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『まだ手探りのなかにある断章たち①』断章1、2

 さて、手探りをしたいと思います。ここでは、おれのなかにある生煮えの断章たちをなるべく無作為に連ねていこうと思います。一応この記事を①としたので、②、③と続いていくはずです。ただ、その前にとても長い前置きがあります。できれば上から読んで前置きに付き合って欲しいです。ですが、断章だけを読んでもらっても構いませんし、断章をさっと読んでからまた上に戻って来て頂けたら嬉しいなと思ったり。目次を一応置いときます。


 A.断章として着想を整理する。

 おれの中には、書きたいことがいっぱいあって、でもそれがまだ着想の段階で止まっているものが10000個以上はあります。一日に100個くらい着想をメモしているので、それがだんだん洒落にならないくらいのウェイトを持ってきて、押しつぶされそうになってます。楽になりたいなと常に思ってます。これまで、おれは意味を持った文章を書くといえば小説くらいでした。物語。noteを始めたのも数週間前(24/05/26)でごく最近(今日は24/06/17)だし、こうやって、記事というパッケージで自分の考えを披露することはやってきませんでした。そもそもそれが楽しそうに思えなかった。どうせ誰にも読んでもらえないだろうと思ってましたし。
 
 まあ、今も誰に読まれてるのかどうかもよくわからないわけですが、ほそぼそとやっていくのも悪くないなとも思えてきました。まあ始めたばかりですし。もっとはやくやっとけばよかったなと思います。いや、そんなことはないな。あらゆるものごと、行動にはタイミングというものがあって、それはいつやってくるかわからないんだって思います。もっとはやくやってたとしても、おれは秒でやめてたでしょうね。善は急げだとか、思ったが吉日だとかって言いますけど、急いだところでなんだって話だし、思っただけで習慣にならなかったら行動は意味を失います。立ち往生してるように感じる時間が、のちに重要な意味を持ったりするのは、誰しも体感することだと思います。現代脳科学では人間の自由意志というものを否定する研究者がマジョリティだし、おれはそれでいいんだと思います。何かいつの間にかやってる。それが人が生きる上での尊い偶然を生んでるのだし、偶然がたくさんの出会いを生む。脳はきまぐれだということを受け入れる方が、現実主義的で何よりも気楽です。

 話を戻します。まとまった文章といえば、おれは小説ばかり書いてきたんですが、これはかなりキツい作業。小説は、着想を次々と圧力鍋に入れて、もう破裂しそうってくらいになるまでぐーっと煮詰めていく必要がある。だから、安易にアウトプットできません。他人が料理に介入してくると、高めていた圧力がしゅーっと抜けていく。かといって、圧力をうまく調整しないと鍋がぱこーんと壊れたり、素材がぐちゃぐちゃになったりして、それ以上料理を進めることができなくなります。まあこんなこと続けてるととにかく疲れるわけですね。で、だんだん不自由になってくる。ヤバい。自由な表現を求めて始めた小説執筆が、自分に枷をはめていた。苦しいー。で、気が付いたらnoteを書いてました。

 最初は洋楽歌詞の翻訳記事だったんですけれど。それもまあ、曲を聴いてたら、急に謎の使命感に駆られてそれを翻訳したくなって、とある方の翻訳記事のフォーマットを丸パクリして投稿しました。パクらせていただいた方には、失礼ながら事後承諾という形で、フォーマットの使用を許していただきました。で、それが面白かった。あれ、記事っていう形式なら自由に書ける、って思ったんです。何も、表現は着想から始めなくてもいいんだって気づいた。何か着想があって、それを膨らませていってはじめて表現として結実するんだという考えはかなりナイーブなものなのだと気づいた。意外なものが表現の端緒となっていることに気づきました。おれが今noteでしているのは単なる「整理の作業」なんだって。自分の好きな曲の意味を翻訳して整理する。とある作品の特徴を整理する。今のところしてるのはこのよう作業だけです。

 で、これの何が自由だったかというと、整理の最中に、何かにかこつけて横道にそれることができること。最初は整理としてはじめていたものが、あっちこっち行ったり来たりする。思えば、おれの記事はぜんぶそうだなって。急に昔話が始まったり、謎知識を披露したり、社会問題に触れたり、挙句の果てには説教をし始めたりする。で、そうやってあっちこっち行ったり来たりしている間に、その周辺領域にあるおれの着想が回収されて、それもまた整理されていくんだって気づきました。その横道もまたいつの間にか整理のためにあった。着想の傍にあるものが整理されたおかげで、今まで無秩序で持て余していた着想の輪郭がわかるようになった。で、それを外に降ろすことができるようになった。どのみち、この整理の作業は、今のおれに一番必要なことだった。だから、このような形で記事を書くことになったんだと思います。

 てなわけで、まとめると、今おれがしなきゃいけないのは整理の作業だと気づいた。だから、自分の中にある着想を『まだ手探りのなかにある断章』として整理していくことにしたんです。で、手探りの中の断章ってなんぞやって話に移ります。あーほら、おれの悪癖が出てきました。次は、何故か絵画の話から始めますよ。


 B.おれの好きなパウル・クレーはとにかくたくさんの天使を描いてます。

パウル・クレー『天使、まだ手探りしている』(1939)

 これは『天使、まだ手探りしている』。この天使はどこで何を手探りしているのか。なんでまだ手探りしているのか。その手探りは終わるのか。クレーの絵画は誰がどのような解釈を言っても正しいのだとおれは思います。クレーの天使はどんな解釈でも受け止めてくれる。だからすごい。
 
 クレーの天使は、やはり天使だから、人間のために何かをしてくれています。この手探りしている天使だと、人間のために、人間の代わりに手探りしてくれている。そう考えると、自分の中にこの天使がいるように感じられます。自分の中で、自分の知らない手探りが常に行われている。手探りはしてもしても終わらない。だから、「まだ」手探りをしている。この天使はいろんなところに手を伸ばしています。手をぐーっと伸ばして手探りしている。でも顔には必死さはみじんも出ていません。天使は、「あんたちゃんと考えてんの?」ってときに言いたくなるほど、ひょうひょうとしています。天使は悲観も楽観もしません。だから、黒い奔流の中で、ただただ手探り「だけ」をしている。まだ手探りしている。「いつまでやってんの?」ってきいても、何も答えません。「もうやめたら?」って言っても、顔色一つ変えず手探りを続けるだけ。
 
 この天使が手探りをやめたら何が起こるでしょう。天使は何かを見つけてくれるわけじゃない。でも、ただ手探りをしてくれている。天使はとにかく大きく手探りをしている。おれの思いとは関係なく、いつまでもやってる。しばらく目を離すときがあっても、帰ってきて見たらまだやってる。何でもかんでも手探りしてる。手探りしなくていいんじゃないかってものも手探りしてる。なんか、同居人がいつまでも探し物してたら呆れますよね。用事で外出て、四時間くらいして帰ってきたらまだ探し物してる。どうしようもねえなこいつってなる。「お前の探してるものってほんとにあんの?」。で、本人が、「いや、うーん。わからん」。とかって言い始めたら、やがて探しものは終わります。しかし、天使はやめない。天使はそれがあることを知っています。
 
 その先に何かがあると「知っている」から、手探りしているんです。だから、「まだ」手探りしている。その先に、何かあるということが「すでにわかっている」から、いつまでも手探りできるんです。もっというと、ほんとうは何もなかったとしても、「何かがある」という絶対的な確信さえあれば、手探りは続く。まじでほんとうに何もなくて、手探りは無限に続くかもしれない。通り過ぎる人には「まだやってんの?」って嘲笑されるかもしれない。それでも手探りを続けられるのが、天使の強さというか、鈍感さなのです。

 だからおれも、天使と一緒に、何かを確信して手探りをしなきゃならないな、と。「お前まだそんなことやってんの?」。そう言われてもやめない。その先に何かを確信しているから、おれは天使とともに手探りを続ける。やがてその確信が弱くなると、これ以上手探りすることが怖くなります。天使のように、暗闇の中にぐーっと手を突っ込むことが怖くなってしまいます。だから、どんなに世界が変わっていっても、「まだ」手探りを続けなくちゃならない。「まだ」手探りしている人間は嘲笑されますが、それでも確信を持って手探りを続けなくちゃならない。黒い着想の奔流の中で立ち止まって手探りを続ける。確信を持って、いつまでも手探りを続ける。クレーのこの『天使、まだ手探りしている』は、おれにそう教えてくれました。

 だからおれは、天使が手探りを続けられるために、天使のそばを整理していきます。天使が手探りしやすいように、天使がよけたものを整理していきます。その先にある確信のもとへ進むためです。前述したとおり、おれは自分の着想に縛られて、そこからしか前に進めないものだと思っていた。着想がすべての出発点だと思っていた。けど違いました。着想は通過点です。おれはその無数にある通過点を分け入って進む必要がある。着想の暗闇を歩くのにまず必要なのは、確信。そして、確信を強く持って手探りを続けること。少なくともおれは、天使の確信を信じる必要があった。手近な着想に飛びつかず、それを整理しながら、その向こう側を目指す。そのような辛抱強さが必要なのだと思います。ただ、天使はまた引き返してきて、おれが整理したものを再び手探りし始めるかもしれない。そしたら、また整理するだけです。だからこそ、これからおれの書いていく断章たちは、「まだ手探りの中にある」のです。


 C.Xとnote、どっちに書く?

 いや、ま、noteに書くのは決まってるんですけどもね。ていうかもう書いちゃってるんですけど。けどまあ、ちょっと話したいことがあるので付き合ってください。表現は、それをする上で気をつけなくちゃならないことがあります。何かを表現するときには、その出力先のメディア特性をよく知っておく必要があるということ。

 思考は出力先のメディアに制限されます。これが曲者で、気をつけなきゃいけない。例えば、Xにまとまったものを書こうとする。すると、140文字になんとか考えてるものを収めようとするように頭が勝手に働いて、X用の言説が生まれる。でもXなんてもともとは、まとまったものを書くメディアではなかったんですよ。
 
 日本でXの前身であるTwitterが特異な普及の仕方をしたのは、スマホの普及と東日本大震災の発生が重なったからです。当初はPC利用者中心で、みながTweetをしていたTwitterですが、震災直後から有効活用されはじめた。もっというと、みんながポストをし始めたんです。Tweetしてる場合じゃなくなった。そんなことしてると不謹慎ですからね。大地震と大津波と原発事故、とてつもない大事件が一気に起きて、日本中はとにかく大パニックに陥った。テレビだけでは、あまりにも拡散しすぎた情報を整理して視聴者に伝えることが間に合わなかった。あまつさえ新聞は朝刊までのタイムラグがありますから、とにかく情報に飢えていた読者を満足させることはできませんでした。固定電話と携帯電話の回線はストップ。そこで、Twitterでの当事者たちの情報発信が、一次情報として大きな役割を果たしました。今は聞かなくなりましたが、言論人という存在も各人のベストを尽くそうとした結果、SNSを最大限に利用しようということになった。テレビはTwitterの後追いをするようになりました。Twitterは有意義な情報収集メディアとなった。
 
 ただ、これは日本だけの特殊状況ではなく、海外で大きな前例があります。んー、前例というか、東日本大震災と並行して、ずっと遠くで起きていたと言った方が正しいですかね。それがあったから、言論人はTwitterでの活動を先導することができた。2010年から大規模化した『アラブの春』という一連の独裁体制打倒の革命運動。これはアラブ世界という広いフィールドで拡大していった巨大な運動です。約40年間の超長期独裁政権を主導していたカダフィ大佐って覚えてませんか? 彼もこの一連の運動の中で打倒され死にました。独裁体制からの開放を叫ぶ市民たちの抗議デモを、これまた市民たちが携帯電話やビデオカメラで撮影。抗議行動を呼びかけるためにFacebookTwitterYouTubeなどのSNSで動画や画像を投稿し、それが拡散されて運動を動員しました。ちょうどTwitterのRT(リツイート)機能もこの頃実装されている。拡散が本格化。「#」←これ。ハッシュタグ。これも大いに活用され、のち、ハッシュタグ・アクティヴィズムと呼ばれ多くの社会運動で大きな影響力を持つようになります。すべてがSNSのおかげではないけれど、まあ、だから、とにかく有効活用の仕方が発見されたんです。日本の言論人たちもそれに注目し、希望を持っていた。で、東日本大震災が起きて、日本でも多くの市民を巻き込んで、有効活用がなされていったわけです。
 
 それまで日本のTwitter界では、企業や意識高い系やネトウヨといった存在が有効活用の仕方を独占していました。それが大きな社会的意義を持って市民に開かれた。『アラブの春』では、各国で独裁体制が打倒されていったあとは、運動は動員力を失い、力を失っていきます。SNSでの動員も力をもたなくなったから、SNSの政治化は影を潜めます。ただ日本では、大地震と大津波と原発事故で大壊滅を受けた被災地復興問題に、さらに原発問題が乗っかってくる。異常事態がいつまでも続いて、不安からその情報取得に誰しもが貪欲さを強いられました。こうして日本では、Twitterは情報収集のためのインフラメディアとなりました。学者や専門家や政治家が大量に参入してきて、これまた彼らは彼らで(彼らの)有効活用をし始めた。2013年にはネット選挙活動が解禁になって、政治利用が本格化します。インフルエンサーの発信にも倫理観を問われるようになりました。で、極端に政治化した謎のSNSが出来た。Twitterは有効活用をしなきゃいけないメディアになりました。それから、「Tweetをする人」はどんどん減っていきます。今現在、「Tweetしてる人」はほとんどいませんね。
 
 まあ、そういう意味では、「Twitter」はかなり前の段階から既に「X」だったんですよ。

 海の向こうでも似て非なることが起こってて、のちTwitter社は、自身のサービスをSNSではなく、あくまで「社会性を持った情報通信網」だと自称し、ニュースメディアなんだと言い始めますから、それはもとから決定的な事実でした。

 でも、まじでそれは後付けされたなんですよ。Twitterで何かを投稿することを「Tweet」といいます。おれ、さっきからこれをあえて「つぶやき」とは書かずに、あくまで「Tweet」と書いてきました。なぜなら「Tweet」を「つぶやき」と訳すのは語弊があるからです。「Tweet」は「さえずり」です。小鳥の「さえずり」です。だから青い鳥がロゴマークだったんですよ。これ、単なるおれの解釈とかじゃありませんからね。「Tweet」という英単語の意味を調べてみてください。で、「さえずり」に意味はありません。みんなが意味もなくチュンチュン鳴いてる。それがなんだか心地いい。そんな空間としてTwitterは設計されたはずです。これはこれでコミュニケーションの本質をついてると思います。コミュニケーションに意味なんて求める方が間違ってる。意味に囚われると不自由になります。意味を求めすぎると、無意味が怖くなります。自分のやっていることが無意味だとわかると、徒労感に襲われます。だから、そこから抜け出すために、無意味に戯れる空間が必要です。独りで「さえずる」ことはできません。自分以外の誰かが必要になる。たくさんの小鳥が集まって、頭を空っぽにしてみんなで「さえずる」から心地よく聴こえるんです。対して、「つぶやき」は独りで完結します。しかしながら、人はその孤独に耐えかねて、あえて誰かに聴こえるように「つぶやき」ます。周囲をチラチラ見ながら、あえて誰かに聴こえる音量で「つぶやく」。他人の「さえずり」を無視して、自分独りで完結しているはずの「つぶやき」を周囲に認めさせようとするのは、独りよがり以外のなんでもありません。ぶつぶつ独りよがりな「つぶやき」をする人間が集まった奇妙な空間からは、小鳥が逃げていなくなります。結果、青い小鳥たちは姿を消し、独りよがりなXたちが徘徊するようになりました。だからイーロンは日本が好きなんですよ。Twitterが日本でローンチするにあたって「Tweet」を「つぶやき」と訳したのは、日本Twitter社の誰かでしょうが、その誰かは2008年当初において既にXの到来を予言していた素晴らしい慧眼の持ち主でした。
 
 
おれのプラマイ10歳弱くらい(まあ今の20代くらいです)の、これまでTwitterで単にTweetをしてた多くの青少年はインスタに避難しました。おれ周辺の年代では、Twitterは実名で利用していて、リアルの友だち同士のコミュニケーションが基本でした。あくまでリアルのコミュニケーションの延長上に過ぎなかったわけです。それが不可能になった。Twitterが政治の主戦場と化したためです。友だちと戯れているすぐ横で、拡声器を持って選挙演説をし出す人がいる。まじで無理。おれの実名アカでも、相互フォロワー300人中250人くらいは、2017年前後にTwitterを辞めてます。体感ですが、たしかそのくらいだったはず。実名アカは全く更新がストップするか、削除。おれも削除しました。以前から併行していたインスタに完全移行します。でも、面白いことに、最近はみんな匿名アカウント=Xになって出戻りする人が増えています。インスタも疲れますし、芸能人はもはやマーケティングしかしてないからです。いや、あくまでも増えてるってだけです。Xとまったく無関係に生きている友だちの方が圧倒的に多いです。ていうか、みんな結婚したり子どもできたりするとそんな暇ないみたいですね。とにかく、意味に囚われた言説空間に浸っていると、どうしても疲れてしまいます。今の時代を生きるにおいて、「いつの間にか疲れている」なんていう体感はできる限り避けた方がいいと思います。なんか空虚な疲労ってやつ? ほんと嫌ですよね。疲労するときは、充実感や達成感とともに疲労を感じたいものです。

 まあ長々と書いてきましたが、要約すると、Xにはあまり触れたくないので、そこには断章を投稿したくない。以上。
 
 いや、もちろん他にも理由はありますよ。冒頭で書いた、出力メディアが思考を制限するというやつ。で、140文字だかなんだかにまとめるために、頭が勝手にX用の言説をつくろうとする。そもそも、あれはまとまった文章を投稿するメディアじゃないと言いました。あくまで他人と戯れるためのツールとして使った方が有意義です。ポストが流れていく仕様もそのためにある。ツリーをつくるなんてのも駄目ですね。140文字に合わせるためにつくった不自由な言説がいくつ連なっても、それは不自由なままです。なんかX特有の謎フォーマットもあるじゃないですか。そういうのにもひきずられるのも嫌です。なんたらBlueに加入してると長文が投稿できるみたいですが、あれは有名人向けのサービスですよね、完全に。おれがやっても虚しいだけです。そういえば、最近、他人の「いいね欄」も見れなくなりましたよね。そもそも他人のいいね欄なんか見ねえだろとかって思ってたけど、やっぱりあれも有名人向けの改良なんだなと思います。いろんな人にいいね欄見られるって想像したら、たしかに嫌ですね。いいね欄も管理する必要があるというのは、ちょっとコストがかかりすぎる。

 あ、芸能人とかは、自分のプロモーションのためにXを利用してますが、彼ら、政治に触れないようにめっちゃがんばってますよね。なんか、「なごむポスト」を一生懸命投稿してて、いやーすごいなって思います。すぐ後ろで銃弾が飛び交う戦場の中で、無防備に両手を上げて、笑顔を作って、「さえずり」を続けようとしています。めちゃくちゃしたたかですよ。プロってこういうことなんだなって、ほんとうに尊敬します。
 
 さて、再びまとめると、Xに断章を書こうとしても、それは文字制限や言説空間の制御によって歪められてしまう。そして、蓄積せずに、流れていってしまうだけですね。自分の過去ポストなんて見る気になりません。よって、整理にならない。それに、そもそもが歪んだ言説空間だから、他人のポストが目に入ってきてしまうと、雑味が入る。もう嫌味になってしまいましたけど。話したいことはだいたい話しました。以後、こんな話をおれはしたくないので、あえてここでこんな話をしました。あざす。

 その点、noteっておれまだよくわかってないんですけど、ほんとうにいろんな使い方がされていて、お、いいなって思いますね。読者だったときにはわからなったことが、書いてみるとわかりました。人によって使い方が違うし、一人の書き手でも、マガジンごとにまったく違うやり方で記事を書いてる。なるほどすげー、と思って、いろいろ試そうかなーとか思ってるんですけど。おれの場合、基本は思考の整理に使ってこうって方向性が生まれたので、その整理の仕方で差別化を図っていこうと思いまして。こういう記事もまた、そういう試みの一つです。

 ま、気を付けておきたいのは、思考がメディアによってロックされること。だから、おれは、このnoteに投稿するものを、noteだけで完結させることはしないと決めました。notionでメモを統合して下書きを用意するか、物理ノートに手書きしたものをなるべくそのまま移植しようと心がけてます。noteのUIは最後の仕上げのときだけ利用させてもらいます。で、それを受け容れてくれてるんだから、noteはいいなって思います。あ、でも、あの実績解除みたいなやつ。バッジ。アレまじで気分削がれんだけどって思います。そんなもののためにやってないから……。もっと勝手に自由にやらせてくれって思います。今んところ不満があるとしたらバッジ機能だけですね。また嫌味に……。どうしようもねえな。

 ここまで前置き。さて、本編にいきましょう。


【まだ手探りの中にある断章たち】(本編)

  さて、前置きが長くなりましたが、というか長くなりすぎました。まあしかし、繰り返しますが、前に進むには整理が必要なんです。ここまで書いたことは、おれが断章を書くために必要だった整理です。整理をするために整理をしてきました。そして、整理しながら手探りをしていきます。
 
 これからおれが書く断章というのはおれにとってどういうものか。それはクレーの『天使、まだ手探りしている』に教わった、今のおれがすべきことです。確信を持って着想の暗闇に手を伸ばし、手探りを続けていくための整理の作業。一応の整理はしたものの、それはまだ手探りの中にある。そして、手探りの先に確信を掴んだとき、書いてきた断章たちは秩序を持って、大きな意味を持つようになる。

 ……いや、なんか神秘主義者みたいで危ない感じもしてきましたが……。まあ、これが啓蒙というやつで、クレーの作品はおれの蒙を啓いてくれたんです……! おれは哲学者ベンヤミンの批評でパウル・クレーを知りました。彼はパウル・クレーに大きな影響を受けていて、クレーの『新しい天使』という絵画を所蔵していました。その『新しい天使』のことをベンヤミンは『歴史の天使』と呼び、批評文を書いてます。とても素晴らしい文章ですが、まあここでは立ち入りません。気になる方は調べて! で、ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』という著作の中で、近代になると、芸術作品が複製されまくるために、作品からは1回性が失われ、アウラが喪失したんだと言います。しかし、彼は、同時に、その複製された芸術作品が市民の身近なものとなったために、市民は覚醒の機会を多く得られるようになったんだといいます。おれは、画集や絵本でクレーの天使を観ることもありますし、複製技術の局地であるネットでクレーの天使を観ることも多いです。おれはアウラを持った現実の絵画を観たことはありませんが、確かなものをおれは受け取りましたし、今の自分にとって大事な作業について気づきを得ました。おれはカルチュラル・スタディーズの授業で、文化産業批判をするアドルノの方が、ベンヤミンの楽観的な見立てよりも現実を捉えてるのだと教えられました。確かにそうでしょう。しかしながら、現におれは複製芸術に啓蒙されたんです。だから、おれはベンヤミンの思想の可能性を支持します。そして、みなさんにもその可能性を感じてほしいです。
 
 さてさて、またまた横道にそれましたが。パウル・クレーの天使が教えてくれたことを、おれは実践しようというわけです。手探りのために整理して、整理したものを手探りして、とにかくおれは手探りを続けるために、着想の整理という形で断章を書いていこうと思います。

 ま、どんなものか読んでもらったらこんなもんかとわかっていただけるかと思います。まあ今回の記事は、ほとんど前置きと方向づけのためにあるようなものなので、ここでは1と2だけ紹介します。 


 断章1.相対化される苦しみの苦しみ

 たとえ貴族と奴隷にあっても、人それぞれの苦しみは比較できないと考えることはできるか。苦痛を絶対的なものだと考えられるか。
 各脳内神経伝達物質の分泌度合いの演算で苦痛を数値化して、その数値を苦痛の比較材料にできることになったら何が起きるか。これは社会保障の話になる。そうしたら必ず、耐えがたい苦痛を感じているという自覚があるのにもかかわらず、数値が低いために社会保障を受けられない人間が出てくる。医学は常に不完全で改良の余地を残す。すなわち苦痛は数値化できないのに、なぜその相対化は可能なのか。
 それでも「苦痛は相対化できない」と言うことは現代倫理への挑戦と捉えられるのか。それでも「苦痛は比較できない」とは言えないのか。あまつさえ、比較するとさらに苦痛が生まれるのが苦痛だと言えはしないか。
 相対化される苦しみの苦しみの中でもがき苦しむひとを、あなたは知っているか。


 断章2.狂気の異常性と異常の異常性

 「狂っていない人間は狂っている」という言説がある。あるいは「普通の人間は異常」なのだという言説がよく語られるようになった。それらの言説は、生きづらさを抱える人を勇気づけている。だが、それらの言説が示すのは「万人が狂っている」ということでしかない。あるいは「万人が異常」だということだ。つまり、反転解釈すれば、誰も狂ってないし、誰もが普通である。これは欺瞞である。
 治療が必要な人間がいる。彼らは身体の機能に異常をきたしているために治療をしている。エ●●●●●●を飲んで不眠治療をする人間のことを普通と呼ぶことに欺瞞は感じないか。コ●●●●を飲んでドーパミンを調節している人間のことを普通と呼ぶことに欺瞞を感じないか。レ●●●●を飲んでセロトニンを調節している人間を普通と呼ぶことに欺瞞を感じないか。オ●●●●●を飲んで脳内の情報伝達系の混乱を防いでいる人間を普通と呼ぶことに欺瞞を感じないか。ア●●●●●●●を飲んで幻覚と妄想を抑えている人間を普通と呼ぶことに欺瞞を感じないか。それらからレ●●●●を抜いた四種類にラ●●●とラ●●●●●と炭●●●●●とリ●●●●●とロ●●●●とイ●●●●を加えた計十種類の薬を常用することによってかろうじて平衡を保つAという人間を普通と呼ぶがいい。
 医師や製薬会社は異常を規定して利潤を上げてきた。Aはその異常な消費者である。しかしながら、彼ら以外に、Aの苦痛にソリューションを与えてくれる存在はどこにいるのか教えてほしい。Aから月一度の診察と薬を奪えるか。Aを普通と呼ぶがいい。
 「普通」の人をけなすのは傲慢だと気付かないから傲慢なのだ。メンヘラで社会不適合者の方が「正しい在り方」だと言うのは傲慢でしかない。あなたには大切な友だちがいる。あなたにはいろんな友だちがいる。彼ら彼女らの一人、Sという人間はいたって健全に働いているが、懸命に生きているし、ときに耐えがたい苦痛も感じる。Sはある方向では異常なのだろうけれど、そのあり方が間違っているなどとは決して言えない。それを言うことは激しい勘違いに基づいた傲慢である。
 人を勇気づけるときに、その他方をけなすことしかできないのは、あまりにも貧しいやり方である。誰も間違っていないと誰かが言えば、私は誰も正しくはなれないのだと言い添える。誰もが正しいのだと誰かが言えば、誰も間違えられないようにしているのは誰かと私は問いかける。



 とまあ、こんな感じです。一応、自分の中の一つの着想を、おれ以外の人間が読めるギリギリの形くらいには整理して、断章として書き残す。めちゃくちゃ気持ち悪い文章ですが、これでも断章にするにあたって工夫したんです。でもなんかざわざわしてますね。同時にいろんなものが聞こえてきそうな感じ。いいですね。この気持ち悪さで、もとの着想がいかに人様に見せられないものなのかということがわかりますね。で、そのままだとヤバい着想のままじゃないですか。おれはそんなものに縛られてたんです。だから、断章にしてある程度は普遍性を持たせる必要があるな、と思った。結果できた気持ち悪さの残る断章は、まだ手探りの中で蠢いています。ざわざわ。

 今回以降の『まだ手探りのなかにある断章たち』シリーズは、前置きも解説も何も書かずに、断章だけを書いていきたいと思ってます。その方がクールですからね。よろしく。いや、たぶんなんか書いちゃいますね、おれは。はは。
 あ、んー、やっぱ断章の解説をした方が整理になる気がしてきた。俺の断章は詩や文学としてみなさんに解釈を開くよりも、解説して自分で意味を整理してったほうが有意義ですね。あくまで手探りの中にある断章なのだし。

 ではでは。
 読んでくれてありがとう。

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