花菖蒲

 深い、深い山の奥。そこには、「鬼」がいると伝えられていました。

「いい子にしてないと山から鬼さ来て、ぺろりと一飲みで喰われちまうぞ」
 それが麓にある集落に住む親たちの、子供達に対する脅し文句でした。
 集落に住む者たちは「鬼」は自然を操る不思議な力を持っていると信じており、毎年作物が充分に採れなかったり悪天候が続くと「鬼神さまのたたり」と言って供物を捧げたりするのでした。
 供物はその時々でさまざまでした。
 昨年の取れ行きが多ければ余った栄養価の高い野菜・果物・木の実を。
 子供の数が多ければ、巫女のお告げのあった子を供物として捧げました。

 その年は、特に厳しい状況でした。
 雨は降らず、降るときには、山の上から土砂が滑り落ちてくるほどの大降り、その両極端な天候に集落の人々は震えあがるばかりでした。
 集落の皆が困り果てて話し合い、巫女を頼りに占った結果、巫女は集落の人々に告げました。
「妙齢の少女が山へ「鬼神さま」のところへ嫁げば、嵐は収まりまた平和な日々が戻るであろう」
と。
 その時、集落には妙齢と言えるほどの少女は一人しかいませんでした。
 少女は素晴らしい美貌の持ち主で、その評判から近隣からの求婚が絶えないほどでした。
 誰もが少女の命を惜しみましたが、それでも集落のためにはしかたがないと、親は泣く泣く少女を説得し、山へと行く準備をさせました。
 久方ぶりに晴れ間がのぞいた日を見計らって、少女は山へと嫁がされました。
 小さな輿に乗り、白無垢の着物を着せられ、鮮やかな紅を差された少女は素晴らしく美しいありさまでした。
 輿の中には集落中に咲いている花菖蒲が敷きつめられていました。
 そして、男達の手で運ばれた輿は、ほかに何一つ残されることなく、山の中に残されました。
 山の奥でたった一人輿の中に残された少女は、しばらくは小さなすすり泣きをもらしていました。
 しかし、その少女に声をかけた者がおりました。
 それは小さな小さな声で、初め少女は風の音だと思い込み、まったく気にとめてはいなかったのですが、段々と大きくなるその声に自分が呼ばれていると気付いて、震えながらも返事をしました。
「どなたでしょう?まさかこの山の守り神であられる鬼神さまでございましょうか?」
少女の声は鈴が転がるような優しい響きで、少女に話し掛けた者はしばしうっとりと聞きほれているようでありました。
 そして、少女の声の余韻が消えるころに、ハッキリと答えました。
「そなたらが『鬼神』と称するのはまさしく私であるよ。美しい声をした素直な乙女よ」
 輿の中の少女はその返事にびくりと体を震わせると、言いました。
「では、あなたが今までの者のようにワタクシを食べるのですか?」
 少女は白無垢の着物に包まれたそれよりも白い手を輿の中からのぞかせて、紅をさした熟れた果実のような唇で尋ねました。
 少女の声は緊張からか、丁寧な口調ながらひっくり返ってしまって、少女は頬を赤らめました。
 気づいた鬼神は小さく微笑み、少女の言葉に首を振りました。
「私は『鬼』と称されるけれども、人の肉はそれほど好きなわけではない。もしお前が私の嫁になってくれるのだと言うのなら、私はお前が死ぬまで人の肉は口にせぬとお前に誓おう」
 鬼神は少女の無垢な美しさと、優しい声に心の底から感銘を受けていました。
 そして、もし好んで傍にいてくれるなら、人として生きようと少女に言いました。
「それならば、ワタクシがあなたの妻になるのはつつしんでお受けいたしましょう。けれど、人間となってワタクシの傍にいてくださるのなら、ワタクシが死んでもこの花菖蒲が咲いているうちは、人の肉は食べないでくださいまし。ワタクシが死んだ後は鬼神として生きてくださって結構です。ただ、花菖蒲が咲くその間だけは人として、ワタクシのために生きてくださればよろしいのです」
 そう言って、少女はにこりと微笑みました。
 鬼神は少女の申し出を喜んで受けて、少女が生きるうちは天候を荒らすことはなく、穏やかに、つつましく暮らしました。
 少女が死んだ後も、鬼神は少女との約束を破ることはなく、少女との間にもうけた子供達にもその教えを守らせました。
 そして、少女が死んだのはちょうど花菖蒲が咲き誇る時だったので、鬼神は命日には花菖蒲の草原に立って花菖蒲を摘み、空に向かって放って美しい妻への歌を詠いあげていたということです。

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