米一丸
少し前まで博多の心霊スポットとして、地元では有名だった場所です。実際はその近くの踏切だったんですが、鉄道の高架化に伴いその話は消えつつあります。このまま静かになって米一さんたちをそっとして欲しいものです。
貝原益軒さんの書く米一の伝説を紹介します。
筑前國続風土記 巻之十八 糟屋郡 表 米一石塔より (意訳)
地蔵松原の南、多々良川の潟に近いところにあります。米一(=米一丸)について、民間の言い伝えを聞きました。
駿河国に木島長者というお金持ちがいました。家は裕福だけど、後継ぎがいないことを憂いていましたが、米山薬師に祈願すると、米一が生まれました。成長した彼は、家に仕える木島右近を使いに出して、若狭国にいる湯川長者の娘を娶りました。その妻はとても美しい容貌をしていました。
木島長者も米一も、京の一條何某(=詳細な名前が不明なので、なにがし、記載)の家人でした。一條何某は、米一の妻を奪おうと考えました。
そこで米一に多くのお金を渡し、申し付けたのです。
「私は前に筑後の柳川を旅していたとき、筑後国三池の伝太という刀鍛冶に作らせた二尺七寸の太刀を、博多の何某という質に入れ遺し置いてきてしまった。お前は急いで博多へ下り、その借金を返して刀を取ってきてくれ」
博多では先に内通して盗賊に依頼し、米一が博多に下ってきたらすぐに殺せ、と命令しました。
米一は元暦2年(西暦1186年)、和泉国の堺の港より船出し、翌年3年の春に博多に到着、竹勘九郎という人のところに宿を借りました。
その太刀を持っている人は、博多土居町の奥の伊右衛門でした。米一はすぐに8千貫のお金を払い、その太刀を受け取り、その後、帰ろうしたのですが、博多の人たちはこれを留めて、ご馳走したり、いたるところで饗応し、お酒を飲ませました。
この時の博多の奉行は、茨彦左衛門という人でした。彦左衛門は処々の盗賊を誘い、村雲という美女をも米一に娶せました。米一はこれを気に入って、博多に滞在しました。その間、蹴鞠の場、あるいは連歌の席にて、いろいろ企んで米一を討とうとしましたが、彼は勇ましい兵なので討ちとれませんでした。
これにより米一の泊まっている場所を囲んで攻めることにしました。米一の従者45人、みな屈強の者で、大勢を割って出て戦いました。しかし、敵の数が多すぎて石堂口から箱崎まで追われる間に、家人はことごとく討ち取られてしまいました。米一も負傷したため逃げることは難しくなり、箱崎の六本松で自害しました。すぐにその場所に葬られました。
この事情を故郷の妻が聞き、ひそかに逃げて博多に下ってきました。悲しみに耐えきれず、米一の墓の前で自害してしまいました。
享年16歳とのことです。村雲もこれを聞いて自害しました。こちらは17歳とのことでした。博多の人々はこれを憐れんで、討ち死にした場所に石塔を建てました。
このこと、民間の語り伝えるところなので、乱雑で本当かわからないところも多く、信じにくいとはいえ、今(=江戸時代)の博多の人々の伝説に残り、芸者がいくつかの謡い物とし、その刀も伝わって今に博多にあります。多々良の川辺の松原に、米一たちの石塔があります。あちこちにその事跡があるので、民間の言い伝えを聞いたままに、ここに記載しました。
米一石塔は、現在の米一丸の供養塔です。
この話に出てくる太刀は現在(=江戸時代)も博多にあります、と小さく但し書きがありましたが、現在あるかは不明です。
ただ、米一丸の供養塔には、さまざまな日本刀(多分模造刀)が奉納されています。
米一の美しい妻の名前は、八千代姫というそうです。
時代は源頼朝が征夷大将軍に任じられる少し前です。平重盛公が整備したという伝説の「袖の湊」に米一は船で到着したのかもしれませんね。
用語解説
駿河国…現在の静岡県の中東部,大井川以東,伊豆半島を除く地域
若狭国…福井県南部(嶺南地域)から敦賀市を除いた部分
和泉国…大阪府和泉市
元暦…1184年から1185年までの期間
蹴鞠…鞠が地面につかないよう蹴る遊び。
連歌…5・7・5の発句と7・7の脇句の,長短句を交互に複数人で連ねて詠んだ一つの歌。
2024.01.12 ルビを追加しました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?