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皐月

 品行方正、謹言実直、堅物、真面目が取り柄。
 そんな評判が当たり前で、それが私の名札ですらあったような気がする。名前を聞けば「ああ、あの」の後に続く言葉があげたうちのどれかであるのは間違いなく、そしてその評価は正しいのだ。
 成績がいいのは当たり前。学級委員に選ばれるのは当たり前。なぜならば、こつこつ授業を受けてノートをとって課題をこなし、予習復習は日課でテスト前は学んだことを確認するだけにしているから、というだけ。教師の覚えが良いから役割が与えられるのだけど、評判が高い理由は口答えせずに是を返して粛々と言われたことに対応するから、というだけ。義務をこなしている無味乾燥な毎日を、他人はうまく言ってくれているものだと思う。
 まぁ、人によっては地味でつまらない、と言われているだろうなと言うのも予想の範囲内。
 自分でもそう思っているから、少なくとも、数パーセントの人間には面白味のない良い子みゃん、とは思われているだろう。否定する気もない。自分がいちばん、そう思っているからだ。
 そんな毎日が面白くないのではないかと言われたら、そうだと答える。変えないのかと言われたらその気がないわけではなく、変え方がわからないのだと答える。でも、だからと言って誰かに変えてもらいたいわけではない。むしろ変えてやろうと来られたら、全力で拒否してしまう。たぶん、反射と防衛反応で。
 ぬるま湯のような繰り返しの、単調な日々は刺激ある楽しいものではないけれど、つらく苦しいものでもないのでそれなりに気に入っている。時折趣味に合う本が見つかって、そのために時間を作ることに没頭している時に、少し人間味を感じられる。
 いつかそれなりの大学に行き、それなりの企業か公官庁などに就職して、うまくいけば結婚して子供を育てたりすることがあるかもしれない。すべてが淡々と、そつなく済まされていく。そんな毎日がずっと続くのだろうと思っていた。
「委員長!」
 単調な日々の、楽しくもつらくもない静寂な人生の幕を揺らしたのは、変声期を終えたばかりの幼さと大人っぽさを同居させた男の子の声。授業を終えていつも通り向かった図書室の一角で、空席だった目の前に、こちらを向いてにこりと笑いかけてきた。
「委員長、課題進んでる? 答え合わせしない?」
 屈託のない声かけ。初めて気づいたのは、自分に話しかけてくる人たちは、いつもどこか、こちらに対してよそよそしく、緊張した声音であったと言うこと。
 誰に対しても特に思うことはないがゆえに、事実に気づきながらも特に動揺することもなく、鞄から課題をこなしたノートを取り出し机の上に該当のページを開く。
「いいよ、どこがわからなかったの?」
「全部と言えば全部なんだけど、頑張ってやってはみたから、もし違ってたら答えの意味も一緒に考えてほしいなって」
 おや、と思う。珍しい言葉だ。違ってたらどうしてか教えて、と言われることが多いのに。ささやかな違いだけれど、その差はかなり大きい。そして、自分ひとりではなかなかないやり方だな、と思う。
「いいよ、どこからやろうか」
 図書室は私語厳禁だが、人が少ない時ならば多少は目を瞑ってもらえる。さらに言えば、中身は勉学だ。こちらに視線を向けている司書にその旨を示すと、あっさりと許可がおりる。この辺りも、日頃の評判ゆえといったところか。
 改めて机に向き直ると、彼はにこにこと笑いながら該当部分に人差し指を置く。
「ここからかなー」
「あぁ、そこは」
 突如始まった勉強会は、予想を裏切ってあっさりと進められた。間違っているかも、なんて前置いた割には、自分の答えと差異はほとんどなく、むしろ彼の答えに自分が納得して修正を加えることもあるくらいだった。順調で濃厚な勉学の時間はあっという間に終わってしまった。下校するにも良い時間だしと片付けを始めた段階で、彼がお礼をと言い出したのは、予想外だった。
「すごい助かったからさ、委員長にお礼がしたいんだけど」 
 こんな面白味のない人間に、珍しい物言いで話しかけてきて、なかなかに有意義な時間を過ごせたことで十分だと断ろうかと考えたが、彼のお礼はどんなものだろう、と興味が湧いてしまったのが運の尽きだったのかもしれない。もしくは彼の声に応えてしまったこと、それ自体が。
 お礼なんてと口にしつつも受け入れることを示せば、耳貸して、と内緒話の体でささやかれたそれは、とんでもないお誘いだった。今までの自分ならば絶対にしない行動、絶対に思い付かない、誰にもされるはずのない提案。
「!」
 目を見開いて固まったまま、動けない。耳元から肩にあった微かな温もりが離れたと言うのに、頬に熱を感じている。なんだこれは、こんな感覚、今まで知らない。ひんやりした、味気のない毎日にはなかった感情と熱が、胸にともる。
 目の前の彼は、いたずらっ子の顔をして、口許に人差し指和立ててしーっ、と口止めをしてくる。
「いや?」
 のぞきこむ彼の瞳は、深くて澄んでいる。勉強を口実に自分のところに来たのだとわかるくらいには、理知的な、策略家の視線だ。だめだな、と理解した。自分はもう、彼に負けてしまっている。
「委員長、いいよね?」
 真面目が取り柄の堅物、のレッテルがはがれそうなお誘いに、胸が高鳴るのは間違っていると理性がささやいているというのに。差し出された小指に、自分のそれを絡めてしまったのは、どんな感情からなのだろうか。
 自分につけられていた評価は、変わってしまうだろうし、どうせなら今、変えられるべきだろうなと、脳裏の片隅で小さく残った理性がささやいた。
 人によっては大したことはないかもしれないが、途方もない大冒険の道が、目の前に広がってしまったと、恐れおののくと同時に、わくわくして止まらない己に気がついて、また少し、戸惑っている。
 もしかしたら、今夜は眠れないかもしれない、なんて思うほどには。

皐月(皐月躑躅)
5月19日誕生花(5月13日の説もあり)
花言葉は「節制」


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