概念の存在とは

以下、3ヶ月ほど前のメモ書き。

物質が存在するとはどういうことか、はひとまず置いておく
概念が存在するとはどういうことか?
概念は思考者がいてこそ初めて成立するのか?
人間は本能だけでなく論理的に思考できる(と仮定する)。その論理的思考によって世の中のあらゆるものを分類している。
但しその分類の基準は様々で、例えば金属非金属という大雑把な分け方、元素による分類、さらに同位体まで区別する分類、などがある
ここで、今では異なる物質とみなされているものが昔は同じ物質だと考えられていたものがある、例えばネオジムとプラセオジムは昔は同じだとされていた。
つまり分類というのは思考者の技術による影響も受けるということである
また、同じものでも見方によって異なる分類ができる。例えば一つの病気を症状や組織分類から見るか、原因から見るか、など。
次に、人間以外の生物を考えてみよう。本能的に彼らは自己と非自己の区別はついていると思われる。そして、食料か非食料かの区別もできるだろう。ただ、動物は、違いを「意識的に、論理的に」判別できるだろうか。どこまでが本能でどこからが理性なのだろうか。
人間が考える分類について考えよう。昔、空気は空気という1種類の物質だと思われていたが、今では窒素や酸素などに分類できることがわかっている。しかし、その分類基準を作ったのは人間そのものである。言い換えれば、人間がいなければ陽子の数で物質を分類するという「概念」は生まれなかったはずである。では、元素の分類を発見するまでは空気は空気という1種類の物質だったのか?これに対する答えは難しい。なぜなら、今窒素だと思われている物質も将来的にはさらに分類できる(今でも同位体による分類はできるが)可能性は否定できない。つまり、その当時の分類がその当時の答えだったという考えもできてしまう。これを適用すると、生命誕生前においては、物質は1種類しか存在しなかったということになる。そこにあるのか、ないのかでしかない。よく理科の本では「宇宙誕生から何秒後には水素とヘリウムができて〜」などと書いてあるがそれは今現在の分類を当時に当てはめているだけであり、当時の概念からすれば(概念が実在したかどうかは怪しいが)、「物質があった」と書くことが理に適っているのである。
ここであることに気付いた。物質の「有無」を決めること自体の思考も生命体あってこそのことである。つまり、生命体誕生以前は「何もなかった」と書くのが適切かもしれない。
また、生命体といえども、素粒子レベルまで解体すれば、机や椅子などの非生物と構成成分は変わらないのである。では、生命を生命たらしめているものは何だろうか。それは意識だと言われるかもしれないが、単細胞生物に意識はあったのだろうか?さらに、生物や非生物といった単語ですら人間が作り出した概念である。このような思考をしなければ、さらに、本能ですら物事を識別することをやめてしまえば、この世の中から全ての概念は消え去るのだろうか?

以下、今の考察

上のメモ書きを書いた時に出した結論は、「事物は、実在の如何に関わらず、意識されることではじめて存在しうる」ということであった。
また、今の科学は今の我々にとって「正しい」とされていることが、未来永劫それが真実とされるという保証はないのである。
人類が考えられる内容こそが、人類にとっての世界の「全て」であり、それ以外のことは存在しないのと同義である。
これは、科学の世界において魔法を語るのと似ている。もし昔の人が今の科学技術を見れば魔法だと思うだろう。しかし、それはそれ以降に人間が発見した科学技術において実現されているものである。同様に、我々が魔法だと考えているような「空想上の概念」そのものも、未来の科学技術によって実現できている可能性は否定できない。我々が「科学」の世界にいる限り、「魔法」の世界にたどり着くことは不可能なのである。(これは「魔法」という概念が存在しないと言っているわけではない。人類が考えた概念は頭の中に存在できるからである。)
同様に、「いるかどうかわからない」存在についても語れるだろう。地球上には未発見の生物が数百万種いるとされているが、「未発見」と考えられた時点で、それらの生物についての「概念」は存在できる。
また、自己の存在についても考察できる。「自分」が本当にこの世に存在しているのかどうかはわからない。実は「意識」だけが存在し、我々が感じている五感はその「意識」が作り出した錯覚なのかもしれない。しかし、自分の意識が存在していると考えた時点で、「自己意識の認識」は成立している。「我思う、ゆえに我あり」という言葉は正確性がないが、「我思う、ゆえに我が思考あり」は否定しようがない。トートロジーになってしまうが、「Aが存在する。それゆえにAは存在する」は完全に同値なので、自分の意識そのものは、それが自己によって作られているか、他者によって操られた存在であるか、どちらにせよ、存在は否定できないのである。
ここで、「本当に『我思う』なのか?」と感じた読者もいるだろう。確かに、「自分が考えている」という行為は本当に真実なのだろうか。もし「考える」という行為そのものすら虚構のものならば、「考える」という感覚を生み出す存在がいると考えられる。ここで、その存在は、筆者が(おそらく)生まれて初めて考えた概念(また、そのような概念を筆者は誰かから聞いたこともない)なので、(おそらく)新たに生まれた概念、初めて存在が認められた概念ということになる。それはさておき、その「『考える』という感覚」も本当に真実なのだろうか。そして、「モノには必ず生み出す存在がいる」という考察も真実なのだろうか。今の人類は全ての事象を科学的に説明付けようとしているが、果たしてそれは可能なのか。世の中の真実を正しく表現できているのだろうか。物事の事象の側面ばかり記述していたということにはならないのだろうか。
などと考えているうちに、ひたすら時間が過ぎていく。このように哲学的・論理的思考をするのも良いが、ある程度の仮定は正しいと妥協して生きていくのも大切だろう。

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