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手をつなぐ二人の距離は 第6話


「お土産、楽しみにしててね」
 そう那由は明るく笑うが、僕はその笑顔をまともに見ることができない。

 気づけば五月、修学旅行の朝だ。
 新幹線の決められた席に二時間、ホテルの割り当てられた部屋に二晩。決められたとことから動けない不安に加えて、何をしてくるか分からない飯山を初めとするクラスメイト。
 結局、僕は恐怖心を乗り越えられず、主治医の先生に診断書を書いてもらい、修学旅行に行かないことにした。しかし、那由はその手は使えない。
 二泊三日、うち一日はテーマパークでの自由行動。無理して僕が行けば、少なくとも那由がひとりぼっちになることはない。でも、僕にはその勇気がなかったのだ。
 集合は早朝の豊橋駅と言うことで、母さんが那由を駅まで送っていく事になっていた。
 朝食は僕が作ったが、あまり凝った物を作る元気はなかったので、お湯を入れれば飲めるカップスープに、レタスや目玉焼きをサンドした市販のイングリッシュマフィン。でもせめて、レタスは丁寧に水切りし、目玉焼きは黄身が流れ出ない、でも固まりすぎない、最高の出来具合になるよう慎重に焼いてみる。
「しばらく晴ちゃんのご飯が食べられないのが残念」
 僕の後ろめたさに気づいているのかいないのか、ほっぺたをリスのようにしながら那由は朝食をほおばっている。

 那由が大荷物を持って出て行ってしまってから、一時間後に僕も学校に向かった。旅行はパスするとはいえ、欠席日数をこれ以上増やす訳にはいかないのだ。
 自習扱いの生徒達は図書館に集合することになっていたが、普通の生徒にとって修学旅行は学生生活でもっとも楽しいイベントだ。よっぽど(部活の大きな大会と重なってしまったとか、元々不登校とか)でなければ、修学旅行を欠席などする訳がない。よって、今日図書館に来たのは僕一人だった。
 他の学年も、みんな授業中だ。がらんとした図書室で何となく教科書をめくっていると、教頭先生が見回りに来て、
「旅行には行けなくても、ちゃんと登校するのはすごい。偉いよ」と、しきりに褒めてくれた。
 ただ、学校に来ているだけで褒められる。そのことに僕の置かれている状況を再認識させられ、絶叫したくなる。でも、そんな事は表面に出さず、「ありがとうございます」と儀礼的に返す他はない。

 勉強してるフリをし続けて、放課後を迎えた。
 チャイムと一緒に図書室を飛び出し、職員室の教頭先生に挨拶だけして、僕は学校から逃げ出した。
 家に着くと同時に、スマホの通知が短く鳴った。母さんからだ。
『仕事が立て込んでます。今日は学校に泊まります。火の元に注意して下さい。』それだけ書かれていた。
 那由が家に来てからは一回もなかったけれど、母さんが家に帰ってこない事は、去年まではしょっちゅうだった。今日はずっと一人だという事が確定し、僕は制服を脱ぎ散らかしたままパンツとシャツだけの格好でベッドに潜り込んだ。それ以外、何をどうすればいいのか見当も付かなかった。

 メールの着信音で目が覚めた。到底眠れそうにない、と思っていたのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
 那由からだった。
『五月十四日(木)東京です。東京駅や東京都庁を見ました。辺り一面、ビルばかりです。東京というのは何だかピカピカして、鏡のような所だね。』
 那由らしい、抽象的な文章。
『実体がどこにあるか分からないって事?』
 できるだけ早く返事を返したくて、思いつくまま言葉を並べて送信する。
 旅行にはしゃぐ部屋のメンバーから離れ、ひとりでメールをぽちぽち打っている那由を思うと、僕はいたたまれない気持ちになった。どうしても、同室の女の子達と楽しそうにしている姿を想像できない。
『部屋に男子が入ってきたら、周囲の目を気にせず先生に報告』と、追伸を打ちこんでみたが、送信はせず、そのまま消去した。 
 那由からの返信はない。時計を確認すると、午後九時半だった。僕はポロシャツとジーンズに着替え、メッセンジャーバックを背負った。少し遠いが夜十一時までやっている大型ショッピングモールまで、ビアンキをとばす。
 信号を無視し、下り坂もノーブレーキで力一杯ペダルをこぎ続けた。おかげで、普段なら二十分はかかる道を十分ちょっとで辿り着いた。ビアンキを駐輪場の柱にチェーンでくくりつけ、食品売り場に走った。
 タマネギ、ニンジン、セロリとニンニク、大量のプチトマトをかごに放り込み、スパイスの棚からタイム、セージ、ナツメグとカルダモンを選び、バターを選びに行く。特にバターは新しい物が欲しかったので、売り場のバターを片っ端から漁る。
 次は肉だ。黒毛和牛の牛スジ肉を五百グラム、同じ和牛のフィレ肉を三百グラム、豚のこま肉を一パック、ついでに「超デカ盛りチャンポン麺」のカップ麺を一つ取って、レジへ。母さんから預かっている食費用の財布ではなく、自分の小遣いから支払いを済ませた。
 買った物をバッグに詰め、ビアンキを走らせる。帰りは上り坂だ。全力でこいでも、行きの倍の時間がかかった。
 家に帰り着く頃には汗だくだったが、僕は構わずキッチンに向かった。

 母さんが何かのお祝いでもらってきた高そうな赤ワインを、戸棚から取り出す。375mlのハーフボトル。今まで手を付ける気配がなかったから、構わないだろう。
 牛スジ肉を大きめにカットし、フライパンで焼き目を付けてからオーブンに入れる。温度は160度、30分。買ってきたプチトマトのへたを取っておく。
 牛肉が焦げないよう慎重に見張りながら、カップ麺をすする。何の味もしないが、胃袋だけは満たされた。おかげで、薬を飲む事ができる。
 オーブンから肉を取り出す。鉄板にたまった脂をフライパンにあけ、オリーブオイルと、芽を取って軽くつぶしたニンニクを足し、弱火にかける。香りが立ってきた所で半月切りのタマネギ、すじを取って薄切りにしたセロリ、さいの目に切ったニンジンを入れ、焦がさないように丁寧に炒める。
 タマネギが透き通り、ニンジンに油が回った所で深鍋に移して、牛肉とプチトマトをパック半量、スパイスと水を足し、ワインの栓を抜いて振り入れ火にかけた。
 ふと時計を見ると、十一時だった。僕は冷蔵庫を開け、母さん愛飲の栄養ドリンクを一本、一気飲みした。
 デミグラスソースを作るには、フォンがいる。フォンを作るには、長い煮込み時間がいる。今から八時間。朝の七時までは寝ずの番だ。両頬をピシャッとたたいて気合いを入れた。

 午前二時。鍋をのぞき込みながら、アクと油をすくう。プロのコックさんは、こんなとてつもなく時間のかかる仕事をやっているのか。お店の支度はこれだけじゃなくて、他にやる事もいっぱいあるだろうに。

 午前三時になっても、眠気は襲ってこなかった。流石に、自分でも何でこんな事をやっているのか分からなくなってきた。明日の学校は居眠りばかりになってしまうだろうが、かまう事はない。眠っていた方がずっといい。温度計の先を鍋に入れ、フォンの温度を確認する。

 午前四時。換気扇と冷蔵庫のモーター音だけがするキッチンで、僕は気付いた。僕は、一人きりの修学旅行から帰ってくる那由に何て声をかければいいのか分からなくて、その瞬間が怖いのだ。恐怖を忘れるために、余計な事は考えないように鍋に集中しているのだ。
 那由が帰ってきたら、学校までは無理だけど、家の前で待って。「今日の夕食はハヤシライスだよ、簡単で悪いけど」とか言おう。きっと那由は「美味しい、美味しい」と言いながら食べてくれる。そのシチュエーションが欲しくて、そこにたどり着きたくて、僕は作業に没頭した。

 夜明けが近づき、少しずつ窓の外が明るくなってくる。徹夜なんて生まれて初めてだ。いつもなら寝ている間にやってくる朝は、こうして起きていてもやってくる。当たり前の事なのに、何故か少し不思議に思えた。
 登校時間までに、鍋を冷蔵庫にしまっておかなくては。僕はフォンをざるで濾した。ざるの中の野菜も、捨てずに取っておかなくてはいけない。フォンを移した鍋と煮込んだ野菜の熱を冷ましつつ、僕は洗面所で顔を洗った。どうせひどい顔してるに決まっているから、鏡は、見ないように。
 ひとつ残っていたイングリッシュマフィンを無理矢理に口に押し込んで、学校に向かう。

 今日も図書室に集合だが、自習しているうちに気分が悪くなった。見回りの先生に断って、保健室に向かった。
 幸いベッドは空いていたので、寝かせてもらうことにする。
「疲れているようだから、ゆっくり寝ていったら?」
 保健室の先生の何気ない言葉が、昨日の無茶を見透かしているようで、いっそう気分が悪くなる。
 目覚めると、もう6限も終わる時間だった。昼を抜いてしまったが、まるで腹が減ってない。保健室の先生にお礼を言い、僕は学校を飛び出した。スマホをチェックしてみると、那由からではなく母さんからのLINEが入っていた。
『今日も帰れない。明日は必ず帰る』
 好都合だ。通学路からちょっと寄り道して、コンビニで菓子パンを買い込む。今日の夜と、明日の朝と昼の分。
 今日は2番フォンを取る。新たにセロリ、ニンジン、タマネギを、昨日と同様に炒める。焦げないように、慎重に。
 残しておいたプチトマトと、昨日煮込んだ野菜と共に鍋に入れ、水を注いで火にかける。火の調節をしながらあんパンとジャムパンを一気に食べて、牛乳でのどに流し込む。「食事」と言うより、薬を飲むための準備だ。
 フォンの鍋を見張りながら、新しい鍋にバターを入れ、隣のコンロで火にかける。溶けたところに薄力粉を加えて、木べらでなじませていく。茶色になるまで炒めなくてはいけないのだが、中々色が変わらない。火が弱すぎるのか? 僕は心配になり、ほんの少し火を強めた。やっと鍋の中がふつふつとし始め、茶色になったところでいったん火を止めた。嫌な予感がする。スプーンですくってなめてみると、焦げ臭い匂いが鼻に広がった。失敗だ。鍋からソースを拭き取り、きれいに洗ってからもう一度バターを溶かし、小麦粉を振り入れる。今度は、ごくごく弱火のままだ。慎重に。

 三十分後。ようやく、満足のいくブラウンルウができた。後でフォンと合わせるために冷ましておく。
 2番フォンの鍋を、昨日と同様にアクを取りながら煮詰める。煮込んでいると、メールの着信音が鳴った。僕はスマホに飛びついた。那由からだ。
『五月十五日(金)晴ちゃん、こんばんは。交換日記に昨日のうちに返事をくれたから、今日も私の番ってことだね。』
 ……これも交換日記だったのか。昨日に返事をくれない訳だよ。那由ルール。
『大きな遊園地に行きました。班の子達とは早々にはぐれちゃったんだけど、』
 那由、やっぱり置いて行かれたのか。
『それを幸い、園内を歩き倒してきました。いや、面白い所だ!』
 ひとりで歩いていたのかな。乗り物にも乗らず。那由らしいや。
『ひとりの旅先は非日常の極みで、遊園地も非日常の極みだから、もう極みの中の極み。起きながら夢の中って、なかなかできないよ。』
 僕も、昨日から夢の中みたいだよ。夢の種類が違うけど。
『明日は帰るね。夕ご飯よろしく。』

 僕も返事を打った。
『五月十五日(金)ひとりで知らない所を歩くって、僕からすれば那由は探検家に見えるよ。くれぐれも、体とトラブルには気をつけて。
 母さんは、昨日、今日と大学に泊まりこみ。家に一人きりだから、テレビを見たり、本を読んだり、思い切りだらけてます。だらけ癖が、戻ってきてしまったかな。休みすぎて、かえって疲れた。明日の夕飯は、悪いけど、簡単なものにさせてもらうよ。よろしく。』
 そして、いかにも「だらけてました」感を出すべく、新聞やリモコンをリビングのテーブルに散らかしておいた。

 もう一度フォンの鍋に向かいながら、昨日の朝を思い出す。那由が旅行に持って行ったのは、この家に来た時と同じボストンバッグだった。
 僕は、旅行の準備をしている那由に、僕が使っているキャリーバッグを勧めた。どうしても、あのボストンバッグを持ってこの家を出て行く那由を見たくなかったから。
 しかし、予想通りと言うべきか。那由は、『使い慣れてるから』の一言で、僕の提案を却下した。那由には、遠回しに物事を伝えることはできない。その事は一番僕が理解してはいるのだが、あの時ばかりは歯がみした。
 僕にとって、小学校での修学旅行は苦行以外の何者でもなかった。親しく名所を回る友達がいる訳でもない僕は、周囲の楽しげな雰囲気を避けるように息を殺して過ごした。同じクラスだった飯山とその取り巻きには、絡まれないよう、かといって「無視した」と思われないよう、慎重に距離を取って。
 那由がもし、あの時の僕と同じ思いでいるならば、それは那由を故郷からこの街に呼んだ僕のせいだ。楽しげなメールを送って来てはいるが、内心ではどうだろうか。怒ったり、悲しんだりしているのではないだろうか。もしかしてこのまま、この家を出て行ってしまうんじゃないだろうか。何度も同じ妄想に襲われる。
 半分ほどに煮詰まった鍋を濾し、浮いた油をすくってから昨日の1番フォンと合わせる。これでフォンは完成だ。
 これをドミグラスソースに仕上げるため、さっきのルウと合わせてスパイスを足し、ごく弱火で、またじりじりと煮詰めていく。

 そして、次の日。
 今日も何もなす事のなかった学校から帰って、今は夕方六時。家の前で待つことは、前もって那由にメールしておいた。
 人が通りかかる度に、玄関先を掃除してみたり、夕刊を取るふりをしたり、一度家に入って、また外に出てみたりを繰り返す。まだまだ明るさが残る空に、春が過ぎていくことを実感する。
 その夕方の光の中、小さめなシルエットが角を曲がってきた。
 近視の僕は、眼鏡をかけていても遠くの物はよく見えない。ましてや人の顔など全然判別できないが、あの体の半分はあろうかというバックは、間違いない。ダッシュしようとして、バランスを崩した。よろけた拍子に履いていたサンダルが脱げそうになってちょっと慌てた時、ボストンバッグの人影がこっちに向かって走ってきた。
「ただいま!」
 近所中に響き渡るような大声で、那由は叫んだ。僕は急に恥ずかしくなって、サンダルをはき直しながら小声で返した。
「お帰り、お疲れ様」
「お土産、買ってきたよ! くまさんのクッキー!」
「ありがとう。バッグ、家の中まで持つよ」
「いや、良いって良いって! 部屋まで自分で持って行くって」
 那由は、僕の密かな贖罪を跳ね返したことも気にせずに、ぱんぱんに膨らんだバッグを背負い直す。
「夕ごはん、何?」
 僕は、鍋の前で何度も練習した台詞を唱える。「今日の夕食はハヤシライスだよ、簡単で悪いけど」
「ハヤシライス? うわー、楽しみ!!」
 那由の瞳はあいかわらず、いや、出発した日以上に輝いている。大丈夫。自然に言えた。
「東京の、ホテルのご飯はどうだったの」
「うーん、やっぱり大量に作った味がした。ごちそうだったけど、いまひとつ。おうちのご飯が恋しかったよ」
「そう言われると、今日のご飯は手抜きだからなあ。豚肉とタマネギを炒めて、ソースで味付けするだけだし。母さんが帰って来るまでまだかかるだろうから、お腹空いてるなら先に食べる?」
「ぜひともそうして欲しい! 早く作ってよ、晴ちゃん」
 そう言って、那由は歩き出した。玄関をくぐる時、那由はもう一度大きな声で、
「ただいまー!」と言った。その声に、僕は何も言えなくなる。

 那由がそのまま二階に上がったので、僕はキッチンに戻り、タマネギを切った。火が早く通るよう、できるだけ薄いくし形に。
 フライパンにバターを溶かし、タマネギを炒める。甘い匂いが立ち、透き通ってきたあたりで豚こま肉を広げるように加える。肉の色が変わったら、鍋のドミグラスソースをお玉に三杯。
 ジュワッという音と一緒に、香ばしい香りが部屋中に広がる。わざと、換気扇は回さずにおいた。焦がさないよう木べらで底からかき混ぜながら、三日間の仕上げをする。
「すっごい、良い匂い! そうそう! やっぱり晴ちゃんの料理の方が、ホテルよりいい匂いなんだよ、ふしぎ!」
 狙い通り、Tシャツとジャージに着替えた那由が、匂いにつられたようにキッチンに入ってきた。
「何か手伝う? おさじとか出す?」
「いいよ、今日は座ってて。あとはお皿に盛るだけだから」
 僕は火を弱め、水を注いだコップとスプーンを那由の席、そして向かいの僕の席に置いた。テーブルに着いた那由は両肘を付き、指を組んだ上にあごを載せて、目をつむりながら一生懸命鼻をひくひくさせている。
 カレー皿にご飯を盛り、そのご飯を覆うようにハヤシをお玉でかける。わざと無造作に、たっぷりと。
「お待たせ」 那由の前に皿を置いて、声をかけた。那由はパッと目を開くと、叫んだ。「いただきます!」
 『いただき』の時にはスプーンは那由の手にあり、『ます』の時にはすでにスプーンの先は口に入っていた。
「熱っ」
「ほら、そんなに慌てなくても、たくさんあるから」
 自分が猫舌だったことを忘れるほど、お腹が空いていたのか。
「美味しい、美味しい! ほら、晴ちゃんも食べなよ、美味しいよ!」
 那由はいつものように一口ずつを息で冷ましながら、それでもどんどんと食べていく。僕の欲しかった笑顔のままで。

五月十六日(土)
 修学旅行より帰ってまいりました!
 家は良いね。色々珍しいものは見たけど、やっぱり、晴ちゃんのご飯の魅力には叶いません。
 ハヤシライス、おいしかったよ。晴ちゃんが作ると、晴ちゃんの味になるんだね。不思議だなあ。
 これが、愛情ってやつ?

 
 僕は、思わず吹き出しそうになった。
 那由の言葉に、深い意味なんて無い。世界中の誰よりも、僕はその事をよく知っている。でも、と言う希望的観測というか、ひょっとして無意識下では、というか、あー、なんだろ、この感じ。そんなこと、あるはずないのに。那由だよ、相手は。

(続く)


次の話はこちらです。


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