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作品の前から動けなくなる時

藝大生の頃、折角キャンパス内に無料で入れる美術館があるにも関わらず(といっても別キャンパスだったけれど)、あまり真面目に足を運ばなかったことをとても後悔している。気になる展示があれば行ってみる程度だった。


数え切れる程度しか行かなかった展示の中で、とても今の自分に影響を与えた作品があったことをふと思い出したので、自分のために書き留める。


まず、興福寺仏頭展(https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2013/kouhukuji/kouhukuji_ja.htm)のメイン、興福寺仏頭。

(過去の展示のリンクを今更貼る意味はあるのだろうか……)

奈良の興福寺の通常展示では、確か正面部分しか見られないのだけれど、この展示では360度まじまじと見回すことができて最高だった。

穏やかな表情をした仏の、後頭部の大きな欠損に感銘を受けて、10分くらい仏の周りを歩き回り続けてしまっていたと思う。

誰がどんな想いでこの仏を守ってきて、何の衝撃で傷がついて、どんな人が救われて、どういう景色を見続けてきたのか……どの作品を前にしてもそういうことを考えたりするけれど、欠損や汚れは特に、そういうあれこれに思いを馳せるトリガー。戦国武将の血のついた遺品や、シミのついた書物なども個人的にはかなりグッとくるポイントで、とにかくどこまでも想像しては今ここに在るという事実に涙してしまいそうになる。


そんな私にとってさらに衝撃的だったのが、長浜の仏の展示。(https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2016/nagahama2/nagahama2_ja.htm)

ディティールは覚えていないけれど、確か長浜からかなりの数の仏が藝大美術館にやってきていた。地域にとって大事であろう仏さま達を、ごそっと県外に送りだした長浜の人々の心意気に感動してしまった。

展示の中で、火事の被害を受けないよう田んぼに投げ込まれた木の仏像があったと思う。大変失礼なことを言うけれど、一見するとただの朽ち木で顔もほぼ分からない、どちらかというと怖めの見た目だったと思う。しかしながら、その作品の歴史を想像して楽しみたい私にとってはたまらない。その一見よくわからない怖めな木の前でやっぱり長時間立ち尽くしてしまったことを覚えている。


私は仏像が好きだけれど、それは有名な誰々の作品だとか、一本造だ寄木造だとか、顔がどうとかはあまり重要ではない。その静かに微笑んだり睨んだりしている像がその目で見てきた風景を想像するのが楽しくて眺めているということを自覚したきっかけが上の2作品だった。


あとこれは私の目の乱視が酷いだとか妄想がいきすぎだとかそんなところだと思うけれど、稀に動き出して見える像に出会う時がある。命が吹き込まれているかのように、モーションが見えるというか。

他の人の感覚では、止まっている何かに躍動感っていう言葉を使う時、どのくらい動きを感じるんだろうなと思う。

そして、みんな何を思いながら作品を鑑賞しているのだろう。



最近世界史の勉強を少ししている。

ある程度日本史の勉強をしたことがあったから日本の作品については上記のような楽しみ方を出来ているものの、海外の作品に関しては時代背景への理解がなさすぎて腑に落ちる鑑賞ができていないなと思うので。

例えば西洋絵画を見るとき、綺麗とか好きとかそういう感性的なアプローチも大事だし、加えて美術史や技法が分かっている人はそういう観点から楽しめると思う。私の場合、さらにどういう歴史の中をくぐり抜けてここに在るのかまで思い馳せることが出来たら、絶対にもっと作品を見るのが楽しくなる。人生を豊かにするための勉強は積極的にしていきたい。


(写真は関係ないけど広隆寺。半跏思惟像は永遠の推し。)

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