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歌誌『塔』2024年2月号作品批評(2024年4月号掲載)-前編-

みなさま、こんにちは。
ここ最近、一気に気温が上がってきました。
街中には半袖の人も。

写真は「みぞそば(溝蕎麦)」の花です。
それでは2月号の作品批評をどうぞ。

選者:梶原さい子
評者:中村成吾

子の髪はやはらかな群れ撫でてゐるてのひらこそが撫でられてゐる(小金森まき)

『塔』2024年2月号p174

「やはらかな群れ」という把握が、子と向き合う主体の実感を読者に伝えてくれている。
短歌では「愛している」などと言わなくともしっかりと伝わるものだ。
そして、下の句では主格を入れ替えたリフレインが展開されている。
永井陽子の「ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ」(なよたけ拾遺)を思い起こす方も多いだろう。無機物の櫛は拾われたことについてそれ以上の意味をもたない。完全な客体として美しい夕べに存在するのみ。
しかし、掲出歌の撫でるという行為は意味を帯びている。そして「撫でられてゐる」という措辞には、子から主体への気持ちの伝播、反応がある。子はまさに今を生きているのである。
閉じた物語と開かれた物語、いずれの歌にも良さがある。

接客をすればいろんな人がいていくつも歌が生まれてしまう(吉村おもち)

『塔』2024年2月号p174

人間の数だけ物語がある…いや、そんな綺麗事を言っている場合ではないのだ。
接客に立つと「いくつも歌が生まれてしまう」ほどネタは尽きないという。一連の歌にはクレーム対応の場面が描写されている。「クレームをただじっと聞く給食のグリーンピースを飲み込むように」・「何回もされた話を聞きながら詩になりそうなところを探す」
この原稿を書いているのは二月下旬なのだが、先日東京都が、客の迷惑行為や悪質なクレームなどのカスタマーハラスメント、いわゆる「カスハラ」を防ぐ全国で初の条例の制定に向けて検討を開始するという報道があった。この条例にどの程度の実効性が備わるのか今のところ不明だが、条例のような決まり事を作らなくてはならない状況というのもまた情けないものだ。私たちは他者に対してもっとやさしくなれないものか。


父が母を怒鳴るところを見て育つ この世は美しい地獄(潮 未咲)

『塔』2024年2月号p175

母が父に怒鳴られている。「見て育つ」とあることから、一度や二度ではなく恒常的な状態であったのだと推察される。
「美しい」という形容には、主体の絶望の深さや諦念が滲み出ている。
また、一字開けは読む者にやるせない気持ちを抱かせるとともに、父と母の心の距離をも暗示しているようだ。あるいは、母が父の暴言の防波堤となり、主体へ直接降りかかることがないように守っている距離なのかもしれない(深読みがすぎるか)。
連作の中には「大きくて頼れて明るい冷蔵庫は優しいお父さんみたいで泣く」という歌もある。主体にとっては、血の通っているはずの人間よりも、血の通っていない冷蔵庫のほうが「お父さん」なのだ。これらの歌はいずれも三十一音の定型ではない。過剰であったり不足していたり。それはまさしく主体を取り巻く家庭環境をも映している。

どこまでもまっすぐ続く道の果て黄昏れている積乱雲が(臼井裕之)

『塔』2024年2月号p175

初読時は下の句に目が留まったが、改めて読み直してみると、上の句にも面白さを見出した。「どこまでもまっすぐ続く道」のはずなのにそこには「果て」すなわち終わりがある。言葉の綾と言われればそうかもしれないが面白いと思う。主体には「果て」が見えているのだろうか。また、積乱雲が黄昏れているという把握の背後には、主体もまた黄昏れているのだという暗示があると見てもよいだろう。


立ち寄りし古書店の本手に取れば青き時代のかの日に帰りぬ(小芝敬子)

『塔』2024年2月号p176

ふらっと古本屋に入る。なんだか見覚えのある背表紙だなと思って棚から抜き取ってみる。ああ、これは昔読んだ本じゃないかと思う。本が記憶装置となって、普段はしまわれているいろいろな思いを引き出してくれる。心がふわっと青春時代に戻っていく。主体は手に取ったその本を買ったのだろうか。私の場合、手放してしまった本をもう一度手元に置いておきたくなって買い直すことがある。

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