イタリア以外の文芸作品も読みたくなるということについて
イタリアの文芸作品を味わうために他国や日本の作品を知りたくなる。
そんなことを考えてみたいと思う。
例えば映画にもなっているイタリアの小説『帰れない山』の作者パオロ・コニェッティは、リゴーニ・ステルンといった同国の作家にも影響を受けているが北米文学を愛しているとも述べている。
好んで読んだという作家にヘミングウェイやレイモンド・カーヴァーを挙げているが、カーヴァー氏は最近我が国で新作を出し話題になっている村上春樹さんにより熱心に紹介され、その作品が翻訳されている。
そこでパオロ・コニェッティが影響を受けたカーヴァー氏の作品はどのようなものかと『大聖堂』や『頼むから静かにしてくれ』が読みたくなってくる。
すると件の作品の邦訳を手掛けた村上春樹さんの小説も読みたくなり最新作の『街とその不確かな壁』も手に取りたくなるというわけだ。
他方、アントニオ・タブッキやナタリア・キンズブルグをはじめ数々のイタリアの文学作品を翻訳し、日本に紹介して下さった須賀敦子さんが残したエッセイ『ヴェネツィアの宿』には自身が青春時代を過ごした寄宿学校の話が収められている。
その中でアイルランド人の厳しいシスターとの想い出に纏わるエピソードがあり、映画『駅馬車』や『静かなる男』の監督として知られるアイルランド系アメリカ人のジョン・フォードについて言及される場面がある。
そうなるともうおしまいだ。「映画も見なければ!」という事態に陥ってしまうことになる。
こうして読みたい本や映画が数珠つなぎのように広がり、読み切れない本が積まれ、観きれない映画が溜まっていくことになる。
・・・困ったものだ。
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