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“夫婦”という、最小単位の多様性

「人はそれぞれみんな違うのだから、その違いを認め合おう」「個性をのばそう」と言うけれど、子どもの個性は認めるのに、夫の個性は認められないときがある。

夫婦とは、社会的に見て最小単位の多様性である。

もちろん“社会的に見て”という言葉を外せば、それより小さくてすべての大元になる多様性は、個人、つまり“わたし”であることは言うまでもない。

すべてはまず自分で自分の個性を受け入れ、認める、という作業からはじまるし、そこを外して多様性を語ることはできないはずだ。

本記事ではそれを前提としたうえで、“夫婦の多様性”というテーマで話をしてみたい。

子どもや自分、あるいはジェンダーや多様な特色を持った人々の多様性、あるいは多様な働き方や、就学に対する考え方の違いを認めるべきという声は、ここ数年よく聞くようになった。

それはとても前向きな変化だと思うし、確実にその方向に向けて時代が動いていることを感じている。

しかしそれを語るうえで、そうしたあらゆる生命の根幹として子どもを産み落とし育むための最小単位の社会的チームである、“夫婦の多様性”がまず重要なのではないかと思うのだ。

夫婦というものは家族を運営する上で最も重要なタッグチームであり、同じ方向を向いて一緒に歩みを進めなければできないこともたくさんある。

それでもやはり、子どもに対しては個性を認めるのに、夫には自分と同じ考えや行動を求めることは違うのだろうなと感じている。

このnoteは、子どもに対しては個性を認めて育てようとしている反面で、夫に対してはついつい自分が思う通りに動かそうとしたり、同じ考え方になるように仕向けようとしたりしてしまうことが時々ある私の、反省文のようなものである。

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*互いを他者として尊重しあえる、精神的自律

私たち夫婦は結婚6年目だが、外から見て仲がいいと言われることが多い。
「2人はなるべくして一緒になったんだね。」と言われたことも、これまでに2度3度どころではない。

実際私自身も夫のことは誰よりも信頼しているし、一緒にいてこれ以上安心できる人はいないと思っている。

ただそれを、“相性”とか“運命”とかいう筋書きだけでまとめてしまうのは少し違うような気がしている。

もともと私は誰かに束縛されたり、指示されたり、コントロールされたりすることを異常に嫌う性格で、どこまでも自由に、誰にも束縛されずにやりたいように生きることを好む人間である。

そんな私があえて夫と家族というものを形成して共にくらしているのは、そこに安心感があるから、という一言に尽きるのではないかと思っている。

それはけして金銭的な安心感ではなく(そういう意味だとしたら、わが家は今現在破壊的に安心感のない状態である。笑)、夫という人がそこに存在していて、共に生きているという安心感である。

逆説的に言えば、その安心感さえあれば、後はなにもいらないのだ。

それを成り立たせるために必要なのは、互いを他者として尊重しあえる精神的自律なのかな、と私は思っている。

*他人同士である夫婦が、どのように同じ舟を漕げばいいのか

子育てにおいて「子どもは自分と別人格だから、他人と思って育てよう」と言われるのと同じように、夫婦も当然他人同士である。

しかし時間が経つにつれて、もともと他人として認識していたパートナーを次第に自分と同化して見てしまう傾向が出るのは、どの夫婦でもあることなのかもしれない。

夫婦というものは、結婚という取り決めをした時点で、ある種の外からの束縛がすでにはじまっている。

そしてその後ひとつ屋根の下で暮らし、物理的にモノを共有しながら暮らし、ましてや子を産み共に育むという道を選ぶのであれば、否応なしに合意形成を迫られる場面が当是のように次々と現れる。

その荒波とも思える過程の中で、次第に「夫婦は他人同士である」という基本的な原則を忘れていってしまうのかもしれない。

そうなった時は、一度立ち止まり、地図をながめるような気持ちで自分たちの現在地をしっかりと確認することが必要なのだと思う。

「夫婦だから同じ方向を向いていなければいけない」「夫婦はお互い協力し合わなければいけない」となってしまえば、当然だけどうまくいくはずがないのだ。

大切なのは、他人同士である夫婦がどのようにして同じ舟を漕いでいけるのか?を考えること。

あくまでも夫婦は他人同士であり、相手には相手の個性があり、束縛したりコントロールしていい存在ではないという、シンプルで基本的な原則をときどきちゃんと思い出すこと。

夫婦には、その作業がときどき必要なのだと思う。

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*フラットな話し合いに向けて

精神的に自律した状態で一緒にいられる関係性とは、表向きの「自分のことは自分でする」とか「頼ってはいけない」ということではけしてないと思っている。

そのために必要なのは、単純だけどやはり“話し合うこと”なのではないかと思う。

自分の気持ち、意見をちゃんと相手に伝えること。
そして相手の意見にも耳をすますこと。

勝手に自分の気持ちを引っ込めて、「私さえ我慢すれば丸く収まる」というのはある種のエゴだし、反対に「話し合う」という看板を引っさげながら、予め自分で決めたゴールに向かって求めている答えをムリヤリ引き出し、それ以外の意見を排除しているのであればそれも“話し合い”とは言えない。

あくまでもフラットな関係性で、ゴール設定のない状態で話し合うというスタンスを持つこと。そして、相手に意見することを強要しないこと。

「わたしはこんなにちゃんとコミュニケーションを取ろうとしているのに、なんであなたは何も言ってくれないの?!」「なんでちゃんと関わろうとしてくれないの?!」となってしまえば、そこにすでにコントロールが発生してしまっているのだという自覚を持つこと。

自分が聞き出したいことをムリヤリ聞き出そうとするのはコミュニケーションとは言わない。本人が話したいことを、話たいタイミングで聞くのがコミュニケーションである。

これは子どもの場合も同じで、「うちの子はなにも話してくれない」というのは、「“自分が聞き出したいこと”は話してくれない」ということなのだ。
たぶんきっと、そうでない場面で、「ねぇこれ見て!」「ねぇねぇ聞いて!」と、キラキラした目で話しかけてくる場面が、1日に何度もあるはずなのに。

*地図を広げるように、自分たちの現在地を確認する

こんなことをツラツラと書いてみたのは、最初にも書いたとおり、私のための反省文を書くためである。

「子どもの個性は大切」と言っているくせに、夫に対してはついつい自分が思う通りに動かそうとしたり、同じ考え方になるように仕向けようとしたりしてしまう。そしてそれを当然のことのように感じてしまっていたことへの反省文。

最近うまくいかないなぁ…なんか違うなぁ…ということを感じながらも、お互いに余裕がないと、どうしても楽な方へ流れてしまうものである。

ただ単純に「もっとこうしてよ」と言うだけの方が、わざわざ話し合いをしりよりずっと楽だ。だけどやっぱり、ときどき立ち止まって、地図を広げるようにゆっくりと、自分たちの現在地を確認するという作業が必要なのだと思う。
少なくとも、私には。

「こうあるべき」ではなく、むしろ違いを面白がる。そんな余裕が出てきたら儲けものだ。
そして話し合いの最後には、「いつもありがとう」で締められるように。

この世界で最も小さな、そして最も大切な多様性を守るために。


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