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「西田幾多郎の他者論」 要旨+冒頭および目次

 京大大学院、宗教学専修の院試の合格の報を受け取ったのはつい先週のことである。二年間の浪人生活はこれで終わるわけだ。しかしその感慨について長々書き連ねるのはよそう。これからのこと、これからの研究がさしあたり重要なことだ。今日から私は試験にあたって大学に提出した論文を一章ずつ公開することにする。これはこれからの研究を考えるならばまったく素描にすぎないものとなるのだろう。だが今の段階で公開することにも何か意味があるはずだ。

以下論文要旨
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「西田幾多郎の他者論」論文要旨


 本論は西田幾多郎の他者論の輪郭を明らかにすることを目的としている。第一章から第四章までは『善の研究』から『哲学の根本問題(行為の世界)』『哲学の根本問題 続編(弁証法的世界)』までの著作を読解し西田幾多郎における他者論とはいかなるものかを考究した。読解にあたっては西田の記述の矛盾に注意した。それも「非連続の連続」や「永遠の今」といった語句レベルの矛盾に対して比較的光のあてられることの少ないページをまたいだ矛盾に特に注意した。
 第五章はそのようにして解明された彼の他者論を外からみたときに何が言えるかを考究した。とくにブーバーとの比較、および小林敏明の「転落」の指摘から西田幾多郎の他者論について考えた。
 第一章は予備的研究として『善の研究』を概略した。本書は純粋経験論の哲学であるともに善の研究の倫理学的研究でも「かねて哲学の終結であると考えて居る宗教」(I, p. 3)について論じた宗教哲学の書でもある。この三領域を「純粋経験を唯一の実在」(I, p. 4)とする立場から同時に語ることを可能にしたキーワードとして「統一」を取り上げた。またその際、純粋経験に対する従来の理解に疑問を投げかけ、それによって西田の記述の矛盾を浮かび上がらせた。「色を見、音を聞く刹那〔中略〕この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」(I, p. 9)「真の純粋経験は何等の意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。」(I, p. 10)という西田の言葉と「純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であっって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。」(I, p. 12)「真実在は〔中略〕単に存在ではなくして意味をもった者である。」(I, p. 60)とはどうしても矛盾する。
 第二章からは以上の『善の研究』の概略とそこで明らかになった矛盾をふまえて西田幾多郎の他者論について考究した。
 『善の研究』を読むと「私と汝」でみられる「私と汝」の関係と「昨日の私と今日の私」の関係の類比というモチーフがすでに用いられていたことが確認できる。ただしここではこの類比は私と汝の連続性を示すために用いられており、個々人の独立性、また昨日の私と今日の私の独立性は神の愛と関連する箇所でわずかに触れられるにとどまっていた。それが完全に開花するのが『芸術と道徳』とくにそこに収められた「社会と個人」である。ここでは社会に対する個人の独立性、昨日の私に対する今日の私の独立性こそが創造性の根源とされる。この変化を可能にした著書が『自覚に於ける直観と反省』である。第二章は『自覚に於ける直観と反省』における他者論の兆しについて考究した。その結果、『思索と体験』に収められた「論理の理解と数理の理解」から続く数に関する議論がその変化を可能にしたことが分かった。
 『自覚に於ける直観と反省』、そして『芸術と道徳』の段階で西田は「私と汝」の関係と「昨日の私と今日の私」の関係の類比のモチーフを「個々独立」の側面から語ることを可能にしていた。そこから『無の自覚的限定』の「私と汝」へはどのような変化があるだろうか。このことを考えるためには西田哲学の大転機、「場所」の一転が他者論にもたらした影響について考究しなければならない。だがその考究は「場所」以降の西田の記述から他者論的箇所を抜き出すといった方法で可能なのだろうか。ここで小林敏明の西田に対する批判を思い起こさねばならない。
 小林敏明は「無の場所の転落」で、『無の自覚的限定』以降の西田が「無の場所」と「歴史」を同一視しはじめ対他的社会的な問題に踏み込みはじめたところに「転落」を見出す。それは無の場所を特定の一般者とみなす「転落」なのだ。すると他者論的記述を抜き出したとしてもそれをすぐさま西田における他者論的問題意識の発展とみなすことはできなくなる。それは「転落」の徴候にすぎないということもありうるからだ。
 しかしいずれにしても「場所」の一転について考究しないことにはこの批判が正しいかという判定もつかない。
 この考究にあたって、具体的一般者についての小林の解釈を疑うことからはじめた。まず具体的一般者と「自己同一なる色自身」に小林の見出す「陥穽」は誤読と思われる。また具体的一般者そのものについての理解「具体的一般者すなわち「真の無の場所」」(小林, 1997, p. 103)も誤っている。西田は「具体的一般の背後にも場所として抽象的一般を考える」(IV, p. 321)と明言しているからだ。第三章では「場所」の一転がいかなるものかを西田の記述に即して明らかにした。そしてこの一転が実は『善の研究』で奇妙に浮いてしまった「判断すら加わらない前」の「刹那」への回帰であることを示した。活動的統一、具体的一般者といった思考法は分化発展する潜勢的一者を想定することで直観的な経験と反省における概念的思考とを連続的に捉えることを可能にしていた。だがこれは同時にもっとも直接な「今」のインパクトを連続体のなかにうすめてしまう危険を孕んでいる。この「今」、「事実其儘の現在意識」は何かの潜勢態としてあるわけではない。むしろ確かに顕在する「今」として我々に迫るのである。
 第四章では以上のことを踏まえていよいよ西田の他者論について考えた。それは同時に無の一般者が「歴史」と呼ばれるようになる「転落」についての考究でもある。ここで問題になるのは「我々の真の自己は歴史の世界の中に生死するのではない。」(V, p. 163)と「真の現実の世界は我々がそれに於て生れそれに於て働きそれに於て死にゆく世界でなければならない、社会的・歴史的世界でなければならない。」(VII, p. 233)の矛盾、そして「私を私として限定するものは、汝を汝として限定するものであり、私と汝とは同じ環境から生れ、同じ一般者の外延として之に於てあるという意味を有つと云うことができる。」(VI, p. 348)と「私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何等の一般者もない。」(VI, p. 381)の矛盾である。西田の記述を追うと、歴史の矛盾については前者の「歴史」が学問の対象となるところの歴史であり後者の「歴史」は「原始歴史」とも書かれる「永遠の今」としての歴史であることが分かる。また一般者の矛盾については後者の「包摂する何等の一般者もない」の一般者が普通に言われるところの一般者、有の一般者であるのに対して前者の環境と同一視されている一般者は「場所」での無の場所に相当する「無の一般者」であることが分かった。そうすると『無の自覚的限定』以降の西田の言う「歴史」は必ずしも特定の一般者ではないことが分かる。しかしなぜあえて「歴史」「環境」というきわめて特定の一般者と取り違えられかねない言葉をもって無の場所を表現したのかという疑問が依然として残った。
 ここで西田の「汝」についての考究をはじめた。この「汝」は即座に個人としての他者を意味しない。『哲学の根本問題(行為の世界)』で言われるように山も川も私に対するすべてのものが「汝」の意味をもつのである。この地点から西田のこれまでの記述を振り返ると、「私が色を見る」ならぬ「色が色自身を見る」というレトリックがついに「汝」として結実したことが分かった。『善の研究』の段階から花を研究することは花が自らの本性を示すことであった。こうした表現はこちらの意識的自己の消失を示したレトリックである。この事態を逆から見るとそれは色という「汝」、花という「汝」が自らを顕すことである。こうして「判断すら加わらない前」と判断する私の側から消極的に描かれていたものが「汝」の側から積極的に描かれる。「事実其儘の現在意識」そのものの他性こそが「汝」「絶対の他」と呼ばれているのである。
 ここでなぜ無の場所が「歴史」「環境」と呼ばれ得たかも理解できるようになる。無の場所を特定の何ものでもないというのは事態の半面を示したにすぎない。我々の側から特定の何かとして判断することが歪曲を孕むだろう。だがこの「今」の側から見るならばそれは無規定な何かではなく特定の何かとして自らを顕現する「汝」なのである。
 この「汝」から西田の他者論、また愛についての議論、アガペ論を読解した。西田の他者論はあくまでこの「今」に立脚した他者論である。「歴史」といい「汝」といい「愛」というのも、すべてはこの「今」においてあるのである。
 第五章ではまず西田とブーバーを比較した。「今」から出立した西田と「汝」から出立したブーバーは相違点もあるもののその他者論においてきわめて近似している。ここでは特に「永遠の今」と「永遠の〈なんじ〉」の相似に着目し、その相似が他者論の本質からくるのではないかと論じた。
 次いでこれまで何度も触れた小林敏明の「転落」の指摘について論じた。「歴史」が特定の一般者とは言えないからといって即座にこの指摘を否定することはできない。なぜならその指摘が具体的に批判しているのは西田の東西文化論、日本文化論だからだ。日本、東洋を実体的に語ることは「転落」の謗りを免れないのではないか。
 ここでは近年日本人論を批判するときなどに頻用される「主語が大きすぎる」という言葉を西田哲学的に解釈し、西田哲学の本来の筋からはこうした文化論を組み立てることができないことをまず追認する。その上で西田がはじめて文化論をそれ自体として構築しようとしたのが『哲学の根本問題 続編(弁証法的世界)』からであることに着目した。西田は自身のアガペ論、自己でなく世界を中心にして考えるという立場に立ったとき、自身の「使命」「課題」を明らかにする責任を負った。ここに彼が文化論を著す動機があったものと思われる。


以下論文冒頭
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        西田幾多郎の他者論


はじめに

 本論は西田幾多郎の他者論の輪郭を明らかにすることを目的としている。第一章から第四章までは『善の研究』から『哲学の根本問題(行為の世界)』『哲学の根本問題 続編(弁証法的世界)』までの彼の思索を追い西田幾多郎における他者論とはいかなるものかを考究する。西田哲学において他者論は必ずしも中心となる問題ではない。だが『無の自覚的限定』に収められた「私と汝」に代表されるようにけっして無縁とはいえない。この西田幾多郎の他者論がいかなるものなのかを西田自身の著述に即して解明してゆく。
 最終章である第五章はそのようにして解明された彼の他者論を外からみたときに何が言えるかを考究する。西田幾多郎の他者論はどのように独自なのだろうか。西田哲学から他者論を考えることにはどのような意義があるのだろうか。
 以上が本論の目的と内容である。なお西田幾多郎の著作の引用は一九六五年から一九六六年にかけて出版された旧版の『西田幾多郎全集』(岩波書店)からなされ、巻数をローマ数字、頁数をアラビア数字で表示し、旧字旧仮名はこれを新字新仮名に改める。また、西田の著作の引用にかぎらず引用文中の〔〕内は筆者の注記である。

目次

はじめに

第一章 『善の研究』の西田

哲学と倫理と宗教を一書に「統一」する何か
純粋経験とはいかなる意味で純粋か
生きた統一にとって思惟とは何か
ついに神に至る「統一」
善の研究
宗教
「判断すら加わらない前」の謎

第二章 『自覚に於ける直観と反省』にみる他者論の兆し

『善の研究』における他者
『自覚に於ける直観と反省』と『善の研究』の「見方の違い」
分離数と連続数
『自覚に於ける直観と反省』の到達点

第三章 場所の「一転」

「一転」と「転落」
具体的一般者と「自己同一なる色自身」
具体的一般者とその背後
「一転」の意義
「刹那」に回帰する「一転」

第四章 汝と相逢うこの「今」という場所

場所と行為
西田にとっての「歴史」
私にもっとも直接なところで顕現する汝
西田にとっての「愛」
アガペの世界

第五章 西田幾多郎の他者論

ブーバーと西田
「転落」と西田の文化論

参考文献


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