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アイルランド音楽のグルーヴ講座

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本記事の文字数は約33,000文字、著者本人による実演動画が10本、YouTubeやSpotifyの参考音源が豊富に掲載されています。

第一章 はじめに

まえがき

皆さんは日頃、様々な楽器でアイルランド音楽を楽しまれていることと思います。ダンス曲を練習をしているとき、自分の演奏にはノリがないと感じたり、アイルランド人の演奏のように思わず踊り出したくなるようなノリで演奏したいと感じることはありませんか?

ダンス音楽はアイルランド音楽の中でも極めて重要なジャンルで、膨大なレパートリーが存在しています。ダンス曲のほとんどは2オクターブ以内の音域しかなく、ほぼ八分音符だけで埋め尽くされており、1曲あたりの長さはせいぜい32小節程度と短いので、西洋音楽の楽器経験者であれば楽譜通りに演奏することはきわめて簡単です。メロディがシンプルで繰り返しが多いため覚えるのも簡単で、すぐにセッションをして楽しむこともできます。では、たくさんの曲を暗譜して楽譜通りに弾ければ、アイルランド音楽が演奏できたことになるのでしょうか? きっとそれだけでは、何を演奏していても一緒に感じられ、すぐに飽きてしまうでしょう。

聴く人を虜にするアイルランド音楽の秘密はいわゆる「ノリ」、正確に言えば「グルーヴ」にあります。グルーヴとは、聴いた人が思わず脚を動かしたくなるような躍動感のことです。

例えばSpotifyやYouTubeで“Morrison’s Jig”や“Drowsie Maggie”という有名曲を検索してみてください。様々な奏者の演奏がヒットしますが、その中には思わず踊り出したくなるような素晴らしいグルーヴを備えた演奏者がいる一方で、音程は正確で音色も綺麗でメロディの美しさは伝わるけれど、踊りたくはならない演奏もあることでしょう。その違いはどこから生まれるのでしょうか?

自己紹介が遅れました。私はフルート奏者のhataoと申します。私は、アイルランド音楽をティン・ホイッスルとアイリッシュ・フルートで25年以上演奏しており、特にここ数年はアイルランドのダンス音楽のグルーヴについて研究をしています。アイルランドのダンス音楽は一見シンプルですが、何年演奏し続けていても改善する余地のある奥深さがあります。私は、人々を魅了するアイルランド音楽の極意はグルーヴにあると考えています。アイルランド音楽のグルーヴは、芸術と言っても良いほど洗練されています。

そこで今回は、アイルランド音楽のダンス曲のグルーヴ講座というテーマで講義をします。良いグルーヴはダンス音楽を演奏する上で何よりも重要です。たくさんの曲を知っていても、さまざまな装飾手段を身につけても、グルーヴが悪くてはすべてが台無しになってしまいます。しかしこの最も重要なグルーヴについて、アイルランド人のレッスンを受講しても分析的・体系的に教えてくれることはありません。

最初にお断りしておきますが、私自身が世界超一流の素晴らしいグルーヴでアイルランド音楽を演奏できるからこの話を書こうと思ったのではありません。むしろ日々、グルーヴに苦闘していると言っても過言ではないでしょう。そのような苦労を重ねた私は、よいグルーヴを獲得するために分析的に音楽を聴く手法を考え出しました。その手法をもとに、アイルランド音楽らしい「良いグルーヴとは何か」、そして「良いグルーヴを構成する要素は何か」、「どのように、よいグルーヴを身につけることができるのか」の3点について、これからお伝えします。
今回の講義を受講することによって、皆さんの音楽の聞き方が変わり、効率的に練習をするためのヒントを得ることができるでしょう。

アイルランド音楽の特殊性

私はアイルランド音楽以外で演奏される様々な笛を楽しんでいます。世界の音楽に視点を広げてみると、笛やヴァイオリンのような旋律楽器には、歌のメロディを楽器で表現する役割や、旋律楽器の重なりによって和声を表現する役割が与えられていることが多いようです。多くの音楽ジャンルで、打楽器や弦楽器がリズムや和声を奏でた上で、旋律楽器は歌うようにメロディを奏でることに徹しています。

その点において、アイルランド音楽は特殊です。本来は旋律楽器のみで無伴奏で演奏されていたため、リズムや和声を担当する伴奏楽器(例えばピアノやギターやドラム)を必要としません。メロディの中に和声・リズムのすべてが内在されており、メロディだけで全てが完結している音楽なのです。このことが、全ての旋律楽器奏者が良いグルーヴを身につけなくてはならない理由です。

どのような人にこの講義が必要か?

この講義は、すでにアイルランド音楽をある程度演奏している人を対象としています。しかし、まったく演奏をしたことがない人でも、読み物として楽しみ、音楽への理解が深められるように書いています。リールやジグについての前提知識がない方は、「第八章リズム各論」を先にお読みください。

アイルランド音楽では、すべての旋律楽器奏者が同じメロディを演奏します。そのため、アイルランド音楽のメロディとリズムの秘密に迫る本講義はすべての旋律楽器奏者にとって必要な講義であると確信しています。また、アイルランド音楽のグルーヴのしくみを理解したい伴奏楽器奏者にも有益な講義となるでしょう。

この理論を応用することで、アイルランド音楽では見られない楽器、例えばクラリネットやチェロや三味線でもアイルランド音楽らしい演奏をすることも可能となります。また、ここで紹介するグルーヴ音楽を分析的に学ぶ手法は、同じく旋律楽器がグルーヴする民族音楽(他の地域のケルト音楽や北欧音楽や東欧音楽)、ジャズ、古楽の舞曲の演奏にも応用が可能です。

理論だけで音楽を学ぶことはできない

伝統音楽は文字や楽譜ではなく耳と目で学ぶ音楽ですから、理論や分析によって音楽を学ぶことに疑問をお持ちでしょうか? 例えば水泳の教科書を一生懸命に読んでも、泳ぐ練習しなければ水泳を覚えることができないと言わるように、音楽も理論を知ることだけによって上達することはありません。

アイルランドで音楽のレッスンでは、先生がフレーズごとに短く分けて弾くのを生徒がただひたすら見て真似するスタイルの教え方が主流です。この学習法はメロディー、音色、ニュアンス、装飾音、グルーヴ、アーティキュレーションなど様々な音楽的要素をいっぺんに学ぶことができるため効率的であり、私もレッスンで採用しています。

一方で、中級レベルで足踏みをしてなかなか上級レベルに達しない学習者は、自分に足りないものを言語化し、そこを重点的に練習していく必要があります。またダンス音楽を教える講師にとっても、グルーヴの論理的な理解は生徒の理解を助けるレッスン手法としてこの分析理論を取り入れることができるでしょう。

音楽を学ぶことは言語を学ぶことと似ています。耳や勘の良い人はテキストなしで音から会話を学ぶことができるでしょうが、多くの学習者は文字と単語を学び、文法を学ぶことで少しずつ言語を習得します。こうして理論的な基礎を学んだ上で、当然ながら実践を欠かすことはできません。

音楽の上達とは、耳が良くなること

音楽の上達には二つの側面があります。ひとつは楽器のコントロールの上達です。まずは正確な音程、正確な運指、正しいリズムで楽器を演奏することができること。これはもちろん大事なのですが、これは上達することの半分にすぎません。もう半分は耳が良くなることです。素晴らしい演奏者を真似したいと思ったとしても、演奏の中で何が起こっているのかを正確に聴き取ることができなければ、自分の楽器で再現することはできません。この点も語学の習得とも似ています。ネイティブ話者が喋っている発音を正確に聴き取って、その通りに正確に発音できるようになることによって初めて、会話が成立するからです。音楽の上達においても言語と同じく、理論の理解とリスニング力やスピーキング力という実技の実践は、どちらも欠かすことができません。

音楽の聴き方が変わる

本講座では過去100年間あまりの多様な楽器の名人による演奏動画と音源を資料に引用し、グルーブの仕組みについて解説しています。この講座を最後まで読んだからといって、すぐにグルーヴが良くなることを保証するものではありません。しかし、グルーヴの論理的な理解を深めることで音楽の聴き方が変わり、地域ごとや個別の演奏者の演奏スタイルの違いを聞き取れるようになり、自分のグルーヴを客観的に聴くことができるようになることが期待できます。それは上達に向けて正しい方向に歩き出した証です。まずは、最後までお読みください。そして音楽の聴き方にどのように変化が起きたのかを感じてみてください。

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