闇の中の像

歴史という究極の民主主義

 最悪の民主主義は最良の君主制にまさるか?
 民主主義はたやすく衆愚政治になりはてる。君主制は有能なリーダーさえいれば最も効率的な制度である。このテーマに挑んだ作品に『銀河英雄伝説』がある。この作品で出てくるヤン・ウェンリーとラインハルトの問答から、この小論をはじめたい。

「民主主義とはそれほどよいものかな」とラインハルトは云う。

ラインハルト:銀河連邦の民主共和制は、行き着くところルドルフによる銀河帝国を生み出す苗床となったではないか。それに卿の愛してやまぬことと思うが、祖国を私の手に売り渡したのは、同盟の国民多数が自らの意志によって選んだ元首自身だ。民主共和制とは人民が自由意志によって、自分たちの制度と精神を貶める政体のことか
ヤン:失礼ですが、閣下のおっしゃりようは、火事の原因になるからという理由で、火そのものを否定なさるもののように思われます
ラインハルト:ふうん、そうかも知れぬが、では専制政治も同じ事ではないのか。時に暴君が出現するからといって、強力な指導性を持った政治の功を否定することはできまい
ヤン:私は、否定できます
ラインハルト:どのようにだ?
ヤン:人民を害する権利は、人民自身にしかないからです。言い換えますと、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムや、またそれより遙かに小物ながら、ヨブ・トリューニヒトなどを政権に就けたのは、確かに人民自身です、他人を責めようがありません。まさに肝心なのはその点であって、専制政治の罪とは、人民が政治の失敗を他人のせいにできる、という点に尽きるのです。その罪の大きさに比べれば、百人の名君の善政の功も小さなものです。まして閣下、あなたのように聡明な君主の出現が極めて稀なものであることを思えば、功罪は明らかなように思えるのですが

――アニメ「銀河英雄伝説」第五十四話「皇帝ばんざい!(ジーク・カイザー)」より

 人民がその国の成行きを自分の責任として受け取ることができる、この一点においてヤン・ウェンリーは最悪の民主主義は最良の君主制にもまさると考える。
 だが、この最悪の民主主義においてかろうじて残ると考えられるこの美点自体、あまりにも理想的な見通しではないだろうか。「人民が政治の失敗を他人のせいに」する、これは今日の民主主義社会で日常的にみられることだ。
 これは首相のせいだ、いやいや野党が足をひっぱるからだ、とにかく政治家が悪い云々といった言葉は民主主義社会だからこそ聞くことのできる声である。むしろ君主制の国家ほど「人民が政治の失敗を他人のせいに」しない体制はない、と逆に言うことだってできる。「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」、政治の失敗を誰かのせいにするという意識自体、君主制の人民には希薄だ。
 もっともヤン・ウェンリーが示した民主主義の美点とは、このような世間の風評の波風に乗って聴こえてくるような野次とは別の次元の話であろう。人民は、たしかに人のせいにするだろう。だがしかし民主主義社会ではどれだけ政治家を責め立てたとしても、究極的にはその政治家を選んだ人民自身に責任がもどってくる。原理的なレベルで事態はそのようになっているのであって、そのような意味で人民は政治の失敗を他人のせいに「できない」のである。
 ・・・・・・だが果たしてそれだけで人民は納得できるだろうか。あなたがたが選挙で選んだんです、だからあなたがたの責任です。この単純明快な論理ははたして実際の運用にきれいに当てはまるだろうか。たとえばある政治家が美辞麗句を並べたて人民をだまして権力を手に入れたとする。これを人民の責任とするのは「詐欺師に騙されるのは被害者の責任」とみなすのと全く変わらないのではないか。あるいはある人民の前にとって提示された候補者がどれも不満足な代物で、誰が首相になっても次善の策にすらなりえないと思えたとする。その場合はどうか?
 後者についてはおそらく「じゃあお前が出馬しろ」といった反問が予想される。だがこれは一個人が出馬する労力を軽視した無茶な言い分ではなかろうか。もろもろの制度的な難点を無視した言い分ではないか。
 一個人にとっての政治参加が投票とデモがせいぜいな国で、はたして人民はどれだけその政治に対しての責任を実感できるだろうか?

 このように「人民が選出したのだから人民の責任である」という論理はいくらでも難癖をつけることができる。このように我々はいくらでも民主主義社会における責任から逃れることができる。しかし、責任から逃れることを本論は目的としていない。本論はむしろ民主主義にせよ君主制にせよそれらとは関係なく逃れがたく迫る責任について考えてみたいのである。

***

 君主制下の人民はたしかにその王国の政治に参加していない。それゆえその政治に対して責任がないと言える。だが一方でその人民は王国の歴史には間違いなく参加している。人民は間違いなく王国の歴史を動かしている。
 
 もっとも歴史は人民の意にかなう方向へ進むとは限らない。だが歴史はただ単に人民のさまざまな行動の重なりの結果にすぎない。そうである以上、人民は歴史に対してどうしようもなく責任を負っている。
 歴史は制度ではない。人民の意を汲む機構ではない。ただ人民の行動の履歴である。ある制度のもとでは、人民は何かに対して責任を持つが別の何かに対しては責任を持たない、ということがありうるだろう。だが歴史のもとでは人民は何をすることも許されている。
 ある制度の内部で考える限り、我々はその制度の瑕疵には責任がないと考えられるだろう。王国が王国であることに対し人民は責任がないし、民主主義社会の制度的な難点についてもその人民には責任がない、と言いうる。ある制度の視点に立つとき、人が制度の中に安住すること自体を責めることはできない。だが、歴史の視点から見るならば、「では何故革命を起こさなかったのか」「その制度ではどうしようもないなら何故それを変えようとしないのか」と我々はつねに問われ得る。

 そして英雄とは、革命家とは、「この制度のままでは成りゆかない」というときにその制度の内部で支給される責任に満足しないで歴史という究極の民主主義に直接参加した人であると言いうるだろう。彼らは自分の身に降りかかったことを「こういう社会だから仕方ない」と考えずに、自らの責任において捉え、それを変えることを選んだ。

 銀河の歴史がまた一ページ。

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 この「歴史という究極の民主主義」と普通の所謂民主主義とはどのような関係にあるのだろうか。まだこのアイデアについては色々と考えるべきことがあるだろう。とりあえず、今回はここで筆をおくこととする。

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