中心帰納とは何なのか?探究(1)

※この記事の内容はだいぶ筆者の独自研究が含まれます。まあ、この記事に限る話でもないけど。。。

1.それはある種の質感、状態

中心帰納は行為ではない。もちろん、中心帰納によって顕れる動きはあるけど、中心帰納自体は「在り方」というものに近い。
既に中心帰納との出会い(1),(2),(3) にも書いたように、「行為」に意識が行くと相手の反応を誘発し衝突が生じる可能性が高い。
そこで、意識を中心に置き、自分の状態を整える結果として起きるハタラキに身を任せると衝突が生じにくくなる。
では、「在り方」とは何なのか?「中心に意識」を置くとは何なのか?
自分を整えるとはいうが、「整っている状態」とは何なのか?

意識の置き方という「中心帰納」ではあるが、実は中心に意識が囚われている状態と言うのも違っていて、
「中心帰納」の状態は「集中せずして集中している状態」とも言うし、「弛緩集中」とも言われている。
だから、丹田に力を籠めるというのとはちょっと違うかもしれない。
実は、無元塾では中心帰納の際、腹の力は抜けと言われる。力を入れた腹に意識を集中するのは容易であるのは、すぐに確認できるだろう。
しかし、中心帰納においては腹筋と背中の間にある筋肉がない「間」に意識を集中する。中心帰納が正しくなされると、むしろ、どこか特定のところに力感が集中する感じが解消される感じになるかもしれない

ともかく「中心帰納」は意識の置き方でありながら、意図的なものとは違く、偏りがなく、自由で、リラックスしている状態ではあるが、
正しく中心帰納ができている時には、間違いなく「中心帰納の感覚」はある。
無元塾においてはこの感覚を「質感」とか「クオリア」と呼んでいて、この「質感」は、稽古で試行錯誤していくと技の再現性が高い状態を発見することで掴むことができて、この「質感」を一度手に入れると、今度は日常のあらゆる場面でその「質感」を再現できるようになる。

2.「気」「機」「形」

ところで、成田伝合気道には「気」「機」「形」という概念がある。
それぞれ
気:何か行動を起こす前に孕む気持ち
機:気持ちが形になる瞬間
形:実際に顕れる動き

となっている。この気の段階でなされるのが「中心帰納」になる。
この気の段階で、肉体的にも精神的にも偏りがない状態にあると、相手の拍子に惑わされずに気から機に移れるし、顕れる形は自由になる。

ここで、気の段階で、少しでも「指向性」「方向性」「目的性」が出ると、相手の状態を伺うために、機を相手の拍子のどこかに合わそうとするため、時間的制約が生まれ、顕れる形も合目的なものに絞られるために不自由になる。

気の段階での心の持ち方は時間(機)と行動(形)に大きな影響を及ぼし、それがほんの少しのものであっても、結果に大きな差を生みまだす。

気の段階での状態は、形に大きな差を生み出すの図

3.「気」と「マインドセット」

ところでマザーテレサの「5つの気をつけなさい」はご存じでしょうか?
具体的には以下の通りである。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

どことなく先ほど説明した「気」「機」「形」に通じるものを感じないだろうか?
一つ思うのが、中心帰納(に限らず心法)をアプローチ方法とした武術は術から道に至る可能性があるんではないか?ということです。

4.質感はどうつかむのか?質感を掴む主体はなんなのか?

中心帰納の「質感」なんですが、これは日頃から、内面の観察をよくやっている人は習得が早い傾向にあると思います。
ただし、だからと言って、1人でこの「質感」にたどり着くのは至難の業だと思います。

やはり、一番の近道は
1.体験
2.試行錯誤
3.稽古での答え合わせ

だと思います。我田引水にはなりますが、成田伝合気道をまず一回でも体験したほうがいいと思います。
その時感じた技の「質感」を持ち帰って、剣の素振りでもいいし、何らかの型でもいいし、ランニングでもいいし、あるいは座禅でもいいし、(ここも我田引水ですがやはり体捌きがおすすめです。)
なるべく「質感」がそれらであらわれるように努めてみます。
もちろん、動きや姿勢がその「質感」を感じるのを妨げることもあるので、
物理的な動きや姿勢の探究も大事です。

そして、答え合わせを稽古でします。技の稽古の際、ある「質感」を感じる状態に心と姿勢を調整すると、相手の反応が現れます。
これを「ハタラキ」と言います。
もちろん、最初は何の反応もないかもしれません。そういう時は相手に感想を聞いて、修正しましょう。
稽古相手をある種のリトマス試験紙として、そうやって何回も何回もトライアルを積んでいくと
これだ!という「質感」が徐々にわかってきます。
そのこれだ!こそ自分の中心帰納です。
百人百様で一人一人違うものですから、最終的には自得するものです。
実は中心の空間的位置すら、1人1人違うものです。

さてさて、ここまで書いてきましたが、中心帰納はあくまで「状態、在り方」なんですが、その「状態、在り方」を追い求める自己は何ぞや?という大きな謎があるんです。

次回はこの中心帰納を追い求める自己、主体はなんなのか?その哲学的な部分を探究していこうと思います。

続く


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