するのではない。それはむしろアクチュアルな「今」の直観を示しているのである。それだから、「無の場所」を単にいかなる特定の何かでもないと説明することは物事の半面しか捉えていない。確かに我々の側から現実を特定の何かとして記述することは常に歪曲を孕むだろう。だが現実の側から見るならば、事実の側から見るならば、それは決して無規定な何かではない。特定の「これ」として自らを顕現する「汝」なのである(この「特定」は一般‐特殊の軸で理解される「特定の「一般者」」ではなく、単独性、一回性として理解されるべき「特定」である)。それゆえこの「汝」は我々に特定の「使命」と特定の「課題」を与える特定の「歴史」たりえるのだ。
 この私にもっとも直接なところに顕現する「汝」を、「私と汝」では「自己自身の底に絶対の他がある」(VI, p. 382)と表現する。「真の直観」とはこのように「自己の内から他に移る」(VI, p. 383)ことである。

私が私自身を知るというにも、物が私に呼びかけるということがなければならない。我々が自己に於て見る感覚的なるものが、他として私に呼びかけることによって、私は私自身を知ると云うことができるのである。(VI, p. 397)

 もっとも自己に直接なものの他性。これこそが「絶対の他」と呼ばれているものである。個人としての私と汝はここから現れ出るのである。
 あらゆる出来事がそうであるように、他者と出会うという出来事もまた現在に起きるものでなくてはならない。過去の出来事であれ未来の出来事であれ、それが実際に起きたのはその時その現在である。メールや手紙などで二者の間に時間差があったとしてもそれを読み他者に触れる「今」がなければ出会いは成立しない。まさに今会うという以外の仕方で人に会うことはできない。「共に永遠の今に於てある」と言われる所以である。そのもっとも直接的な「今」はそれ自体が「絶対の他」である。それゆえ私と汝の出会いは「絶対の他を媒介として汝と私とが結合するということ」(VI, p. 398)と言える。声も表情もあるいは文字も、すべて「自己に於て見る感覚的なるものが、他として私に呼びかける」のである。感覚的なものの媒介によって意志を疎通することにはこのように「絶対の他」を媒介するという意味があるのである。
 だがそれだけでは単に物質を媒介として意志を疎通するという従来言われるところと何ら変わらないのではないかとも思われるだろう。先に物質や感覚と呼んだものを「絶対の他」と言いかえたところで何が変化するのか。物質を媒介として汝を認めるということと、「絶対の他」を媒介として汝を認めるということと何が違うのか。
 違いは「汝を認める」ということの意味にある。「汝を認める」ということは普通他者の存在を認めるとか意識を認めるといった要するに「他我」を認めることとして考えられる。だが、西田の「絶対の他」の考え方はそもそも自我を認めることについての考え方が異なるのだから他我を認めるということについても普通と違った見方をとる。西田にとって「私が私自身を知る」とは自己自身の底に「絶対の他」を認めることであった。それゆえ汝を認めるということは汝自身の底にもまた「絶対の他」を認めるということである。汝もまた一瞬一瞬の今を「絶対の他」と直接している、このことを認めるのである。

私と汝とは各自の底に絶対の他を認め、互に絶対の他に移り行くが故に、私と汝とは絶対の他なると共に内的に相移り行くと云うことができる。(VI, p. 391)

 汝の底にも「絶対の他」を認めるということは私が「絶対の他」として汝の底に顕れていることを認めることでもある。それが「互に絶対の他に移り行く」の意味である。それゆえ西田はこうも表現している。

私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対の他なるが故に内的に結合するのである。(VI, p. 381)

 この「内的に結合する」とはどういうことだろうか。「張公酒を喫して李公酔う」式の自他未分的な共感を指しているのだろうか。だが西田の記述に従うかぎり即座にそうは言えない。

我々が各自の底に絶対の他を認め互に各自の内から他に移り行くということが、真に自覚的なる人格的行為と考えられるものであり、かかる行為に於て私と汝とが相触れるのである、即ち行為と行為との応答によって私と汝とが相知るのである。〔中略〕故に私は汝と同感することによって汝を知るよりも、寧ろ汝と相争うことによって一層よく汝を知ると云うことができる。(VI, p. 392)
私の意識は他人の意識となることはできないという意味に於ては、私は絶対に他人の意識を知ることはできない。絶対に対立するものの相互関係は互に反響し合う、即ち応答するということでなければならない。何処までも独立に自己自身を限定するものが、自己限定の尖端に於て相結合するのが応答ということである、そこには所謂自他合一と正反対の意味がなければならない。(VI, p. 393)

 「絶対の他」というのはそもそも自己にとってもっとも直接で内的なものである。それゆえ誰かの「絶対の他」となるということはその誰かときわめて内的に結合することである。軽く話を聞いて誰かに共感することと比べれば、目の前の人と言い争うことはよほど「内的に結合」していることになる。なぜならそのとき互いに互いが「解くべく与えられる課題」として意識され応答されているということだからである(いわゆる共感も、このような「絶対の他」によって可能になる。泣き止まない友に何かしてやりたいと自らも悲しくなるというような共感はその友の姿が「他として私に呼びかける」ことで生まれる)。

西田にとっての「愛」

 西田の愛に関する議論は以上のことを押さえておかないかぎり理解できないだろう。
 『善の研究』において、愛とは活動的統一の要求であった。自愛とはそのような統一的要求の個人的自己におけるあらわれであり、他愛とは自己と他人とを包含した超個人的統一の要求である。

故に我々は他愛に於て、自愛に於けるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の根本なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。(I, p. 101)

 すでに触れたように個々人の関係と「昨日の意識と今日の意識」の関係の対比というモチーフではじめてその個々の「独立」の側面が触れられたのが愛、それも神の「無限の愛」との関係においてである。西田の言うには我々の個人性は「神の発展の一部」であり「その分化作用の一」である。だがそれは個人性が虚幻のものとして無意義になることではない。

凡ての人が各自神より与えられた使命をもって生れてきたというように、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成するのである。(I, p. 193)

 このようにして西田は『善の研究』においても個々人の独立性にも触れている。だがそれはあまりに僅少であるというのはすでに述べたとおりだ。それゆえ愛はもっぱら自他合一の側面から語られる。「知と愛」の章ではこのように述べられている。

我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直に自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。愛は他人の感情を直覚するのである。池に陥らんとする幼児を救うに当りては、可愛いという考すら起る余裕もない。(I, p. 198)

 「与えられた使命」という言葉に後の「解くべく与えられる課題」という言葉を嗅ぎ取ることは可能である。「池に陥らんとする幼児を救う」というのもこのような「課題」として自己に迫るのだと考えることもできる。共感というのも根本には我々に差し迫る「汝」の意義をもつ、と言うこともできるだろう。
 だが、『善の研究』の段階の西田はそのような「汝」の側面を深く掘り下げることはなかった。愛とは統一の要求のことで、それゆえ自愛と他愛とは連続的なのである。
 『無の自覚的限定』の西田において、自愛と他愛とはもはや連続的ではない。「自愛と他愛及び弁証法」を見てみよう。
 この論文で、まず西田は「欲求とは如何なるものであるか」(VI, p. 260)と問うところからはじめる。それは単なる生理作用ではない。我々が渇きを覚え水を飲むというのは、体内のH2Oが減少したためそれを補う、ということと同じではない。それは後から説明したものにすぎない。この点については『善の研究』でも次のように述べられている。

我々は生きる為に食うという、しかしこの生きる為というのは後より加えたる説明である。我々の食欲はかかる理由より起ったのではない。小児が始めて乳をのむのもかかる理由の為ではない、ただ飲む為に飲むのである。我々の欲望或は要求は啻にかくの如き説明しうべからざる直接経験の事実であるのみならず、かえって我々がこれに由って実在の真意を理解する秘鑰である。(I, p. 120)

 このことを「自愛と他愛及び弁証法」では次のように述べられる。

渇を覚える我は水素二、酸素一の水を求めるのではなく、清らかな旨い水を求めるのである。すべて我々に対して直接にあるものは、単なる知的対象ではなくして、欲求の対象ということができる。すべてのものが我々に対し関心の意義を有って居るということができる。花は美しき花であり水は味よき水である。すべてが我々の心を唆るもの、情意的内容を有ったものと云うことができる。〔中略〕私は右の如き意味に於て我々に対し直接にあるもの、即ち具体的有と考えられるものは、その根柢に於て自己自身を表現する意義を有ったものと思う。(VI, p. 261)

 「自己自身を表現する意義を有ったもの」。この表現は「「甲」が己自身を顕現する」や「色が色自身を見る」といった表現と同じ意義をもったものとして理解すべきである。水が水自身を顕現し水自身を表現するのである。先に「説明しうべからざる直接経験の事実」と見做されたものはそのまま「絶対の他」の顕現となる。そのような汝として水は我々を衝き動かす。「我々の心を唆る」のである。
 しかしこのような欲求と愛とは異なるものである。

欲求に於ては、スピノーザのいう如く我々の自己は小なる完全から大なる完全に移ることによって喜ぶと云い得るかも知らぬが、愛に於ては、自己が自己を否定することによって喜を得るのである。些にても自己の欲求の満足という意味が含まれて居るかぎり、純なる愛ということはできない。(VI, pp. 272-273)

 「小なる統一より大なる統一にすすむ」(I, p. 33)こと。それこそが純粋経験の活動的統一であった。欲望もまた「大なる統一を求むるより起こる」(I, p. 100)もので、愛はそこから「更に進んで一層大なる統一を求め」(I, p. 101)るところに起こる。『善の研究』はこのような立場だった。それゆえ愛は自他合一として語られたのである。
 だがいまや愛は単なる自他合一ではない。

真の愛は敬を含まねばならない、然らざれば欲であって愛ではない。(VI, p. 277)
普通に愛ということを単に自他合一と考えて居るが、その根柢には敬がなければならない、単なる自他合一は愛ではなくして一種の衝動に過ぎない。(VI, p. 278)

 この変化はなぜ起きたのか、と考えるとき、活動的統一の地位に起こった「一転」、つまり場所の「一転」が想起される。つまり具体的一般者とその背後の無の一般者という考え方である。重複した引用になるが、この「単なる自他合一は愛ではなくして一種の衝動に過ぎない」という言葉は以下のような文章のなかにあらわれる。

自愛というものなくして他愛というものはない、併し真の他愛というものなくして真の自愛というものもない。普通に愛ということを単に自他合一と考えて居るが、その根柢には敬がなければならない、単なる自他合一は愛ではなくして一種の衝動に過ぎない。アリストテレスは判断の基礎を個物に置いた。かかる場合、個物が自己自身を限定することによって判断が成立すると考えねばならぬ、個物が一般者を限定するということができる。それが具体的一般者というべきものであり、個物が一般者ということができる。併しそれまでであって、それ以上のことを云うことはできない。前に云った様に、点から点に移る連続というものすら考えることはできぬ。かかるものが考えられるには、私の所謂無の一般者の限定として考えられるのでなければならない。かかる一般者の自己限定として主語的に、即ち対象的に点から点への連続が考えられるのである。(VI, p. 278)

 自愛と他愛の議論がシームレスに具体的一般者とその背後の無の一般者についての議論につながる。無の一般者の限定においても個物が自己自身を限定する具体的一般者について考えることはできる。また活動的統一について考えることもできる。だが、それはもはや以前のように単なる連続ではない。「点から点への連続」である。そのような連続として欲求は考えられる。

自己自身を愛することによって有ると考えられる我々の自愛的自己というのは、かかる意味に於て有るものでなければならぬ、即ち無の一般者の限定に於ける個物の意味を有ったものでなければならぬ。それは何処までも自己自身の連続を維持しようという点に於て、無限の欲求でなければならぬ。我々の自己が主語的有としてあるということは欲求としてあるのである、欲求なくして自己というものはない。併し自己自身を限定する現在が単に連続としてあるのでなく、非連続の連続としてある如く、自愛的自己は自己自身を否定することによって自己を肯定する愛の限定としてあるのである。(VI, p. 279)

 「大なる統一を求むる」活動的統一として考えられた欲求はその実「点から点へ」の非連続を含みつねに他との関係を含んでいる。欲求という連続は愛という非連続の連続においてあるのである。
 欲求、自愛はこのような連続である。「自己自身の連続を維持する」ことである。しかしそれはつまりどういうことか。渇きを覚えた人の前に水は自己自身を表現する他なるものとして顕れる、と先に言った。だがこの他なるものは結局のところ「渇きを癒すもの」として見られているのである。喉が渇いたので水を飲む、それで渇きが癒される。欲求の対象としての水は結局のところ「自己の欲求の満足」を見越した連続的な過程に回収されてしまう。これは水という他なるものを自己の内に回収してしまうことである。だが、逆から言えばこの連続的な過程はどうしようもない渇きに衝き動かされてやむにやまれず水を飲む、と見ることもできる。渇きという感覚的なる他なるものの衝き動かすままに水を飲む、という自己を失う事態として見ることもできるのである。
 愛は、このような連続には回収されない。水を飲もうとするとき、水は「渇きを癒すもの」であり続けることが求められる。それ以外のあり方は求められていない。だが愛において、人は相手に一定のあり方を強制することはできない。相手は瞬間瞬間に自由であり予期せぬ行動を起こす可能性がつねにある。愛とはそのような汝を愛することである。「私と汝」では次のように述べている。

真の愛というのは何等かの価値の為に人を愛するのでなく、人の為に人を愛すると云うことでなければならぬ。如何に貴き目的であっても、その為に人を愛すると考えられるならば、それは真の愛ではない。真の愛とは絶対の他に於て私を見るということでなければならなぬ。そこには私が私自身に死することで汝に於て生きるという意味がなければならぬ。(VI, p. 421)

 死することで生きる、とはどういうことだろうか。これは一見ある種の自己犠牲について述べた言葉のように見える。しかし「死して生れる」という言葉は西田にとって単に通常考えられる自己犠牲について述べたものではないようである。というのも、この表現は西田が生命を語り時間を論ずるときに頻出するからだ。

私は是に於て真の生命の過程というものを明にして置かねばならぬ。真の生命というべきものは、ベルクソンの創造的進化という如き単に連続的なる内的発展ではなくして、非連続の連続でなければならぬ。死して生れるということでなければならぬ。〔中略〕然らざれば、何処迄も対象的限定の意義を脱することはできない。我々は我々の個人的自己の自己限定の底に於て、絶対の無に撞着するのである、明日の我として蘇ることを越えて、再び自己として蘇らないもの、唯、他人として蘇るものに撞着するのである。(VI, pp. 356-357)

 「死して生れる」。この表現について、小林敏明は「生死」ではなくて「死生」という順番にその特異性があると指摘する(小林, 2013, p. 100)。普通生命は「生まれて死ぬ」と表現される。それは同時に時間を「始まって終わる」ものとして、つまりある一定の長さの連続をもったタイムスパンとして表象することでもある。しかし西田は「死して生れる」と言う。これは通常とは全く逆である。「始まって終わる」という連続ではなく「終わって始まる」という転機の瞬間、これこそ「死して生れる」という言葉の示しているものなのである。
 愛もまた、このもっとも直接で自明な「今」抜きに考えられるものではない。自己に直接するという意味を欠いた愛は空虚である。「池に陥らんとする幼児を救う」という例を先に挙げたが、このような愛を結局は自分の心の平安を守り自らの満足を得ようとする利己的な感情として解釈することは可能である。このように解釈するとしたなら、そうした利己的行為から区別されるべき真の他愛はいかなる自己の満足も帰結しないものでなくてはならないということになる。血も涙もなく人を助ける、義務なるがゆえに人を助ける、それこそが真に利他的な行為と考えられる。だがそれは考えられた義務、考えられた倫理を経由した行為でしかない。「池に陥らんとする幼児を救う」とき、自己の満足を求めて助けているのではない。ただ幼児を救うことに満足を抱き、救えないことを恐れるのである。このアクチュアルな感情がなくては愛とはいえない。それゆえ「自愛というものなくして他愛というものはない」とまず言うことができる。
 だが、そのアクチュアルな感情の生じる「今」はその実つねに「死して生れる」瞬間である。瞬間ごとに予期できない汝を愛すること、それが真の他愛である。だがそれはとりもなおさず瞬間ごとに自由である自己を肯定することでもある。それゆえ「併し真の他愛というものなくして真の自愛というものもない。」と西田は続ける。
 「自愛と他愛及び弁証法」ではこう述べている。

我々の真の自己とは瞬間的限定の底から自己自身を限定するものでなければならない、我々の真の瞬間的限定に於て永遠なるものに接するのである。我々は日常時々刻々に瞬間に接して居ると考えて居る、併しその実、我々はいつも唯、過去に接して居るのである、瞬間に接して居るのではない、単に因果に押し流されて居るのみである。唯、我々が真に一身を賭する時のみ、真に決断する時のみ、我々は真の瞬間に触れるのである。〔中略〕我々は肉体的自己を脱却して永遠の無に接すると考えられる時、そこに我々は個人的自己を失うのではなく、歴史人として却って真の個人的自己を有つのである。かかる意味に於ける個人に於ては、自愛は即他愛であり、愛の自己限定が直に当為でなければならぬ。(VI, pp. 290-291)

 「肉体的自己」というのはただ「過去に接して」考えられたものである。それは文字通り「生まれて死ぬ」ものとして自己自身の連続を維持するために欲求に衝き動かされる。だがそこから逆に「死して生れる」とき、つまり「真に決断する」とき、我々は真に自由たりえる。そこに真の愛もあるのである。歴史も愛も汝も、この「今」にあるのである。

アガペの世界

 しかし、このような個人的自己における他愛からは即座に『善の研究』において個々人の独立性を裏付けた神の「無限の愛」を理解することはできないだろう。「私と汝」でこの「無限の愛」に相当する概念がアガペである。エロスと対置されたアガペは一見ただ自愛に対する他愛と同等のものに思える。だがアガペはあくまでも神から発せられる愛である。先に引用した「真の愛」に関する「私と汝」の文章はさらに以下のように続く。

真の愛とは絶対の他に於て私を見るということでなければならぬ。そこには私が私自身に死することによって汝に於て生きるという意味がなければならぬ。自己自身の底に絶対の他を見ることによって、即ち汝を見ることによって、私が私であるという私の所謂絶対無の自覚と考えられるものは、その根柢に於て愛の意味がなければならぬ。私はキリスト教に於てアガペと考えられるものにかかる意味があると思うのである。アガペは憧憬ではなくして犠牲である、神の愛であって人間の愛ではない、神から人間に下ることであって人間から神へ上ることではない。〔中略〕人間のアガペは神の愛の模倣と考えられる。而してアウグスチヌスが神の愛によって私が私であるものであると云う如く、神の愛によって私が真の私なのである。(VI, p. 421)

 アガペは犠牲である。だが人間の犠牲ではなく神の犠牲である。それがために「私が真の私なのである」といえるような愛である。そしてそれは汝が汝自身であることの根柢でもある。つまり『善の研究』で言われていたように「凡ての人格の独立を認める」愛である。「私と汝」は以下の文章で終わる。

私と汝とは同じく歴史に於てあり、歴史によって限定せられたものとして、神の創造物である。私は神の創造物として私自身の如く、神の創造物としての汝を愛するのである。私と汝とがアガペに於てあるということは、私と汝とが神の創造物として歴史的世界に於てある意味を有っていなければならない。(VI, p. 427)

 アガペは人間の「私自身の如く汝を愛する」という他愛をその底で支える。「アガペに於てある」ということは「歴史的世界に於てある」ということでもある。アガペはあくまで神からの愛であって、「凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認める」愛である。この「アガペ」について理解するためには、西田の続く著書を読む必要があるだろう。
 私という個人でも汝という個人でもなくその背後の歴史的世界から愛というものを考えるということ。つまり自己からでなく世界から考えるということ。それこそが続く著書『哲学の根本問題(行為の世界)』(以後『行為の世界』)及び『哲学の根本問題 続編(弁証法的世界)』(以後『弁証法的世界』)のテーマであった。
 『弁証法的世界』の序にて西田は言う。

「無の自覚的限定」の中に収めた「私と汝」に於て論じた所は個物的限定、ノエシス的限定の立場が主になったものであった、従って尚個人的自己の立場から世界を見るという立場を脱していない。(VII, p. 210)

 そう言って西田は、自己から見るのではなく世界から見る立場に移行しようとする。しかし、この移行はその実「個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである」という西田のもともとの立場に徹することでもある。それこそが「世界を中心として」考えることなのだ。「意識というものは独我論者の考える様に、単に個人に属したものではない」(VII, p. 234)と彼は言う。
 『善の研究』では経験は単に個人に属したものでないというときその経験とは純粋経験だった。では「私と汝」を経た西田にとってこの単に個人に属したものでない意識とはどのようなものだろうか。西田はこのように述べる。

各人が各人の意識を有つと考えられるが、意識というのは各人に属するものではなくして、一種の公の場所でなければならない。各人の意識というものはかかる意識面の個別に考えられたものである。右の如き表現的世界の自己限定、表現的一般者の自己限定というものが了解と考えられ、又志向作用と考えられるのである。(VII, p. 347)

 表現的な「公の場所」。それは要するに言語ではないか。「個人というものが先ずあって、それから言表というものが成立するのではない。」(VII, pp. 331-332)と彼は断言する。また「何等かの言語というものなくして、意識というものはないとすら考えることができる。」(VII, p. 302)と言う。すると西田は個々人の存在の前に言語の規則のようなものが存在すると言いたいのだろうか。そうではない。西田の「表現」はそのようなものではない。

絶対に相独立するものを媒介するものが表現と考えられるものである。私と汝とは内的にも外的にも結び付かないものである。而も私と汝とは言表にとって相交わると考えられるのである。斯くして表現的世界というものが考えられるのである。(VII, p. 346)

 表現とはこのように「内的にも外的にも結び付かない」私と汝という「絶対に相独立するものを媒介するもの」である。そこにあらかじめ共有されるような言語の規則はない。この「限定するものなき限定の世界、表現の世界」においては「我々の一歩一歩が冒険」(VII, p. 297)なのである。言語の規則において私と汝はともにあるのではない。一歩一歩の冒険において私と汝はともにあるのである。
 ただし、この「公の場所」が言語の世界、概念の世界にまで通じていることは明らかだ。西田は私と汝とが相逢うこの「今」という場所を言葉が飛び交い概念が取り交わされる場所として理解しようとしている。「弁証法的一般者」と関係して「具体的一般者」という術語の地位が変化するのはここに理由があるのだろう。
 すでにみたように、具体的一般者は場所の「一転」に際して絶対無の場所、生滅の場所にあくまでも包まれる低次のものとされた。その「一転」は「判断すら加わらない前」の「今」のインパクトを再び掴むためにはどうしても必要なことだった。だがそもそも具体的一般者という考え方は判断と概念の世界を何か自己から遊離したものと見做す考えを避けるために見出されたものだ。言葉を取り交わす私と汝を問題にする西田は、そのため再び具体的一般者に重要な地位を与えることになる。「真の具体的一般者の限定即ち弁証法的一般者の限定」(VII, p. 184)と彼は言う。
 だが、ここでポイントとなるのは「真の具体的一般者」と言うところにある。「真の」という形容を見逃してはならない。彼はそれとは別に「所謂具体的一般者」についても言及する。

真に個物を媒介する一般者の媒介作用と考えられるものは、絶対の否定即肯定、断絶の連絡という意味を有っていなければならない。弁証法的運動は個物が個物自身を限定するということから始まらねばならない。〔中略〕併しかかる意味に於て個物を限定する一般者と考えられるものは、一般が個物を限定し、個物が一般を限定するという意味に於て、尚連続的に考えられる所謂具体的一般者の限定に対しては逆限定の意味を有っていなければならぬ、寧ろ之を包む意味を有っていなければならなぬ、一般者の一般者という如き意味を有っていなければならぬ。私の無の一般者の限定というものはかかるものを意味するのである。(VII, 16-17pp.)
真の個物は何処までも所謂具体的一般者の限定を越えたものでなければならない。そこには絶対に限定するものなき限定というものが考えられねばならぬ、真の非連続の連続というものが考えられねばならない。そこに私と汝とが話し合うということがあるのである。(VII, 271p.)

 「真の具体的一般者」と「所謂具体的一般者」とはその内実を異にするものである。「無の一般者」は「所謂具体的一般者」に対し「寧ろ之を包む意味」をもっている。一方「無の一般者」はその実「弁証法的一般者」で(VII, 318p.)、その「弁証法的一般者」は「真の具体的一般者」である。
 「連続的」と考えられた「所謂具体的一般者」に対し、「真の具体的一般者」は「現在」と考えられる。


真に主語となって述語とならないヒポケーメノンというのは、アリストテレスの考えた如き主語的個物ではなくして、自己自身を限定する現在という如きものでなければならない。かかる現在の自己限定によって判断というものが成立するのである。真の具体的一般者というべきものは、かかる意味に於ての現在という如きものでなければならない、我々の現実の世界と考えるものでなければならない。(VII, p. 81)

 この「真の具体的一般者」は筆者が先に触れた「永遠の今」に畳み込まれた「分化発展」にまったく相当するものと考えられる。そのような「分化発展」として現在が現在自身を限定するのである。
 しかし「分化発展」といえばやはり時間的な流れを連想してしまう。過去や未来との関わりを通常の時間的な流れに理解されてしまうと、再び「今」のインパクトは見失われざるをえない。
 だが「真の具体的一般者」つまり「弁証法的一般者の限定」はそのような時間的なものではない。ここで西田はこれまで多用された「昨日の私と今日の私」と「私と汝」の類比というモチーフの対等性をはじめて崩す。『行為の世界』及びその『弁証法的世界』で彼は明確に「私と汝」の関係に重心をおくのである。

真の弁証法的限定というべきものは昨日の私と今日の私との間にあるのではなく、私と汝との間にあるのである、時間的なるものの間にあるのでなくして、寧ろ空間的なるものの間にあるのである、主観的なるものと客観的なるものとの間にあるのである。(VII, pp. 136-137)
我々の個人的行動と考えられるものも、単に直線的に起り直線的に結び付いて行くのでなく、それが人格的と考えられるかぎり、時を包む立場、子も親から生れないという立場から起ると考えられなければならない。それは昨日の私と今日の私とが相逢うという立場からではなく、一即多、他即一の弁証法的限定として私と汝と相逢うという立場から起ると考えられねばならない。非連続の連続として昨日の私と今日の私と相逢うということは、かかる絶対の非連続の連続の立場から成立するのである。(VII, p. 281)

 「真の弁証法的限定」は「私と汝」という「空間的なるものの間」にある。「昨日の私と今日の私」を私と汝と見做して「相逢う」と考えることができるのも、その実この「絶対の非連続の連続」によって成立するのである。この「真の弁証法的限定」の根底となる「空間的なるもの」について、西田は『弁証法的世界』の序でこのように述べている。

 かかる弁証法的一般者の世界は何処を中心として何処から考えられるものであろうか。〔中略〕唯、現在が現在の中に自己矛盾を含み、現在が現在自身を限定するということからかかる世界が考えられるのである。故に限定するものなき限定としてかかる世界は創造的と考えられる。我々が行為的自己の立場に立つ時、この世界は主観が客観を限定し客観が主観を限定する行為的直観の世界である。〔中略〕併しかかる過程から現実の世界が考えられるのではない、却ってかかる過程は現実の世界の自己限定から考えられるのである。行為的現実の世界と考えられるものは云わばいつも空間的統一の意義を有ったものでなければならない、行為には足溜がなければならない。世界は単に連続的に移り行くものではない。無論空間的統一といっても、それが静止的であると云うのではない。それは肯定面即否定面、否定面即肯定面として矛盾の統一と考えられるものである。(VII, pp. 207-208)

 「弁証法的一般者の世界」はあくまでもこの「現在」から考えられる。「現在が現在の中に自己矛盾を含み、現在が現在自身を限定する」ところから考えられる。ここに行為もまた可能になる。だがいまや西田は行為を自己から考えるのではなく世界から考える。そのとき世界は行為の「主観が客観を限定し客観が主観を限定する」過程によって考えられるのではない。そうではなくて、そのような行為を可能にする「足溜」、つまり現在の底にある「空間的統一」から考えられるのである。この「中に自己矛盾を含」む「矛盾の統一」と考えられる「空間的統一」は「絶対の非連続の連続」である「私と汝と相逢うという立場」とも考えられる。
 時間の底にある空間、という考えは実のところ『自覚に於ける直観と反省』にすでにあらわれていた。数学と幾何学についての議論に続いて西田は「数の系列とか時間とかいうものの成立」の根柢に統一を要請し、その統一を「空間」と見做す。分離数に対して連続が主体であったように時間に対して空間が主体である、と言うのである(II, p. 193)。
 数や時間の系列そのものを考えることが可能なのはそれを「於てあるもの」として包み込む高次の立場があるからである。それこそが空間である。この数学と幾何学、つまり解析幾何学の議論はすでに触れたように我々の自覚のあり方についての議論に直結していた。分離数に対する連続というのが「考えられたもの」に対する「考える作用」「自覚」としてみられる。では「空間」は自覚の議論において何に相当するのだろうか。それはまさに「私と汝」の世界である。

或一個人の自覚の形式が一の直線である。純粋幾何学の直線というのは極めて抽象的な個人の自覚である。而して或一人の個人が自覚するということは他の個人の無限なる自覚を許さねばならぬ、即ち自分を認めるということは自他の関係を認めることでなければならぬ。或一つの方向に於て直線的関係を認めるということは、他の方向に於ける同様の関係を認めることとならねばならぬ。〔中略〕余は道徳的社会と純粋空間とは同一の根拠を有ったものと考える。(II, p. 211)

 ある数の系列が一つの直線としてみられうるためにはそのおいてある空間が必要である。その空間を西田は道徳的社会と読みかえる。時々刻々に変化するある個人の自覚が一つの連続として考えられるためにはそのおいてある空間、つまり自他の関係が必要である。そこに社会の根拠がある。
 もっとも『自覚に於ける直観と反省』では社会の意義についてそれ以上深められることはなかった。再び『行為の世界』に戻ろう。「真の弁証法的限定というべきものは」「私と汝との間にある」という。そこに「空間的なるもの」が考えられるとしたら、それは単に個々独立の個人個人がまずあって、その相互関係として弁証法的世界が考えられているようにみえる。だが、西田はその構図を明確に否定している(VII, pp. 203-204)。すでにみたように、西田は個人に先立って表現的な「公の場所」をみるのである。それは所謂言語にも通じているがその本質は「絶対に相独立するものを媒介する」媒介者である。
 すでに触れたように、この媒介者はそれ自体「絶対の他」として我々にもっとも内的なものである。それは「自己自身を表現する」ものであり、同時に「直接経験の事実」である。このような主客未分の「絶対の他」を媒介として私と汝とが相通じる。だが「直接経験の事実」においては私の存在も汝の存在も自明ではない。私の存在は汝の存在を認めることで認められる。「直接経験の事実」を媒介として汝を認めることによって私を認めるのである。
 「直接経験の事実」はこのように私と汝とを媒介するものとして表現的であると同時に、そのまま「自己自身を表現する」ものとしても表現的である。山が自らを表現し、水が自らを表現する。世界が世界自らを顕現し世界自らを表現するところに我々は存在するのである。そして私も汝の底ではそのような世界の顕現として顕現し、汝も私の底ではそのような世界の顕現として顕現するのである。
 世界が世界自らを顕す。世界が汝として我々に向かい合う。ここに「アガペ」の意味がある。『善の研究』の段階ですでに神の「無限の愛」は我々に使命を与えるものとして描かれていた。「使命」なるものを感じるのは「責任」を感じるが故である。そして「責任」を感じるのはこのように世界が汝として顕れるからだ。「私と汝」では次のように言われる。

自己自身の底に蔵する絶対の他と考えられるものが絶対の汝という意義を有するが故に、我々は自己の底に無限の責任を感じ、自己の存在そのものが罪悪と考えられねばならない。(VI, p. 420)

 「絶対の他」を「絶対の汝」としてみるということは、汝を認めることが私を認めることでもあると言われるように、その汝から私を見返すことでもある。つまりそれは「絶対の他」の側から、つまり世界、神の側から自己を見返すということである。「絶対の他に於て自己を見る」ことで「自己自身の底に原罪を蔵し」た人格的自己が考えられ、そこに「アガペ」の意味がある(VI, p. 424)と西田が言うのはこの意味なのだ。
 それだからこの「アガペ」「無限の愛」は決して甘いものではない。個々人の独立を認めることは個々人の自由を認めることである。我々は世界から瞬間ごとに自由を許されて存在する。それは世界からの愛といってもよいだろう。だがそのような世界からの視点に気付いたとき、その自由は無限の悪の可能性をもったものとして「無限の責任」を孕む。『行為の世界』の末尾にて、西田は「アガペ」について論じ、以下のような文章でその書を閉じる。

此の世界は大なる表現を有ったものでなければならない、大なる言葉を有ったものでなければならない。歴史の変革は世界的悲劇の意味を有ったものでなければならない。(VII, p. 200)

 「世界的悲劇」。神の「無限の愛」はこのように「悲劇」を招来する愛なのだ。後に「場所的論理と宗教的世界観」にて「悪魔的世界」「極悪にまで下り得る神」(XI, p. 404)と言われるのもこの故である。このような悪をも包みこんだ愛、それこそがアガペなのである。

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