“表現”て、そんなに特別なことじゃなくて
アジアンドキュメンタリーズ、『ダンスの時間』という映画を見ました。
『ダンス』って聞くと、やったことない人にとっては「自分とはかけ離れたもの」って思うかもしれないけど、そうじゃないんだ。そんな特別なことじゃない。
「孤高の芸術」でもなければ「超絶技巧」でもなく、生きることをやんわりと楽にするダンス。あぁ、わたしがしたいのはこっちの方向だ、と、見ながら思った。
誰かとの比較ではなく、個性の極みでもなく、生きることと踊ることが一本のしなやかな線でつながったダンス。
なにかを感じ、伝えようとするとき、生き物の体は動いています。たとえば自分がただ手を上にあげるという動作をするだけで、何かが変わってくとか、広がった、と感じることが、もうすでにダンスなんじゃないかなぁって思うんです
と、主人公の村田さんは言っていて。
あぁ、もうほんとうにそう。
もちろん私がレッスンで提供するのは、日常から離れたエンターテイメントでもあるのだけど。
でも、そこで感じたなにかが日常につながって、なにか新しいことを始めてみようと思えたり、いつもは付けないアクセサリーを身に付けてみようと思えたり、そんな小さなことにつながっていったらいいなって思っています。
映画の中の印象的なシーンで、村田さんかダンサーたちにレッスンをつける場面があって。
そこで一人のダンサーが、スタジオにいた1匹の小さな虫に「ギャッ」という反応を示したとき。村田さんがそ虫を人差し指でスッとすくって、ちょっと厳しい態度でこう言う。
あのね、虫を見たときにギャッて言うの、やめてほしいの。それは違うと思うよ。虫も人も、みんな同じだから。
虫だけじゃないよ。モノとか場所とかも、みんなそう。そいういう態度が、ダンスにも出るから。
例えばわたしは、日常の中でちょっと手や服がドロで汚れたり、子どもがなにかこぼしたり、そういうときについ眉をしかめてしまうときがある。
「そういうトコやぞ。」と、このシーンを見て自分自身を戒めるように思った。
そういう意味で、私にとって、一見真逆に見えるこの里山での古民家暮らしも、土に触れることも、毎日の水汲みや火熾しも、子どもたちと触れ合うことも、掃除をすることも、ご飯を食べることも、全部ダンスなんだなぁって改めて思いました。
心が開いていくように。自分の内と外が感じられるように
ダンスダンス。
一緒に踊ろう。
一緒に生きよう。
それはなにも変わらない、同じこと。
踊るように生きる。
生きるように踊る。
そういうふうにこれからも在りたい。
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