違国日記とピーナッツの女王
さいきんハマっているものがある。
『違国日記』と『ピーナッツ』だ。
2つの作品に登場する女王と子犬について、共通点や違いを紹介したい。
ピーナッツの女王
スヌーピーやチャーリー・ブラウンが登場する作品『スヌーピー』。
この作品の女王といったらルーシーだ。
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人がそれぞれ違ってるってのは、ほんとにいいことだ
みんながすべてに同意なんかしたら、ひどいことになるよね
どうして?もしみんながわたしと同意するなら、みんな正しくなれるわ!
意地悪で、皮肉を言うルーシーには優しく、傷つきやすい一面もある。
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たくさんの人がいる中でさみしいとおもったことある?
あるわ。何度も・・・ほんとのこと言うと、たくさんの人の中ではいつもさみしい気がする・・・
ほんとに?そうよ
さみしくおもわないのは一人でいるときだけよ!
孤独とはいったいなんなのだろう。
違国日記でも孤独はひとつのキーワードだ。
違国日記のふたりの女王
違国日記では、姉の子供である朝(あさ)をひきとることになった小説家の槙生(まきお)が、朝にとっての『ちがう国の女王』。
わたしは大体不機嫌だしあなたを愛せるかどうかはわからない
でもわたしは決してあなたを踏みにじらない
それでよければ明日も明後日もずっとうちに帰ってきなさい
たらいまわしはなしだ
人見知りで、掃除が苦手。気が強いように見えて、傷つきやすい。
『違国日記』には、もうひとり。違う国にいってしまった女王がいる。
槙生の姉であり、朝の母である実里(みのり)だ。
槙生 あんた
はずかしくないの妄想の世界にひたってて
小説だか何だか知らないけど もう少し現実に向き合えば?
朝とすごす日々、槙生のあたまの中に姉の言葉が蘇る。なんどもなんども。傷つき自分の世界を生きてきた女王と、子を残し去ったもうひとりの女王。
ルーシーの他にもペパーミント・パティやサリー、マーシーといった女の子が登場するが、『ピーナッツ』には子どもしか存在しない。互いに影響を与え合うものの、そこには親子のような不自由さはない。
母と子。母でもない親代わりと子。女王たちにはそれぞれ正義があり、強さがあり、矛盾や悩みを抱えてる。それを朝はどう受け止めていくのか。
朝とスヌーピー
槙生は朝のことを、ちょくちょく子犬にたとえる。
子犬は子犬で生きている。群を恋しがってしくしく泣いたり
鼻面で穴を掘ったりはついぞ見ないが私に隠れてするかも知れない
かしこく あどけなくて たまに吠える
いつか古傷に噛みつかれても 許せるだろうか
そういえばスヌーピーにもそんなシーンあったなぁ。
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ひとは後悔しながら生きるべきじゃない・・・
心がずたずたになるかもしれない
もう何年も後悔していることがあるんだ・・・
いままで誰にも噛みついたことがないってこと!
朝も槙生や実里に噛みつきたくなるときがやってくるかも。
おまけ:ガイコクと違国
ピーナッツは20年以上前のアメリカの漫画で、チャールズ・M・シュルツの代表作。ピーナッツのように小さくて、新聞のすきまを埋めるのにちょうどいいからという理由で名付けられた『ピーナッツ』には「困った人たち」という意味もあるらしい(『スヌーピーがいたアメリカ』)。
人種差別がのこる1960年代のアメリカでは抗議や暴動といった論争が起こっていたが、そんな中『ピーナッツ』のビーチに黒人の少年が現れる。
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「これ君のビーチボール?」とごく自然なやさしさを見せる彼に、多くの読者は戸惑ったことだろう。
『違国日記』には、朝が部活の掲示板を眺める場面に森さんという黒人らしき少女が現れる。その登場の仕方がとてもとても自然でなんだかよかった。
時代も違う。国も違う『ピーナッツ』と『違国日記』。
つなげて読むと、また違う世界がみえてくるかも!