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最難関ラグジュアリー・マーケットを攻める

マーケットを3つにセグメント

アメリカでは、クルーズ・マーケットは、以下の3つに分かれています。

1. カリブ海を中心にしたサービスに代表されるカジュアル・マーケット。

2.プリンセス・クルーズ社などが求めるプレミアム・マーケット。

横浜港大桟橋に停泊中の「ダイヤモンド・プリンセス」

3. クリスタル・クルーズ社がそのブランド・イメージの代表となっていた世界周遊型のラグジュアリー・マーケット。

クリスタル・シンフォニーとレディ・クリスタルのツーショット

これらのクルーズは、その核となる乗客の層も違えば、船内サービスも、乗組員の構成方法やサービスも同じクルーズ世界とは思えぬほどの別世界です。クルーズ会社としてもその対応の仕方が異なります。

特に、カジュアル・マーケットやプレミアム・マーケットでは、大衆を相手にする傾向が強く、船隊として、大型の船を用意しなければならないのです。船隊の整備に巨額の資金が必要になるのです。

リスクのより少ないより少ない船で、選ばれた客層で勝負するニッチなラグジアリー・クルーズに焦点を当てる事が賢明であるのは、明白ででした。

今から30年前、アメリカのクルーズ客船業界、特にラグジュアリー・クルーズの世界は、急激な変革期に突入していたのです。

アメリカのライフ・スタイルの変化とともに、 一カ所の観光ゾーンにこだわらず、世界周遊型やエリア周遊型クルーズ客船事業が形成されつつあったのです。富裕層の出現、あるいは船社間の競争の激化により、船上のライフスタイルに加え、就航先における先見性とか企画力がより重要になってきた時期です。この結果、クリスタル・クルーズ社に見られるように、サービスや配船航路などで差別化が始ままたのです。

ニュー・リッチは、ストック型富裕層とは異なり、豪華一点主義的な消費行動を中心とした富裕層の出現も影響がありました。もちろん、従来型の客船は地方の名士などの資産家のようなストック型富裕層を顧客として取り囲んでいたようです。ニューリッチの出現でクルーズ客船のマーケットのポテンシャリティが、拡大の兆しを見せていたのです。

またニューリッチ世代のライフスタイルは、自分が特別で、何時までも若く自己顕示もあるし、行動的で好奇心が旺盛。サービスにこだわりと食事などに対する興味や多様性に目が行く世代像を描いていたのです。アメリカの社会形態は 50 歳以上の人達が人口の 3 分の 1 になり、彼らがアメリカの富の4 分の 3 を占めると予測。

ラグジュアリークルーズのパイオニア「ウォーレン・タイタス」

シーボーン・ソージャン号(シーボーンクルーズ)

ウオーレン・タイタス氏は、サンフランシスコに、当時、小型船を建造して、新しいラグジュアリー・クルーズのコンセプトを目論んでいたのです。シーボーン社のプロジェクトに関わっていました。

彼は、このラグジュアリー・クルーズの世界では、指導的なメンターとして、高く評価されている人物であったのです。ハワイの船舶代理店に勤務していたのですが、北米での船による旅行の新規マーケットの拡大のために P&O に雇われることとなったのです。

そこで、当時最も行動的な宣伝調査のエキスパート「オグルビー・グループ」と"Run Away to Sea"のキャンペーン等を張っていました。その実績をノルウェーの新規会社ロイヤル・バイキング社が、高く評価したのです。

この新事業に首を突っ込む事になったと言う。その後ロイヤ ル・バイキング社を、唯一無二のラグジュアリー・クルーズ客船社に育て上げた人でした。彼は、 当時の客船が「豪華で贅沢」との評価でありながら実際のサービスは、定期船のような「最低限の居住空間やサービス」であったのを残念に思っていたのです。

何としても、ラグジュアリー・クルーズとして、 他の古典的なクルーズ客船事業から、脱皮させようと、クルーズ客船に対する新しいアプローチを 試み、その結果当時のクルーズの世界で、当時のラグジュアリークルーズの代名詞であったロイヤル・バイキング社を、孤高の評価を得るまでに育てました。彼の基本は、クルーズは、「ライフスタイルの先取り」という発想にあったのです。 

クリスタル・セレニティのメインダイニング

具体的に、ダイニングルームでは、従先客の自由な選択肢に任せるワン・シーテング(自由席制)の導入や乗客1名に対して、高い乗組員比率。

船客 1 人当たりの船上空間比率の高さ(スペース・レイシオ)や上級客室にはバルコニーの採用、ヨーロッパ人船員の登用とスカンジナビアン・スチュワーデスの起用など、画期的なシステムの導入と、それに加えて、先進的なリピーターズ・クラブの導入など、各種レクチュアー等船上でのアクテビティの充実やテーマクルーズ配船先を「世界」 に求める、ラグジュアリー・クルーズの原点を作りました。

彼の話は、NYKのような、貨物船としての経験が豊富ではあるが、クルーズ客船世界には、余り経験がない会社にとって、非常に参考になったようです。結果として彼が描いたビジネスモデルを、大いに参考としたのです。NYKのクルーズ・プロジェクトも彼が作り上げたロイヤル・バイキング社と同じような仕掛けで始まる事になったのです。

ウオーレン・タイタス氏の話によると、1970 年代に彼が独自に市場調査てした結果、 輸送手段としての客船が、休暇を対象としたクルーズ客船として取って代わり、カリブ海を中心とした1 週間クルーズが爆発的に伸びるとの分析があったのです。

また、アメリカには、未だ発展途上ではあるが、2 週間以上のクルーズ旅行の潜在的なマーケットが確実にあると確信。マーケットはよりラグジュアリーを指向していたのです。

ノルウェーの船主は、このアメリカでの調査を更に深め、そのマーケット調査が示す可能性に賭ける事にしたのです。

より好奇心に溢れ、旅行の経験豊かな旅行者など、ロイヤル・バイキング社が狙うラグジュアリーな客層が、更に増えるであろうとの予兆は、高級ホテルの新設、より高額なレストランの人気や、より高額の車やブティック型の商品の売れ行きなどの調査でも、ハッキリしてました。

NYKの新会社(クリスタル・クルーズ社)設立の際、将来のマーケットのベビーブーマー 世代の性向と極めて類似している客層でもあったのです。

このようなアメリカの客層を見立て、新造船のコンセプトを描くのに、彼らのマーケッティング調査を参考にし、デザイン会社に探求させることとしたのです。特に、マーケティングの分野での調査結果を元に、新しいコンセプトを、果敢に取り入れることを推進しました。

彼らの食事なども調べ上げ、それに見合った、料金体系や船上のイベント、 寄港地などを決める手法をとったのです。その調査によると、カリフォルニアの客が一番将来性があると言うものであった。その結果、サンフランシスコが、アメリカの本社に選ばれたのです。オスロの事務所は、雇用や一部オペレーションに特化。

彼は、昔、イギリス船主の P&Oからノルウェー船主へと渡り歩いたが、その過程で、この業界の人脈の重要さ、特に、業界の現場との接点を持つ事を、何度も強調していたのです。クルーズ客船は、 安全で乗船客が欲することを満足させるサービスで、「ブランドの価値を高める事である」と話していたのが印象的でした。

ラグジュアリー・クルーズの世界で、クリスタル・クルーズの世界戦略を描く際に彼の数々のアドバイスやヒント等も、客船準備室へ伝え、NYKの客船プロジェクトのグランド・デザインの参考となったのです。

アラスカクルーズで知ったアメリカマーケット

アメリカマーケットを知るためには、アラスカクルーズに乗船することが一番手っ取り早いと思ったのです。そこで私もアラスカ・クルーズで乗船した。プリンセス・クルーズ社の「スター・プリンセス」で行くシアトル往復のクルーズでした。

スキャッグウェイ港に停泊中の「スター・プリンセス」

プリンセス・クルーズ社とアラスカクルーズの上位シェアのホーランド・アメリカラインは、日本のNYKと同じような歴史を辿っていた定期航路が充実していた会社でした。

戦前は、イギリスのタイタニックのように大西洋航路などで、ヨーロッパからアメリカへの移民などを主客として、貨物船以外にもクルーズ客船事業を展開していたのです。

日本にも寄港したホーランド・アメリカラインの「ロッテルダム」等の運航会社てが、戦後、貨物から完全撤退し、クルーズ客船に特化したのです。

大西洋などのサービスでは、航空機に押されて大苦戦をしていたのです。

カリブ海のクルーズが、活況を浴び出した 1970 年代後半から、 彼らは、アメリカ人カーク・ランターマンという、その後の HAL のアメリカ戦略を支える人材を得て、アメリカ・マーケットに重心を移し、オランダ人乗客よりも、アメリカ人乗客を中心とした戦略に転じたのです。これが成功して、 アメリカにおけるプレミアム・マーケットに焦点を合わせた運営を展開したのです。

「スター・プリンセス」号のアラスカクルーズにて

彼らは、新しい配船先として、"The Great Land" と言われたアラスカに目を付けたのです。当時アラスカは、チャック・ウエストが展開する小型船やスタン・マクドナルドが始めたプリンセス・クルーズなどが、夏場の配船先として集客を強化していた。

カナダのバンクーバーは、このアラスカ・クルーズの基点港として、「カナダ・プレース」など街の中心部の大型客船ターミナルの建設など、その後、大成長をすることになる。

ヘリコプターでアラスカの大氷河に着陸

アラスカ・クルーズの秘境めぐりは、クルーズに最適であることを発見。多くの入り江、車ではいけない辺境後などに加え、氷河あり、雄大な自然や珍しい動物など、今までのクルーズとは全く違った観光地でした。

ケチカン港では小型飛行機で寄港地観光

しかも、これらの秘境めぐりは、クル ーズ母船(ホーランドアメリカやプリンセスクルーズ) と小型クルーズ客船、小型飛行機やヘリコプターなど を組み合わせた新しい形の旅行形態であることを発見したのです。

アラスカクルーズの定番「ホワイトパス&ユーコーン鉄道」

しかもこのようなインフラを、ホーランド・アメリカとプリンセスの子会社であるプリンセス・ツアーが独占しているビジネスモデルに驚いたのです。

小型飛行機やヘリコプターは、冬には全てカリブ海に操縦士ごと移動し、カリブ海クルーズに転用されていました。しかもこれらを利用する料金体系のシンプルさに関心しました。

黒塗りの「アムステルダム」号

アムステルダム号の定員は1,200 人。そのうち約900人がアメリカ人。他はカナダとオーストラリア等、英語園からの人たちで埋まってました。本船は、船体が黒塗りで、郵船の貨物船の色に近かったのです。

アラスカクルーズらしくシーフード料理が充実。

オランダの落ち着きを持たせた作りになっており、 従業員は、オランダ人の幹部船員のもとで,旧オランダの植民地、インドネシア人が働いていたのです。船上には、持ち場持ち場で多国籍船員のグループで採用していると言っていた。特に、インドネシア人は、オランダ人の仕事の遣り方に精通していると。

フィリピン人従業員と比較して、一般的に、イスラム教の影響下にあるので、 酒類にも厳しく、品行方正な従業員が多いのです。フィリピン人のようなアメリカ人船客に対する積極さは無いかもしれないといったコメントもありました。今まで、本場アメリカのクルーズを知らない私にとっては、「クルーズ客船とは何か」を考える際に、 この機会は、 強烈な印象を受ける機会になったのです。その後、ホーランド・アメリカも、プリンセス・クルーズも、カーニバル・クルーズの傘下に入りことになったのです。

現在ではラグジュアリーマーケットを対象としたアラスカクルーズも数多く就航していますので、充実したラインアップでお楽しみ頂けます。

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