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手をつなぐ二人の距離は 第7話


「全教科平均、69.5、ってところかな?」
 那由が、リビングのテーブル越しに笑う。

 中間テストは、自分なりに手応えがあった。那由と一緒に自己採点してみると、全教科60点以上、僕の得意とする国語と社会は80点に届く見込みだった。
「いいじゃない、晴ちゃん!」
 那由は、自分のことのように喜んでくれた。
 三年生の定期考査は、そのまま内申点として高校入試に直結する。他の連中がいよいよ受験勉強にエンジンを掛けてくる中、那由というコーチが付いてくれている僕は、万全の体制でテストを受ける事ができた。

 日がたつにつれ、クラスメイトが僕たちを見る目が、少し変わってきた。いや、「那由を」見る目、と言うべきか。授業で毎週繰り返される小テスト。そこで、那由は満点を取り続けているのだ。
 クラスのみんなの噂話を総合すると、うちの中学では5名が僅差のトップ争いをしており、特に英語と数学には不動のトップがいたらしい。そいつらにいきなり肩を並べるような活躍を見せているのだから、周囲の驚きはひときわだった。
 しかし、クラスでの浮きっぷりは相変わらずだ。勉強ができるとブランド力のようなものが生まれるから、那由にも、「穂積さん、勉強教えてくれない?」と話し掛けてくる子もいたらしい。
 しかし那由は、それらクラスメイトのアプローチすべてを、
「ゴメン、忙しいから」
と断って僕のクラスに来てしまうのだ。こうして僕らは、ますます孤立していった。
 そして事件は、中間テストの成績発表の日に起こった。

 放課後、僕は自分の教室で那由を待ちながら、中間テストの結果が書かれた紙を読み返していた。各科目の点数と総合の順位に、何度確認しても自然と笑いがこみ上げて来る。
 その時、後ろの席の飯山が、大声を上げた。
「おい、こいつ、カンニングしてるぞ!」
 ざわついていたクラスが、一瞬でしん、となる。飯山は席を立ち、僕の手から、紙をひったくった。
「クラスで14番、学年で68番だぁ? 不登校で私学をクビになったヤツが、何でそんな成績取れんだよ?」
 こいつが僕にはっきりからんできたのは、始業式の日以来だ。厄介だが、ここまで言われてやり過ごす訳にはいかない。僕は、腹に力を込めて言った。
「カンニングなんて、する訳ないだろ。どこに証拠があるんだよ」
 その瞬間、飯山は僕の机をひっくり返した。
「ちょ、何すんだ!」
「やましい事がなけりゃ、机ン中探されても問題ねえだろ」
 いつの間にか、飯山の仲間が集まってきた。
「明石がクラスで10番台だなんて、ありえねぇって」
「カバンの中、探せよ。こいつのイトコに作ってもらったカンニングペーパーが出てくるぜ」
「おお、そうだな」
 飯山は、僕の鞄を拾い、ファスナーに手を掛けた。
「ちょっと、本当にやめろよ!」
「カンニング野郎が意見するんじゃねえよ」
 その時だった。おかっぱ頭の小さな影が走ってきて、勢いそのまま飯山に体当たりした。
 那由だ。
 体格差がかなりあるとはいえ、不意を突かれた飯山は、幾つかの机を巻き込んで床に倒れた。教室に派手な音が響き、女子の誰かが悲鳴を上げる。
 そして那由は、飯山が起き上がる前に、自分がスカートをはいている事も無視して全体重を掛けたドロップキックをかました。飯山の顔が歪む。もう一発かまそうと那由が後ろに下がった時、飯山は起き上がり、拳をふりあげた。
 まずい! 考える前に、体が動いた。
 とっさに那由と飯山の間に入った僕の後頭部に、今まで経験した事の無いような衝撃が走り、その後「ごん」という鈍い音が頭に響いた。よろけた僕は、そのまま机といっしょにひっくり返った。
 起き上がった僕の視界に、那由に向かっていく飯山の姿が見えた。だが、何故か飯山が二人いる。よく分からないが、必死でしがみついた。
「放しやがれ!」
 頭にもう一発くらい、眼鏡が吹っ飛ぶ。
「お前ら、何やってんだ! 離れろ!」
 騒ぎを聞きつけて戻ってきたのか、先生の声がした。
 先生と、クラスメイト達が僕らを引きはがす。まだ風景は二重のままだ。
 ぼやけた二重写しの世界の中で、飯山が鬼の形相で僕を睨み付けている。飯山は、那由をこれだけの力で殴ろうとしていたのか。怒りと、そして恐怖がこみ上げてきた。

 僕と那由、そして、飯山と、見物していた数人の生徒は、先生に生徒指導室へと連れて行かれた。
 状況は、かなり不利だった。見物していた生徒のひとりが、「明石が飯山に大声を出し、そこに突然那由が走り込んできて、飯山に体当たりした」と、証言したからだ。
 飯山の運が強いのは、僕の鞄自体は荒らされる前だったことと、喧嘩で幾つかの机がひっくり返り、飯山に倒された僕の机はその中に紛れてしまったこと、その二点だ。那由がつっこんでくる前に飯山がしたことの証拠は、何もなくなってしまったのだ。クラスメイトが順に飯山の無実を語るにつれ、那由の目はどんどん見開かれていく。
「僕たちも止めようとしたんですけど、穂積さんの勢いがすごくて」
「なんで!」那由が叫んだ。
「何でそんな説明になるの! 飯山君が晴ちゃんの机をひっくり返して、カバンまで開けようとしていたからでしょ!」
「人をいきなり突き飛ばしといて、嘘までつくとはたいしたヤツだな」
 飯山が、いけしゃあしゃあと反論する。
「晴ちゃんも、ちゃんと言わないと! 何であんな事されてたのかって!」
 僕は少し考えて、こう言った。
「僕、今、物が二重に見えているんですけど、病院行った方がいいですか」
 那由は真っ青になった。
「何で、早く言わないんだ!」先生が怒鳴る。
「すぐ治ると思ったのですが」
「とにかく、病院に行け。親御さんにはこちらから連絡するから」
 こうして、この茶番劇はひとまず解散となった。

 その日の日記は、那由の番だった。
六月三日(水)
 晴ちゃん、もう目は本当に大丈夫? お医者さんは心配ないって言ってくれてたけど、やっぱり心配だよ。
 私が飯山を(もう呼び捨てする! いいよね!)けとばさなければ、飯山も晴ちゃんを殴らなかったかもしれない。そう思うと消えちゃいたいくらい後悔。カッとなると見境がつかなくなるのは、私の悪いクセだ。いや、いっそもう起き上がれないくらいに徹底的にやってやればよかったか!

 でも、やっぱり今日のことは納得できないよ。飯山は、まあ、ああいうヤツだとしてもさ、なんで見てた子は、(あの子なんていうの? まあいいや、一生友達になることはないから)見たままのことをいわないの?
「長いものには巻かれろ」とか「迎合」とか、調子づかせちゃいけない人を調子づかせるだけだって、何でみんな分かんないんだろうなあ。何でそんなことする気になるんだろ。何でそれで耐えていけるんだろ。
 あー、もう、腹立つ、腹立つ、腹立つ!

 次の日、学校に行くと、僕はカンニングした上に脳しんとうの演技までした大嘘つきということになっていた。
 飯山は、誰かの机に腰掛けて、四、五人の取り巻きと一緒に笑っている。
 僕は状況を理解した。要は、僕ひとりが飯山の標的になっている限り、このクラスは平和で安全という訳だ。
 小学校の時も、サッカー部のレギュラーで明るい人気者の地位にいた飯山だったが、その実は短気で、イジメの首謀者(標的は僕ではなかったが)だったことを思い出した。中学に入ってからも、僕が知らないだけで何かあったのだろう。

 一時間目の放課、いつものように那由としゃべってから教室に戻ってくると、聞こえよがしな飯山たちの声がした。
「いくら頭よくてもなー。あ、嘘つきにはお似合いか」
「何するかわかったもんじゃないしさぁ、怖いって」
「ほんとそれ」
 思わずそちらを振り向くが、飯山たちは素知らぬ顔で笑い転げていて、こちらと目を合わせようともしない。
 そしてすぐ二時間目が始まった。
 那由が短気なのはわかっていた。でも、体格差をものともせず突っかかっていく無鉄砲さ、強いものに迎合しない頑固さ。
 始まったばかりの生活なのに、この先どうなるのか。正直、将来までもが真っ暗に思えてくる。

 次の授業は、音楽。「クラシック鑑賞」と称して、なんとブルックナーの第7交響曲の第2楽章をぶっ通しで聴く、と言うのだ。五〇分授業の中で、五〇分近くある楽曲を聴かすなんて絶対手抜きだ。その上、本場のドイツでも演奏会で寝る人が多いらしいブルックナーだ。こんなのクラス全員爆睡確実だろうに。
 しかし、偶然とはいえ、僕の今の状態にとって、あんまりと言えばあんまりな選曲だ。そんな僕の動揺には気づくはずもなく、音楽の先生は簡単に曲について説明すると、プレーヤーのスイッチを入れた。
 出だしで、ギュンター・ヴァントが指揮した、ベルリンフィルのCDだと分かった。家にもある、何べんも聴いたCDの一枚だ。ちょうど40分とちょっとで曲が終わる。
 僕の大好きなブルックナー7番第2楽章。ブルックナーが、心の師と仰いだワーグナーを弔うために書いた楽章だ。 あの、聖俗それぞれの快楽を生きたワーグナーが、天上へゆっくりとこちらを振り向きながら昇っていく。その場面で、僕は思わず泣きそうになってしまった。
 ブルックナーは、シューベルトやブラームスも、ベートーヴェンですらなしえなかった、「最後はすべてを神にゆだね、救われる」ことを描ききった作曲家だ。僕も、救われることができるだろうか。そして、那由も。

 CDが止まり、授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、クラスの皆が起き始めた。案の上だ。
 僕は教室に帰ろうと廊下に出た。その時、
「なあ、ちょっと待てよ」
と、初めて聞く声がして、僕は振り返った。
 僕は人の顔と名前を覚えるのが苦手だ。しかし、「おまえ、誰?」とは聞ける訳がない。仕方なく、
「僕に何か用?」
と、素っ気なく聞き返した。僕に話しかけてくるなんて、どうせろくな用件ではないだろう。
「お前、クラシックおたくだろ。しかも筋金入りの」
「な、何だって?」
 全く予想もしなかったことを言われ、面食らってしまった。
「ブルックナー聴いて寝ない奴なんて、クラシックおたく以外考えられん。今の7番、誰の指揮か言えるだろ」
「ギュンター・ヴァント、ベルリンフィル盤だと思うんだけど」
「かーっ、やっぱり!」
 名前も知らないクラスメイトは僕の背中をバンバンたたき、僕に並んで歩き出した。
「流石だな、今時、吹奏楽部員でもブルックナー聴いたことある奴なんていないぜ。ところで、どう思う? 今のブルックナー」
「どうって言われても」
「絶対、先生シロウトだよな。ブルックナーの7と言えば、フルトヴェングラーは録音が古いにしても、チェリビダッケの名盤がいくつもあるのにそれを選ばないなんて。あ、でもチェリだと授業には時間オーバーか。それにしたってヴァントじゃ速すぎるよ。特に2楽章は」
 一気にまくし立ててきた。なるほど、こんな話がしたいのなら、確かに中学校には相手がいないだろう。
「あ、どうせ俺の名前、覚えてないだろ。俺は春木敦って言うんだ。言ったとおり、吹奏楽部所属」
 先に自己紹介されてしまった。僕も名乗ろうとすると、
「知ってるって、有名人だからな。オレに触ると自殺するぜ、の明石晴宏だろ」
「……今の言葉、僕でなくても傷つくと思うんだけど」
「俺が言ってる訳じゃない。一部の連中がそう言ってるんだ。お前は、学校中の全員がそう言っているように思ってるかも知れないけど、そんな陰口叩いてるのはほんの一部だ。まあ、他のほぼ全員は、お前と関わり合いになりたくないと思ってるだろうけど」
 春木は、思ったことをそのまま口に出すタイプらしい。
「俺も関わり合いにならないでおこうと思ってたクチだけどさ、クラシック、特にブルックナーを聴いてるとなれば話は別だ。ブルマニア同士、仲良くやろうぜ」
 一瞬、廊下が静まりかえったのは、気のせいじゃないだろう。
「ちょっと待て、なんだその呼び名。違う意味にしか聞こえないぞ」
「今時、吹奏楽部にもクラシックの話が出来る奴なんか、いやしねえんだぞ。何がポップスでマーチングだ。お客に楽しんでもらいましょうだ。音楽をなめるな」
 僕はとんでもない奴に引っかかってしまったのかも知れない。
 教室に着くと同時に、六時間目のチャイムが鳴った。
「また放課後ゆっくり、と言いたい所だが、俺は部活だし。お前は穂積様とデートだろ?」
「デートって!」
 びっくりしてつい頭から飛んでいたが、今は那由についての問題の真っただ中だった。思わず渋い顔をしてしまうが、春木は言った。
「あの子も、面白いよな。大変な部分もあるだろうけど。ほら、ブルックナーの5だって、途中までは『どうすんだこれ?』みたいな曲だけどさ、最後まで聴いたら凄いじゃん? やっぱ、じっくり付き合っていかないと、わかんない事ってあるよ」
 客観的な立場から言われると、そんな見方もあるかな、という気にもなってくる。何となく救われた気分だ。
「いいか、チェリのブル7、聴いとけよ。明日、感想聞くからな」
 春木はそれだけ言い残すと、僕の都合も聞かずにさっさと自分の席についてしまった。
 仕方なく僕も席に着くと、後ろから飯山のつぶやく声が聞こえてきた。
「嘘つきの上にブルママニアの変態かよ……」
 もちろん僕は無視したが、飯山もそれ以上話しかけてはこなかった。そら見てみろ春木の奴、やっぱり誤解されてるじゃないか。

 僕も真面目だと思う。その夜、僕は、応接間のラックを漁ってみた。
 探してみると、家のラックにはチェリビダッケのCD全集が二種類と、DVDが見つかった。どれにしようかちょっと迷ったが、今回は聴き比べと言うことで、授業で聴いたのと同じベルリンフィルを指揮したDVDをチョイスした。
 食事が終わってすぐに、応接間のプロジェクターとDVDプレイヤーの電源を入れた。壁に掛けられたスクリーンに向かって、ソファに座る。
「何、見てるの」
 那由が洗い物を終えて、僕の隣にやってきた。
「クラシックのDVD。今日、初めてしゃべった奴に、『明日感想聞くから聴いてこい』って言われたんだ」
「へー、晴ちゃん、すごい。ついに友達できたんだ。良かったねぇ」
 那由は素直に喜んでくれている。そうだよ、那由にはこんなに良い所もあるじゃないか。
「いや、まだ友達になった訳じゃないけど」
「話をする相手がいるって事だけですごいよ。私なんて、クラスに話ができる人なんていないもん」
「それは、那由がいつも僕のクラスまで来ちゃうからじゃないか。勉強教えて欲しがった子たちもいるだろ?」
「あれは、『話』とはちょっと違うよ。話なら、もっとシンプルに心から会話できる人としたい。女の子って、表と裏の顔が違うから、どうにも怖いよ」
 確かに、それは怖いことかも知れない。僕は話題を変えることにした。
「それはそうと、一緒にDVD見る?」
「ううん」
「あっ、そう」ちょっと残念。
「音楽きいてるときには、話しかけちゃダメなんでしょ? じゃ、お風呂入って来まーす」
 そう言って、那由は部屋を出て行った。

 どうして、大きなステレオと、こんなにたくさんのCDやDVDが家にあるのか、僕は知らない。
 小学校五年の夏。那由の山から帰ってきた僕は、初めて今のこの家を見た。その年の春、母さんが職場を移したのにあわせて、それまで住んでいた狭いアパートを引き払い、この家に引っ越したのだ。
 慣れない家と激変した環境とで眠れぬ夜を過ごした次の朝、呼び鈴が鳴った。
「どうも、オーディオドックです」そう言って玄関から入ってきたのは、五十歳位のジャケット姿のおじさんと、二十代のすっきりした顔立ちのお兄さんだった。
 母さんは二人を応接間に案内し、人見知りの僕は自室にこもった。そうして一時間ほどたった頃、突然、オーケストラの音楽が聴こえてきた。
 知らない人がいる気おくれはあったが、おそるおそる階段を下りて応接間をのぞいてみた。その時、今まで聴いたこともないような美しい響きが、僕を包み込んだのだ。
「お子さんですか、こんにちは」
 おじさんが声を掛けてくれた。
「どうも」ともぐもぐ返すのが精一杯だったが、その間も僕の目は、目の前のスピーカーに釘付けになっていた。
 それは、確かに以前の古いアパートの隅で本に埋もれていた、見覚えのある木の箱だった。しかし今はぴかぴかに磨かれて、生き返ったように音を出している。
 いや、それは音というより、まるで部屋の空気に音楽が溶け込んでいるみたいだった。魔法のように。
「お子さんも、これのすごさが分かるようですね」と、おじさんは言った。
「ここまで状態の良い物はほとんどないですから。中身も、新品同然でしたし」
 部屋を見渡せば、アパートの押し入れに詰め込まれていたCDも綺麗に壁のラックに収められており、スピーカーの間におかれた機械の中では電球のような物が橙色の光を放っていた。その時流れていたのが、ブルックナーの交響曲だった。
 不思議なことに、その後、母さんがこの部屋で音楽を聴いている姿を見たことは一度もない。
 このステレオは、事実上、僕の持ち物となった。

 一人になった僕は、プレーヤーの再生ボタンを押す。スクリーンに、オールバックの白髪と、大きく飛び出したお腹が目立つ指揮者が映し出された。チェリビダッケだ。
 ゆっくりと指揮棒が動きだし、昼間聴いたのに比べてかなりスローテンポな演奏が始まった。
 指揮台のチェリビダッケは、とても表情が豊かだ。うまくいっているときはにこやかに、いっていないときは鋭い視線で、世界一と言われるベルリンフィルを思うままに操っている。
 聴き続けていると、今まで僕が知っていたのとは違う曲の顔が見えだした。音が、同じ楽団とは思えないほど優しく柔らかい。遅さは気にならなくなり、むしろこのテンポこそが曲の深みを生んでいることに気づく。テンポと音量は完璧にコントロールされ、弦は泣き、木管は嘆き、金管は決断する。
  第二楽章が終わった所でプレーヤーを止めた。春木と同じ意見で少ししゃくではあるが、僕もヴァントよりチェリビダッケの演奏の方が好きだ。
「変な奴だけど、音楽のこと、よく分かっているんだろうな」
 那由がいないので、独り言になってしまう。この気持ちをしゃべる相手がいないのは確かにつまらない。堰を切ったような春木の早口も、分かる気がする。
 余韻に浸っていると、
「ねえ、もう見終わった?」と、髪をタオルでごしごし拭きながら那由が入ってきた。相変わらずの自然乾燥だ。
 夏も近づいてくると、Tシャツにハーフパンツと、風呂上がりに着る服がどんどん薄くなってくる。こちらは心の動揺を抑えるのに必死だが、当然那由は気にする風でもない。
「終わったんなら、一緒に『原付でぶらり旅』見よ。こっちの大きなテレビで見るの、好きなんだ」と、那由はお気に入りのバラエティ番組のDVDを取り出した。
「そういえば『ヨーロッパ一周原付』の巻が見当たらなくなっちゃったんだよ、あとで一緒に探してね」
 僕は、いろいろな意味でため息をついた。

六月四日(木)
 おかげさまで、目の調子はよくなったよ。頭痛もないし、お医者さんの言うように問題はなさそう。
 助けに入ってくれたのは嬉しいけど、もう手を出すのはやめてね。僕の身がもたない。(キックだから出したのは足だよ、という屁理屈もなしで)
 クラスの中は相変わらず。あ、でも、今日、音楽の授業をきっかけに、知り合いができたのは、ちょっと明るいニュースかな。変な奴だけど、物の見方は鋭いみたい。変な奴だけど。


 確かに危なっかしいけれど、今までもこの先も、那由が那由であるのは変わらない。
 そう思えたのも、春木の言葉が大きいのかもしれない。


次の話はこちらです。


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