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アメリカクルーズ事情


(1)定期型客船から周遊型客船への変貌

今から30年以上前に、日本が『クルーズ元年』と謳っていた時期がありました。まだまだ一般庶民にはクルーズなんて高嶺の花と言われていた頃ですこれは日本に限ったことではなく、アメリカでも同様の話です。今やクルーズのメッカであるアメリカの約30年前から現代に置いてのクルーズマーケティングをお伝えしたいと思います。

当時は「クルーズ」は主に2つの周遊型旅行に集約されていました。一つ目は、カリブ海などの 「太陽」「海」などを宣伝文句にしていたカリブ海やメキシカンリビエラなど地域特化型。

二つ目は、富裕層をターゲット にして、ヨーロッパやアジアの寄港地への訪問などを織り込んだ世界周遊型にと分けられていました。アメリカの著名な海事歴史家のビル・ミラー氏によると1858 年、イギリス船、セイロン号(2000 トン)が最初の「クルーズ客船」であると言われていました。

オーシャンライナーと呼ばれる当時の定期航路の客船はエアコンの効いた部屋も無いイギリスとエジプト間を往復していた。船客の少ないシーズンに冒険心の旺盛な客層を誘致して、地中海諸島をクルージングしたとのこと。その頃、欧米においては2点間を結ぶ定期船いわゆるオーシャンライナーが主流。ビクトリア時代のイギリスでは、主な観光地を巡る客船もありました。

ドイツの詩人ゲーテの「イタリア紀行」の影響や 1890 年代の「休養と気晴らしの航海」(Voyage of Rest and Recreation)によると、イギリス・ドイツ・オランダ・フランスなどから、 太陽と青い空、そして広い海を求め、地中海や南アメリカなどへの従来の移動を目的とした2点間の定期 航路とは異なった、より観光に重視した船旅も活発になってきたのです。

しかし、まだごく僅かの客船に限られていたのです。

これらの客船は、現在の海域中心とした周遊型クルーズのサービスをしていたので、発想としては、現代のクルーズに近いものがあったのです。

しかもその主なマーケットはイギリス人など、ヨーロッパの富裕層旅行者。即ちバカンスを満喫できるようなライフスタイルを有している人たちを対象としたものでした。

20 世紀を跨ぎ、飛行船や小型機航空機による航空事業の急激な発展し、これらの輸送手段を通して、新しい形の「民族移動」が始まったのです。その結果、第一次世界大戦を挟んで、海運や海軍を中心とした海の戦略的な活動が注目を浴びていました。大西洋を挟む欧米間でも、物流のみならず、人の流れも大きく変容しつつあった。

しかし、当初は、船といえば、一定の定期航路における輸送を目的とした貨物船に一部の客室を 併設した客船、所謂、貨客船が一般的てだったのです。
特にヨーロッパと北米の間に横たわる大西洋では、 ヨーロッパと北米を結ぶ定期航路が、或る程度定着していた。第一次世界大戦の 頃には、ヨーロッパの列強で、国域をかける純客船型新造船競争が勃発し、ヨーロッパ諸国は、ヨ ーロッパと北米間の回航スピードを競う「ブルーリボン競争」などで覇権を賭けた競争を繰り広げていたのです。

これらの多くの貨客船や定期客船の主要目的は、富裕層船客の輸送や、アイルランドやイタリアなどの移民や迫害を受けていたユダヤ系の人たちの、アメリカへの送り込みでした。

1997 年 12 月 19 日に公開されたジェームス・キャメロンの映画「タイタニック(46000 トン、長さ 270 メートル)」に見られる船上でに出来事の多くは、当時の定期客船として典型的な出来事でした。

上層階の船室に生活する少数の優雅な欧米の富裕層や ユダヤ系の資本家など、上級階級の顧客とともに、下流階には上流階の船客と交流を妨げられたイタリア人やアイルランド人、第一次世界大戦の後、ロシアなどの国を追われたユダヤ人など主としてアメリカに “移民を目的とした船客”が乗船していた。

アイルランド人、第一次世界大戦の後、ロシアなどの国を追われたユダヤ人など主としてアメリカに “移民を目的とした船客”が乗船していた。彼らの多くは、片道切符でエリス島に降り立ち、ヨ ーロッパで広がっていたトラコーマなどの疫病検査を受けた。一定期間拘束されても、何とか新天地アメリカの地で成功を夢見た人たちであったのです。 

アメリカの最大の財閥、JPモルガンは、傘下の「ホワイト・スター」社に、従来の輸送目的のス ピードを競う客船から、より「居住性」や船上での豊富な食事などにより、気を配った船「オリンピア」や「タイタニック」(1912 年)を、イギリスのハーランド・ウオルフ造船所で建造したのです。 

これらの2船は、従来の概念を打ち破る大きさと、移動の“快適さ”を第一に考えていた点では、 従来のスピードを競う定期客船とは、一線を画し、「船による旅」に新しい時代を開く ことになったのです。

この客船航路の中には、貨物も積める「貨客線」と言われるものもあったが、航空機の発達していない当時としては “南米などへの移民者の唯一の移動手段でもあった。このようなサービス は、点と点を結ぶ定期貨客船を基本としていたのです。

(2)カリブ海クルーズと新しい客層「スノーバード」の誕生

カリブ海地域は、戦前の暇と金のあるヨーロッパ(宗主国)に富裕層の長期滞在型の旅行目的地でした。一方、フロリダの沖90キロにあるキューバは、1920年代の禁酒法の時代にアメリカ人の富裕層として受け入れていたのです。

その頃の宣伝文句は「マイアミの隣の島、キューバは、太陽が燦々と輝き青い海がどこまでも続き、スペイン文化が残っている。ラム酒を含めて酒 に不自由はない」という者で、この頃から、キューバ政府とマフィアとの接点が構築され、その後 のカジノ事業へと発展することになる。

カストロ政権誕生(1959 年)後には、アメリカとの国交断絶となり、多くのクルーズ客船会社は、 豊かなアメリカ国内のサプライソース(送客側)としての旅行マーケットの応えるために、キュー バを迂回しながら、アメリカの基点港と観光地(ディスティネーション)としての「カリブ海」と いう「ゾーン(海域)」との結合させるビジネスモデルを構築。

目玉であった「キューバ」 には寄港できないにも関わらずスペインの支配以来、「アンチレス(諸島)の真珠」と呼ばれ、ユカタン半島の先端部に島のように点在するキューバやプエルトリコ・ジャマイカなどの島々 は、アメリカ人や西欧の人たちにも知られた島でした。

しかし、第二次世界大戦のあと、航空機の急激な発展と、それに伴うパン・アメリカン航空などによる国際航空網の拡大により、欧米間の定期航路を初め国際側の人的輸送は、航空機に取って代しかし、第二次世界大戦のあと、航空機の急激な発展と、それに伴うパン・アメリカン航空などによる国際航空網の拡大により、欧米間の定期航路を初め国際側の人的輸送は、航空機に取って代わることとなったのです。


その結果、欧米の避寒地指向型の休暇スタイルが「太陽と海を追う」リゾート 滞在型休暇へと変容し、特に冬の厳しいシカゴを中心とした中西部の旅行者は、スノーバード(季節移動者)として、極寒の冬の時期を、この海洋滞在型リゾートとしてクルーズ旅行を求め 「南の渡り鳥」として旅行の大きな波を形成していたのです。

彼らの多くは、親の代に、ポーランドやドイツなど北部ヨーロッパから新しい世界をアメリカに求めたのです。迫害をされていたソ連のユダヤ人として移民してきた人たちもいた。その後、アメリカの産業構造の変化とともに東海岸などの海岸地域から内陸に向かって、民族の大移動が発生し、中西 部に移住した人たちでした。

彼らの第2 世代は、このアメリカ中西部で生まれ海を知らないアメリカ生まれのヨーロッパ人が多かったのです。

これらの移民世代の多くは、カリブ海や中南米はカトリックの影響を受け、スペイン系文化を引き継いだ地域であり、その異国性に憧れを持っていたのです。

戦後の経済的隆盛に支えられアメリカにおけるレジャーや長期休暇に対する考え方も大 きく変わっていた。ビーチ指向の憧れやテレビや映画で啓蒙された当時のハバナやラスベガス的なエンターテイメントの影響もあり、これらを内含したテーマ都市型滞在型リゾート型の旅行へと、大きく変わって行くことになるのです。

そしてカリブ海クルーズの発展は、戦後のレジャー産業の発展を予見させるものであったのです。

「スノーバード」にとっては国交を断絶したキューバ以外にカリブ海諸国・島々間の移動は、 極めて不便であった。

アメリカの「裏庭」と言われるカリブ海諸国は、植民地時代から欧州諸国の 複雑な利権争いの結果で成り立っている島国の集団であり、それゆえに観光地としては、それぞれ 極めて特徴的で、個性的な文化・生活環境が存在していたが、そのインフラやロジスティックはキ ューバなどで、観光地としての快楽を経験したアメリカのスノーバードたちやアメリカ人旅行者を受け入れるには、あまりにもインフラが貧弱だったのです。

アメリカ人旅行者の空路による島々間移動の不便に加え て、各島々には、宿泊施設も含め、十分なインフラがなく、彼ら、スノー・バードにとっては最も 不便な観光地で、娯楽性や滞在の利便性においても、魅力が乏しかったのです。
セント・トーマスなどのアメリカ領バージン諸島にも、新しい旅行先を求めたが、以前のキューバのような多彩で快適な滞在環境ではなかったのです。新婚旅行の対象とするにはよかったが、そこで、 長期滞在して快適な滞在を楽しむにはまだ魅力が薄かったのです。 

のちにクルーズ会社は、多島のカリブ海に目を向けるようになるのです。第二次世界大戦後、ポンドなどの英国の通貨不安により、イギリス経済に多くを依存していたヨーロッパ系客船およびフェリー会社が、イギリスマーケットを捨てて、新しい船客マーケットとしてのアメリカの巨大消費マーケットに目をつけたことから始まったと言えるのです。

即ち、アメリカにおけるクルーズ産業の聡明期は、ヨーロッパの船客による、アメリカの裏庭カリブ海という新しい観光地へかじを切ったことから始まった。

(3)カーニバル・クルーズ...南の島々への旅と船上の「娯楽」&「快適さ」を売る


アメリカ基点のクルーズ客船会社は、従来の欧州的在来船によるクルーズから、アメリカ人客仕 様に変え、娯楽的要素も加味した滞在型の船旅として、より「休養と気晴らし」色を濃くした新しい趣向やプログラムを満載した船型の模索やサービスを展開し始めた(1960 年〜1970 年代には、 大西洋航路を運航していた船会社の多く船舶は、係船やスクラップとなった)現在のノルウェイジ ャン・クルーズ ・ライン社(1966 年、NCL)なども、この頃に起源を発する。

もちろん、彼等の船客の多くは、アメリカ人の船客を狙っていたのである。

そこでキューバ革命後、アメリカ人のカリブ海崇拝に目をつけたのが、カーニバル・ クルーズ社の創業者、ユダヤ系アメリカ人である「テッド・アリソン」だったのです。

キューバと至近 にあるマイアミという地勢的な土地勘が、彼を、カリブ海クルーズに目を向けさせたに違いない。当時のカリブ海の有力クルーズ会社、ノルウェイジャン・カリビアン・クルーズ社(現在のノルウェージャン・クルーズライン社)も、1966 年に、NCL のサンワード号を、マイアミ を起点とした英国領バハマクルーズから、カリブ海クルーズを重心を移していた。

アリソンは、 この NCL 社の代理店経営者であったが、1972 年に定期客船「マルデグラ」を買取、ハバナやラスベガス的な内装とエンターテインメントを組み合わせたクルーズ客船に改装し、今のノスタルジックな世界のキューバにあったエンターテイメント的色彩の強い特徴も組み込み、 新しいクルーズ客船サービスのビジネスモデルを構築に成功。新しいコンセプトのクルーズ客船に変え、カリブ海での周遊クルーズを始めたのである。カーニバル・クルーズ社の旗揚げである。

このように、カリブ海クルーズの成長の裏には、キューバ革命による恩恵や影響があることを否定できない。クルーズ客船は、ハバナにあった逗留型の施設やエンターテイメントを、船上に移すだけで事足りたのです。

カーニバル・クルーズ社は、アメリカの旅行者の嗜好の変化に目をつけ、 改造クルーズ客船を投入、カジノができるクルーズ客船として運航開始。

少なくとも、船上での宿泊施設、食事などはアメリカ基準で、クルーズ船客にとっては快適な生活環境を演出していた。 アメリカの生活をそのまま持ち込みながら、周遊する仕掛けを考えたのです。

しかも、料金設定を他のアメリカ本土のリゾート・ホテルなどの宿泊料金より安くし、娯楽は、ラスベガス的に選択肢に豊富 にした。船籍を便宜置籍船)にすることで、外国人船員を大いに登用して、サービスに、より目をくばり、クルーズ客船の売り上げで勝負するカリブ海型クルーズの 原型を編み出した。クルーズ料金が比較的安いという所に、ラスベガスの誘客システムに似たコンセプトを見ることができるです。 

ナイトクラブ型エンターテインメントとカジノ・ホテルを中心としたキューバブームを操っていたのは、ユダヤ系のマイヤー・ランスキーでした。彼は観光顧問としてキューバの観光利権支配を独占していたと言われていました。北マイアミから、南に位置するキューバの将来に夢を馳せて、この国をカリブ海のモンテカルロにすることを考えていたのです。

クルーズ各社はマイヤー・ランスキーの影響を受け、安全性をPRし、明朗会計なシステムを導入することによってこの事業を展開していったのです。

ジャマイカ沖のカリブ海クルージング

カリブ海クルーズの特長

当時のアメリカの旅行会社はカリブ海型クルーズの特長を下記のように宣伝していたのです。

太陽と青い海、そして白い砂に溢れた遠浅の海岸線と多様な多彩な文化を背景とした寄港地。当時の他のレジャーや滞在型の旅行と比較し、「オール・インクルーシブ型料金」であり、旅行に要する総経費との兼ね合いで、料金的にも格安感があり、支払いがシンプルなのです。

カリブ海諸港の訪問地へ。船で行く以上、アメリカの日常生活の延長であり、安全で、違和感のない旅が実現。寄港地はヨーロッパの宗主国の下にある植民地でも、クルーズ客船上はアメリカそのものです。

食事・宿泊体験は、すべてアメリカの日常生活の延長上にあることをアピールし、アメリカのライフスタイルで通せるのが海外旅行のストレスを軽減することに成功したのです。

空路での島から島への東西移動は不可に近く、陸上のインフラ未整備が、未整備の所が多いが、船で巡る以上、ハッスルフリーで、ゆっくりとした環境で、多くの寄港地や国を訪れることが可能となったのです。 その結果、アメリカ人観光客が求めた気候、島々の文化の違いが魅力的で、1週間以内で観光をするクルーズ客の人気を集めだしたのです。

アメリカの販売網ネットワークである旅行会社からも、クルーズ料金の簡略システムと併せ、「No Visa」のカリブ海の観光地としての価値が見直され、評価されだしたのである。また 1980 年代の米ドル安は、主要旅行先である欧州などでの陸上旅行は高くつくとして、カリブ海クルーズを後押ししたのです。

テレビ映画の「ラブ・ボート」効果も大きかったのです。カリブ海クルーズの誘致活動においても、99%を占めるアメリカ人乗船客をいかに満足させて、集客に成功させる目的としてカリブ海の島国諸国が観光連合を発足し、積極的に誘致活動を展開してきたのです。

その後、カリブ海クルーズは順調に成長し、1978 年から 1985 年のクルーズ産業の成長率は。103%を達成。各クルーズ会社も、船体の代替期に入っていたのでした。1986年の統計を元にすると、新造船建造予定は、1990 年までの5年間で年率10%増の勢いとなると予想もあったったのです。

アメリカのカーニバル・クルーズ社は、改造船などを中心に、客層の急増に対応してきたが、老朽化した客船戦隊の抜本的な見直し、新しい時代のクルーズ客船需要に合わせた船隊の整備の先取り を目指し、乗客定員2,000人以上の大型新造船の投入を積極的に進めることを発表したのです。 

カーニバル・クルーズ社は1982 年最新造船「トロピカーレ」を投入。1985 年以降、「ホリデイ」「ジ ュピリー」「セレブレーション」など5万トン級の大型船を続々と導入したのです。

この新造船の投入に併せて、契約した女優キャサリン・リー・ギフォードを前面に出し、テレビなどを通してマーケット認知策を高める営業を展開したのです。このような、カーニバル・クルーズ社の動きは、ロイヤルカリビアン・クルーズ 社などの他社にも刺激を与え、カリブ海クルーズにおける新造船投入競争と、それに伴い、マーケットの急激な拡大が始まったのです。

旅行スタイルの変容、すなわち、 滞在型旅行の基本は、ラスベガスのみならず、フロリダのディズニー・ワールドを開発したオーランドの例に見られるように、テーマパーク化し、エンターテイメントと滞在型ホテル産業の合体でした。

この変化を、クルーズ客船も、この「テーマパーク」のコンセプトとして積極的に取り入 れ、船上プロダクトの多彩で充実した知恵を絞り、これらのニーズを満たすためには客船の大型化を促進させ、スケール・メリットの追求が始まるのです。

1980 年代後半は、カリブ海型クルーズ会社は、クルーズ船客のニーズの面からも採算性の面からも、 スケール・メリットを追求し、クルーズ会社同士の吸収合併や競争の時代に入ろうとしていた。 またカリブ海におけるクルーズ客船事業は港と港を結ぶ線から、海域を対象とするレジャー産業へと展開するのです。

 カリブ海の周遊クルーズは、値段も、カリブ海諸島の陸上に展開し散財するアメリカ人客を対象とした滞在型ホテルなどと競合を常に念頭に入れ、これらホテルとの競争を勝ち取るためには、コスト競争が重要なのです。

カーニバル・クルーズやロイヤルカリビアン・クルーズなどで運航コストを下げる目的として大型船化の道をたどることになるのです。このマーケットでコスト競争を究めて行くと最終的には大型船が必須になるのです。

カリブ海クルーズではアメリカ人旅行者のNo Visa(パスポート携帯不要)で支えられていたのです。アメリカ政府は、アメリカ隣接国であるカナダやメキシコ、それにカリブ海諸国パナマなどには、パスポート不携帯でも、運転免許証や誕生証明書があれば、これらの地域を自由に旅行が可能でした。

カナダ人、メキシコ人・バミューダー人の米国入国に際しても、同様の方法が認められていたのです。

しかし 2001 年の9・11事件以来、入国などを厳しくチェックする方向になり、結局ブッ シュ政権は、2007 年1月より原則パスポートの携帯を義務付けたのです。

キュナードライン「クイーン・ヴィクトリア」号

世界周遊型クルーズの出現

客層を絞り込んで、世界を巡る回遊型クルーズ客船も定着し始めました。この背景には、戦後の 強いドルに支えられていた富裕層など、レジャー旅行人口の急激な増加。1950 年代に急増したヨー ロッパなどのご当地ハリウッド映画やテレビ、クレジット・カードの浸透、コンピューター予約などの合理化システムなど多くの要因をあげることも出来るが、中でも非常に大きな影響を与えた出来事は、カーター・レーガン時代からの航空業界の規制緩和政策だったのです。

この規制緩和は、 ジャンボ機導入に見られるように機材の大型化と料金の低価格化が実現し、クルーズと航空料金のパ ッケージ化を図り、アメリカ本土を遥か離れた外国で漫遊するクルーズ客船への船客の送迎など従来にも増して簡単になったのです。

乗船地まで飛んで行って現地で船旅を楽しみ、その後また航空機で戻るパターンが定着する兆しが見えて来た。フライ&クルーズコンセプトの誕生は、航空料金も多様化し米国の旅行者を世界の各地に送り込むことがそれほど難しく高いものではなくなって来たのです。

アメリカ資本においても、これらの旧来の定期船を利用し「休養と気晴らし」の休暇を目的とした顧客を、主たる対象としてサービスをする初期のクルーズ客船が出現したのです。

アメリカ の西海岸では 1965 年、シアトルの起業家、スタンレイ・マクドナルドがカナディアン・パシフィッ ク社の当時のバンクーバーとアラスカ間に就航していた「プリンセス・パトリア」を就航し、季節 に合わせてカリフォルニアとメキシコ西海岸にも配船。これが、最初のプリンセス・クルーズ 社の元祖になるのです。

バイキング・クルーズ社所有の「バイキング・オリオン」

ノルウェー系クルーズ会社の展開

1970 年、ノルウェー系の3社の船主資本で、ロイヤル・バイキング・ライン社は、カーニバル・ クルーズ 社とは全く異なったビジネスモデルを模索していたのです。

アメリカのマーケットの富裕層をターゲットに、従来のカリブ海クルーズとは異なったラグジュアリー・サービスを提供すべく「バイキング・スタ ー」「バイキング・スカイ」「バイキング・シー」の三隻のラグジュアリー船を投入。同社は、ラグジュアリー・マーケットに焦点を当て、カリブ海クルーズ会社との差別化を図り、就航の地域を全世界に求めて世界周遊型のクルーズを始めたのです。

世界各地を周遊し、多彩な港に寄港するが、旅行の期間を10日から14日間に区切り、その寄港地までは、空論を利用しクルーズ 船客を送迎するといったフライ&クルーズ旅行の導入でした。

ロイヤル・バイキング・ライン社は、世界の新しい観光地を求めるとともに、船上でのサービスを強化して差別化を図ったのです。

世界を周遊するクルーズ会社の 中には、線世代の客船を建造する動きも出て、客船運行会社間の経営の差別化が始まった。航空会社との提携により、世界周遊の途中でも乗船可能な区間クルーズも多彩になって来た。

このラグジュアリー・マーケットでは、典型的な2点間を結ぶ客船定期船を運航していたイギリ ス系のキュナード社が「クイーン・エリザベス2世号」など従来型の定期客船で、大西洋横断サー ビスを行なっていたのです。

彼らは、生き残りをかけて、1973 年復路の航空会社 BOAC との提携などに より、航空料金と客船サービスを一体化したが長続きしなかったのです。

その後、1983 年には「クイーン・エリザベス2世号」を所有するキュナード社は、ノルウェイジ ャン・アメリカ・ライン社の「ビスタ・フィヨルド」「サガ・フィヨルド」を買収。ロイヤル・バ イキング・ライン社の後を追いカーニバル・クルーズ社など、カリブ海指向型とは異なった特定の地域に特化することを避け、季節に合わせて、ヨーロッパなどを中心とした世界周遊型ラグジュアリーマーケットを狙ったクルーズ客船を展開することになった。

ラグジュアリー・クルーズ客船の世界は点と点を結ぶ定期ライナー型運航から、世界を舞台により広い海域で、季節性の高い周遊旅行を織り込んだレジャー型クルーズ客船の時代へと移行することとなるのです。

彼らの成功の重要な柱として、クルーズの主力マーケットであるアメリカで商売をするが、そのサービスを提供する会社は、アメリカ以外の国に置くことでした。これにより、サービス業本来のより競争力の効果が期待される運航の基本を自由で迅速な体制として構築することでした。 

クルーズ事業とは個性と多彩性が大きく影響される事業ゆえ、経営陣や集客などの営業、運航部門、船上でのホテル経営部門、各種購買部門、寄港地観光などにおいて、世界で最も優秀と言われる人材を集めて雇用することが重要なのです。

このような客船業界の変貌は、1970年代から始まり、1980年代に入ると、レジャー旅行の人口の急激な増加に伴い、航空産業の規制緩和の動きを睨みながら、料金のパッケージ化、クルーズ客船運行会社間の対象客層に合わせた船上サービスの差別化や就航地域の多様化、旅行期間のセグメント化、ライフスタイルを元に顧客に合わせた、新しいコンセプトに基づく新造船の導入の動きが出てきたのです。

従来の老朽船や貨客船などでは提供できない時代に突入し、レジャーに特化したマーケットや客層や、新しいニーズが新しい長期滞在型の旅行の目的を満たしてくれるクルーズ客船をマーケットは求めていたのです。

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