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自分のなかの“出遅れている感”と、過去を丁寧に観ることの尊さ

あぁ、時間がない時間がない。1日が48時間あればいいのに…

そんな思いを毎日抱えながら、気がついたらまるで取りこぼしてしまった過去を回収しようとでもするかのように、意識を先へ先へ持って生きている自分がいた。

「わたしはすでに出遅れている。」
「これまでの人生をムダにしてきてしまった。」
「だからもっと急いで、もっと自分に正直に生きていればホントウは今頃なっていたであろう自分に早く追いつかなければ…」

そんな感覚がどこまでも自分を追い詰めていた、そんな時に、2000年近く昔に活躍していた哲学者、セネカ著の『人生の短さについて』を読んだ。


我々は短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。我々は短い人生を受けているのではなく、我々がそれを短くしているのである。

では以上の原因は何であろう。諸君は永久に生きられるかのように生きている。満ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。ところがその間に、今日が諸君の最後の日になるかもしれないのだ。

諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。

先々のことをいつも口走っている人間たちの考えほど愚劣なものがありえようか。彼らはますますよい生活ができるようにと、ますます多忙を極めている。生活を築こうとするのに、生活を失っているのだ。

幸うすき人間どもにとって、まさに生涯の最良の日は、真っ先に逃げていく。一体なにゆえに君は、悠長にも君の前方に長々と年月を伸ばすのであろうか。

人生は3つの時に分けられる。過去の時と、現在の時と、将来の時である。このうち、われわれが現在過しつつある時間は短く、将来過すであろう時は不確かであるが、過去に過した時間は確かである。この過去を放棄するのが、多忙の者たちである。彼らには過去のことを振り返る余裕がなく、またたとえあったとしても、悔やんでいることを思い出すのは不愉快だからである。

ところが過去は我々の時間のうちで神聖犯すべからざる、かつ特別に扱われるべき部分であり、人間のあらゆる出来事を超越し、運命の支配外に運び去られた部分である。


ー『人生の短さについて』より抜粋ー


「わたしはすでに出遅れている」という感覚が自らを巣食っているとき、その根底にはこれまでに過ごしてきた年月をつぶさに観ることもなくことごとく悔やみ、その結果として「今のままの自分ではダメ」と、ベクトルが現在ではなく未来に向いている状態だったのだろう。

けれど、過ごしてきた年月を悔やみ、嘆き、憎悪しているうちは、きっと永遠に今はやってこない。

そのためにも、まずは過去を丁寧に観て、ひとつひとつをしっかりと肯定すること。

「これまでの人生はぜんぜんムダなんかじゃなかったし、必要な時間だったんだよ。だから、あなたは今のあなたにもっと安心していいんだよ」って、わたしに言ってあげるように。






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