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 忠告は、重いものだった。

『囚われるでないぞ』

 ――もう、遅い。

 指がかけられた扉は、ぎしりと音を立てた。横にずれ、内部を無防備にさらしだす。
 久しく人の気配がないまま放っておかれた建物特有の空気が鼻をつき、外へと流れ出ていく。
 入れ違いのように、生ぬるく湿った外気が袂を揺らして部屋の中に流れ込んでいった。
 まるで誘われているようだ。誰もいないはずの空き家のはず。けれど、誰かにそっと手招きを受けているような、不思議な感覚を覚えた。
 思わず目を細める。
 自生したまますくすくと成長したらしい草が、涼むように軒先で静かに揺られている。
 知らず漏れた吐息は大きく、吐いた本人であるところの自分が吃驚した。

「何に怯えているのだか……」

 口にしてみれば、とても空々しく響いた。
 当たり前だ。ここには誰もいないのだ。
 一人生きていくと決めて生家を離れてここまで来た。住まいを探していると、古くから一帯を治める長者者にいい場所があると空き家を紹介された。
 今日から己は一城の主。空き家に住人がいようはずもない。
 独り言をつぶやいた自分を恥じて扉を閉める。
 同行者は既に帰った後。勝手は説明されているが、夜のこと、明日にするしかない。だが、なんとなく残る違和感に思わずも顎に手をやった。

「あの親爺殿はどうして一緒に来ないのだろうか」

 思わずこぼした言葉に苦笑する。思ったより不安を覚えたらしい。ここにその人がいない以上、言っても詮ないことだ。
 空き家を紹介して案内した人物こそが同行者、長者者の老人であった。だが、家まで案内するまでの様子が明らかにおかしく、案内を頼むと嫌で嫌で仕方ないと言った様子だった。
 それなら詳細はまた後々聞くから良いから帰るようにと口に出してしまったが、心底ほっとした表情を見せたことに、おやといぶかしみを覚えたものだ。
 あの違和感に、間違いはなかったと言うことか。
 脳裏に紹介者としてここまで案内をしていた老人が浮かび上がる。

『ほれ着いた。ここじゃ、後はいかようにもしてくださってかまわんて。何かあれば、来るがいいて。ああ、それとな。囚われるでないぞ。くれぐれもな』

 言うと、そそくさと帰っていった。
 言葉はなぜか、ひどくずしりと沈むように重かった。
 といっても、それに固執していては始まらない。まずはひととり眺めてみようとなって、改めて門から新しく我が家となった場所を眺める。
 家を守るようにしつらえられた、蔓草の巻き付く門は、古い。しかし、傷みは少ないようで修繕の必要はないと見えた。庭は荒れているが雑草は少なく木々もある。
 部屋も、空気を入れ換えて調えれば十分といった様子だ。

「何かあるほどのことでもなかろうに」

 所詮一人で住む家だ。このくらいであれば全く問題ない。
 持参した洋燈に火を入れ、踏み入れた家屋の中をざっと見渡して腰に手をあて断じた。気持ちの整理もついたのか、どこかさっぱりとした気分になる。
 落ちついたところでさっそく部屋でくつろごうと居間へと足を踏み入れた。

「!?」

 ザァと風が吹いた。
 目の前を、花びらが過ぎていった。美しいけれどどこか禍々しく、しかしどこまでも艶やかな花の乱舞。
 咲き誇るそれらは、しかし一瞬で消え去った。幻だったのか、白昼夢だったのか。わからぬままに、かざした腕をおろしてさらに吃驚いた。

「どちら様でしょうか……?」

 頭の奥で、去り際の老人の言葉が響いた。

『囚われるでないぞ……』

 どこかでそれに答える気配がした。

 ――もう、遅い。……来たのだから。



 真っ白になった思考。それを知ってか知らずか、視界の先では淡い紫色の薄物をまとった女が一人、困ったように眉尻を下げている。
 儚げな美貌をした女。それが第一の印象。そしてどこまでも白い肌。
 美しいけれど、どこか物悲しく、消えてしまうのが当たり前に思える。そんな印象の女だ。

「あの……」

 袖の奥から伸びた指もひたすらに白く、血の通う線が透けて見えるほど。けれどたおやかに伸びるそれから、目が離せない。

「あの……?」
「あ」

 我を取り戻すが、どこかぼんやりした表情をしているのだろう。女が心配そうな顔をした。

「どうかなされましたか……?」
「いや、なにも」
「そうですか」

 答えに安堵したように、女は微笑んだ。それだけで雰囲気が華やかなものになり、病的なものがいくらか消え去った。
 それでも白い肌はどこまでも白く、変わらなかったが。
 足をあげたまま固まったままの男への不信感を少し薄めたのか、女はひとつ息をついた。ついと部屋の奥を示す。

「よければ、どうぞ。お茶をお淹れしますので……」

 ――お疲れでしょう。長旅をされたようですもの。

 花のような微笑みと共に、女は誘った。あの瞬間に吹いた風を思い起こさせる笑みで。

「まぁ」

 室内は塵が綺麗に拭われ掃除が行き届き、清潔に保たれていた。
 誘われるままに居間に腰を据え、茶を含んだところで本来この家の主は自分なのだと思い出した。
 そう、この家を借りたのだ。そして今日から住むつもりで部屋の戸を開けたのだ。
 そこに、貴女がいた。
 そう説明をすると、急須を手にして女は驚きの言葉を口にして、目を見開いた。
 小さな水音と共に、急須の差し口から最後の茶の一滴が湯呑みに落ちる。それを眺めて、女は一度閉じた口を開いて言った。

「それは、間違いでございます」

 噛んで含めるような物言い。柔らかい口調なのに、断固とした堅さを感じる声音。
 間違いであるはずがない。確かにこの家の持ち主だという長者者の老人を町役場に紹介され、家の説明を聞いて住むと決めたのだ。
 大家であるところの老人は、けしてこの家に自分は行かない、呼ぶこともないようにという約束だけを取り付けた。そうして、あとは好きなようにして良いというお墨付きをもらったのだ。
 さらに、家賃は格安。傷みのない家の外観を見て、自分は良い買い物をしたと満足していたというのに。

「わたくしが住んでいるのですから、家が買われるはずはありません」

 ころころと笑いながら女は新たな茶を差し出した。柔らかな緑を映した茶は旨く、また絶妙な間合いでおかわりをそそぐ女のおかげでずいぶんと杯を空けていた。
 酒でもないのに酔ったように頭の中がぼんやりとしてくる。女の所作が、田舎にあるのが不思議なほどに優美だからであろうか。

「ここは、空き家だと聞いていました」
「ですから、わたくしが住んでいるのですから空き家ではありません」

 何度目かの言葉。繰り返されるばかりで一向に変わらない。
 押し問答のようなやりとりに頭痛を覚え、口をつぐむ。
 困った事態だ。もう契約書に署名をしてしまったし、帰るに帰れない。加えて大家は夜には訪ね難い。
 なんの冗談なのか。生家を離れ、自立した生活を営もうとした矢先の出来事に、視界が闇に覆われるような心地がする。

 そこまで考えたところで袖が引かれる気配がした。

「それでは、こういたしませんか?」

 女は控えめに微笑んだまま、まずは一晩泊まるようにと口にした。
 明日、共にその大家の元にいこうと。
 本来であれば、女の家に突然現れた男が泊まるなど、あり得ることではない。女が勧めるなど、おかしすぎる。
 けれどその提案は至極当然で、何よりも素晴らしいものに思えて、知らず頷いていた。すると女は心から喜び、新たな茶を淹れて差し出す。

「我が家の藤は、なによりも美しいものですもの。共に眺められて嬉しゅうございますわ」

 藤?
 今は野辺の秋。生き物すべてが冬仕度に勤しむ季節には咲かないはずだ、という思いがよぎるった。
 だが、微笑んだまま女が指を指した先を眺めれば、確かに見事な花房をつけた藤が、風に揺れて艶めかしく動いていた。
 その花びらは、先ほどの幻に似ていた。



 薄紫の花房が、たわわに、けれどたおやかに咲き誇る。地に差し伸べるように花弁を落とす。
 けれど、けして地に臥すものに手を触れない。木に宿り、絡み付いて離さぬもの。
 そして破滅へと導くもの。
 貴なる色にその毒を秘め、呼びてとらえる。その優しく美しい腕。

「見事な花だね」

 咲き乱れる藤の花をそう称えると、まるで己が姿を誉められたかのように女は微笑んだ。紫色の着物がとても似合う女だった。

「本当に、わたくしは幸せです」

 女はことあるごとにそう口にした。そばにいてくれて、そばにいさせてくれて「有り難う」と。
 なぜそのようなことを言われるのか、わからなかった。女は美しく、献身的に尽くしてくれた。いつも花のように微笑んだ。
 時折何か、薄ぼんやりと何か忘れているような気がしたが、そんな時は女がぴたりと寄り添って「幸せです」とつぶやいた。
 この女人と祝言をあげたのはいつだったか、初床を迎えたのは……
 そんな疑問も浮かんだが、口にすることはなかった。
 女は妻で、夫を大切にした。自分は夫で、妻を愛しく思った。
 それで十分だと感じた。
 藤の花はいつの時も咲き誇り、風に揺れてまるで優雅に舞う姿のごとく。

「幸せだよ」

 答えると、女の笑みは深まった。
 脳裏に冷たい風が吹いた気がしたが、気のせいだと思った。今は藤の咲き誇る、幸せな時なのだ。
 いつまでも、いつまでも。

「囚われてしもうたか……」

 小さなつぶやきは、悲しみともあきらめとも、納得ともとれる吐息と共に宙に散る。
 あの家を紹介した男は、案内をして以降、ぱたりと姿を見せることはなかった。良い家がないかと尋ねられ、気は進まなかったもののもしやと望みをかけて紹介した。
 けれどやはり、だめだったか。
 老人は手を重ね合わせ、息をつく。

 門の向こうには、散華の下で男が横たわっていた。笑みを浮かべているのだろうが、判別し難い。確かめようとも思わない。

『ふふ……』

 幸せそうな笑い声が耳朶を打ち、顔を上げて男は微笑んだ。淡い紫の花の下、花と同じ色をした衣をまとった女がいる。
 笑う声と同じく、幸せそうな微笑みを浮かべて。

『ずっと、ずっと一緒ですわ……来たのだもの。ずうっと、そばにいてくださる……』

 白い繊手が膝に頭をのせた男の髪を、頬を、ゆっくりと撫でる。
 慈しむように動いていた、美しい指が男の首にからみついた。腕は頭を抱え、そのまま覆い被さる。
 びく、と一つだけ震えて男の体は止まった。女の指と体は絡みついたままだった。
 やがて女がゆるりとくびをもたげた。

『ふふ……ふふふ……』

 女はふふ、と笑うと男の唇に己のそれを重ねた。
 生ぬるい風が吹き、淡い紫の花が揺れる。愛しそうに何度も何度も男の髪を指で梳きながら、女はいつまでも咲き続ける花を眺めていた。

『いつでも、いつまでも。わたくしは待って、わたくしは歓迎するわ……』

 ――囚われ人が、訪れるまで。

 ザァ、と大きく風が吹いた後、そこにはただ、山となった紫色の花びらがあった。

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