手をつなぐ二人の距離は 第5話
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「それは、内緒」
僕らは今、電車に乗り込んだ所だ。もうすぐ発車時刻にもかかわらず、四両編成のこの電車に乗っているお客は、数えるほどしかいない。
先頭のこの車両に座っているのは、僕らだけだ。シートは向かい合わせで、真正面に座る那由の、丸い瞳がちょっと照れくさい。
問題は、那由が行き先を教えてくれないことだ。重ねて僕が尋ねても、ニヤニヤと「内緒、内緒だって」と笑っている。
今日、僕たちの学年は、豊橋総合動植物公園まで遠足に行っている。
クラスの奴らと共に長時間バスに乗ってレクリエーションをし、班行動で見学をし、弁当を食べ……。その重苦しい空気を想像するに、余りに厳しい。絶対に、そのプレッシャーで発作が起きるに決まっている。
特に、あの飯山とずっと行動しなくてはならないかと思うと、それだけでどうかなりそうだ。
「だったらさ、休んじゃおうよ。二人して」
そう言い出したのは那由だ。
「授業じゃないんだし、休んでも勉強は遅れないでしょ?」
ルール至上主義の那由がそんな大胆なことを言い出すとは思わなかったが、確かに「休む」という選択は正解だろう。
学校には発熱と言うことにして、ちょっとしたずる休み。こうして、僕らは二人だけの遠足をすることになったのだ。
出発は豊橋駅。
いつもなら自転車で来る所だが、今日は豊橋鉄道渥美線から乗り換えだ。
連絡通路を通り抜け、改札と券売機に向かう曲がり角で、「晴ちゃん、ちょっとここで待ってて!」と、那由は急に駆け出した。
どうあっても、行き先を教える気はないらしい。取り残された僕は、角にあるパン屋のショーウィンドウなんかを、見るともなく見ているより仕方ない。
「おまたせ! 乗り場は、1番ホームだよ」
そう言って戻ってきた那由は、二枚の切符を持ったまま、先に立って歩き出した。
那由は教えてはくれないが、1番ホームと聞いた時点で、実は、僕には行き先の見当が付いている。これは、那由の家に向かう電車なのだ。
今日は春物の衣服でも少し汗ばむほどの気温だが、那由の指示で、それぞれ携帯用のダウンジャケットを一枚、リュックに詰めてある。履いている靴もスニーカーだ。このことも、僕の推理を裏付けている。食いしん坊の那由にしては珍しく、昼食の用意を気にしていない事からもわかる。
那由の家は、「駅前」にある。ただ、その駅は、普通電車が二時間に一本も来ないような、山奥の村に建てられた無人駅だ。その村は、昔は本州一のミニ村として有名だったが、今は隣村に合併されている。
電車は定刻どおり、8時11分に豊橋駅のホームを離れた。すべての駅に止まる普通列車だから、那由の村に着くのは二時間ほど後だ。誰かの家の庭木すれすれを通り過ぎながら、電車は走っていく。
「さあ、何しよう。たくさん持ってきたよ」
那由は、例の猫柄リュックに手を入れると、次から次に箱を取り出した。トランプ、携帯用オセロ、知恵の輪、花札、……そのほかエトセトラ。
「こんなに持ってきたの? 重たかったろ」
「だって、何がやりたくなるか分かんないじゃない」
そういいながら那由は、チェス盤と駒の箱を取り出した。「チェス、できるの?」
「ううん、できない。晴ちゃんは?」
「僕だってできないよ」
何で持ってきたんだろう。
「晴ちゃんができるなら、教えてもらおうと思ったのに。棒倒しみたいにさ」
棒倒しとチェスでは、ルールの複雑さが全然違うと思うけど。
「まあ、そのうち二人で覚えたらいいね」那由は笑っている。
「今日は、あの『シャトル』とかいうヤツ、持ってこなかったのか?」
僕は那由に聞いてみた。那由の最近のお気に入りは、「タティングレース」とかいうレース編みらしい。いつもは、参考書を開く僕の横で、那由は、そのタティングレースに使う「シャトル」という糸巻きを朝な夕なカチカチ言わして、指先ほどの花模様なんか作っている。でも、今日は家に置いてきたと那由は言った。
「今日は晴ちゃんとお出かけだからね、晴ちゃんと遊びたいの」
まあ、そう言われれば悪い気はしない。
そうこうしているうちに、底の方からポケット将棋が出てきた。
「将棋かあ、久しぶりだな」
実は将棋は、僕たちにとって思い出深いゲームだ。
「那由、あれから強くなった?」
「うーん、よく分かんない。私、晴ちゃん以外とは、対戦したことないから」
「じゃあ、やってみますか。昔みたいに」
「『女の子に負けた~』って、泣かないでよ」
ぐ、過去の汚点を。
「そっちこそ、負けそうになったからって、盤面ぐしゃぐしゃにするなよな」
「あー、それは言わないで!」
口で前哨戦をしながら、僕たちはマグネットの小さな駒を並べ始めた。
那由と初めて会った次の日、母さんは、僕を那由の家に置き去りにして、当時住んでいたアパートに帰っていった。
「夏休みの終わりには迎えに来るから」ということだったが、物心ついてからずっと鍵っ子だった僕は、常に誰かが家の中にいるという状況に急に放り出され、戸惑った。
伯父さんと伯母さんは、元からの家族のように、那由とも双子のきょうだいのように分け隔てなく接してくれた。でも、自分のペースやリズムを他人と合わせるのがとても苦痛な僕は、常に緊張顔の可愛げのない子供だったと思う。
しかし、那由の存在が、僕と田舎暮らしとの橋渡しをしてくれた。
あれは、母さんに置いて行かれてから三日目くらいだったろうか。
僕たちが訪れた時には帰省していた兄ちゃん達も、お盆を待たずに県外の大学に帰ってしまった。なかなかうち解けられない僕に気を遣ったのか、「部屋の中のものなら、自由に遊んでいいよ」と言い残して。
静かになった家の中、僕は縁側の隅で、兄ちゃん達の部屋の本棚から見つけた、古い漫画本を読んでいた。
ふと目を上げると、いつの間にか那由が縁側に腰掛けていた。何故か真剣な顔で両手の人差し指を一直線になるように合わせ、その指先を見つめている。
「……何してるの?」
余りに意味不明な姿に、おそるおそる僕が声をかけると、那由が答えた。
「ソーセージ、作ってるの」
……ソーセージ? ますます何のことだか分からなかったが、退屈だった僕は、何とはなしに那由の真似をして指を合わせてみた。
「もう少し、眼に近づけた方が良いよ」
那由に言われてその通りにすると、驚いたことにピンぼけの指と指の間に、ちょうどソーセージのように三本目の指が見えるではないか。
「うわ! なんだこれ!」
思わず声を上げると、
「見えた?」「うん、見えた!」
僕がうなずくと、那由はぱっと目を輝かせ、「一緒にやってみてくれたの、晴ちゃんが初めて」と、にっこり微笑んだ。那由の笑顔を見たのは、この時が初めてだ。そして那由は再び「ソーセージ作り」に没頭し始めた。
今にして思えば、左右の視界のずれから来るただの錯覚なのだが……。ともかくそれ以来、那由は何かを見つけると、僕に教えてくれるようになった。僕が本を読んでいれば那由も黙って近くで本を読んだり、ごろごろ昼寝したりしていたし、夜、僕が急に寂しくなったりした時は一晩中話し相手にもなってくれたりもした。
そんな那由に一番驚いていたのは、伯母さん、つまり那由の母さんだ。「那由が、同年代の子に興味を示すなんて初めてだわ」と、本当にびっくりした様子だった。
それまでの那由は、学校ではおろか家でも、自分から口をきくと言うことがほとんど無かったようだ。当然友だちができる訳もなく、ほとんど家の中で一人遊びをしている子供だったらしい。まあ、その点では、僕も似たようなものだが。
将棋も、そうやって部屋でごろごろしていた頃に、二人で覚えた。例によって兄ちゃん達の本棚から、那由が子供向けの将棋入門を見つけたのだ。同じく部屋の隅で、兄ちゃん達の古いノートや工作など、諸々のがらくたに埋もれていた将棋盤や駒も見つけた。僕たちは文字通り頭を寄せ合って、将棋のルールを覚えたのだった。
それ以来だから……ほぼ四年ぶりだろうか。
駒を並べ終わると、那由は「お願いします!」と頭を下げた。将棋入門の冒頭に、「対戦相手には礼を尽くすこと」と書いてあったことを思い出す。僕も同じように礼を返した。
始めてみれば、お互い何とか駒の動きを覚えている程度のヘボ将棋だったが、それでもつい夢中になってしまう。
那由が次の一手を真剣に考えている。眉間にしわを寄せて小さな将棋盤をのぞき込む姿に、小学生だった頃の那由がダブって、思わず笑ってしまった。
異変に気付いたのは、五回目の対戦中だった。
そこまでは僕の二勝二敗。最初の二回は続けて勝てたが、その後は那由が連勝した。
「じゃあ、次で決戦ね!」
「望むところだ!」
「よーし、がんばりますよぉ」
何だか気の抜けた那由の言葉で始まった対局は、出だしとは裏腹に緊張した雰囲気が漂っていた。
那由が、格段に時間を掛けるようになったのだ。どうやら自分が次に打つ手だけでなく、それに対する僕の手まで考えているようだ。更に三手、もしかしたら五手、七手先まで考えているかも知れない。それも、自分が想定したありとあらゆる手について。待たされる一方の僕はイラついて、つい早打ちになってしまう。そうして、じわじわ劣勢に追い込まれていた。
街はとっくに通り過ぎて、電車は山の中を走っていた。十幾つ目かの小さな駅に止まり、ドアが開き、閉まり、そしてまた動き出した。その時だ。今まさに離れようとしているホームが、那由の家の最寄り駅だったことに気が付いたのは。
まだ新しい駅舎が窓の外を通り過ぎ、電車はトンネルに入っていく。
「那由、乗り過ごしたぞ!」
僕は慌てて、大声を上げた。ところが、那由は目も上げずに、相変わらず盤面を見つめ、集中している。
「那由、那由ってば!」
仕方なしに肩を揺さぶると、ようやく那由は僕を見た。不機嫌そうだ。
「今、考え中なんだけど」
「それどころじゃないよ、乗り過ごしてるって!」
那由はリュックのポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、
「だいじょうぶ、まだまだかかるよ」と言ってまた盤面に目を落とした。そんな馬鹿な。
「だって、那由の家だろ、駅はとうに過ぎてるぞ」
那由は、歩をひとつ進めてから爪先ではがし、裏返して「と金」としてから置き直すと、「ふーっ」とため息をついた。
「え、晴ちゃん、何か言った?」
「だから、乗り過ごしたって! 今日は那由の家に行くんだろ?」
「違うよ」
那由は、あっさり言った。その言葉に、不安が沸き上がる。
「行き先、教えてくれないか?」
「えー……」
「行き先を教えてくれないなら、もう続きはやらない」
僕の宣言に、那由は目を丸くする。
「そんなあ……」
那由は絶句してうなだれるが、僕はなかなか不安をコントロールすることができない。
「サプライズにしたかったんだけどな」
「予想が外れて、もう十分サプライズだよ。知ってるだろ。僕、先の見通しが立たない状態って、すごく苦手なんだ」
「だから、内緒にしてたのに。私と一緒なんだから大丈夫だってば」
『だから』って、何だよ。何が大丈夫なんだ。
確かに海に行った時は、「気の向くままに」なんてサイクリングをしたけれど、それは道程がだいたい前もって分かっていたからだ。でも、今回は違う。遠く長野県までつながってる電車に、たかが同い年のいとこと二人だけで残されて、何が大丈夫だ。
僕がこんなにイライラしているのに、那由は取り合ってくれないなんて。平気な顔をしている那由に、更に苛立つ。
……でも、よく考えれば、確かに「大丈夫」なんだよな。猛獣がひそむジャングルという訳でもなし。
「教えたら、この局の最後までつきあってくれる?」
「……もちろん」
少し落ち着いてきた僕に気がついているのかいないのか、那由はこちらに向き直った。
「分かった。教える。おじいちゃん、おばあちゃんとこ」
「おじいちゃん、おばあちゃん?」
「そうだよ、覚えてる?」
那由の祖父母……つまり僕にとっても祖父母だが、もうとっくに亡くなっているはずだけど。首をひねる僕に、那由は呆れたようだ。
「何だ、覚えてないなら、言っても言わなくても一緒だったじゃない。次、晴ちゃんの番だよ」
そう言われると、何も言えない。僕は、諦めて将棋の続きをすることにした。
結局、僕の負けでその局は終わった。
「よーし、勝ち越し!」那由は嬉しそうだ。……と思ったら急に顔色を変えて、
「晴ちゃん、いま何時!?」
と聞いてきた。
「えっと、十一時をちょっと過ぎたところ」
「ほんと? ああ、良かった!」
「時間、見てなかったのか? そっちしか予定を知らないんだから、もう少しちゃんと」してくれよ、と文句を言う暇もなく、
「ほら、そろそろ降りるよ」と、那由は急いで将棋セットを片付け始めた。相変わらずマイペースな那由にそれ以上何か言うのを諦めて、僕も網棚からリュックをおろす。
「次は白神駅、白神駅、お降りの方は……」車内アナウンスが聞こえた。慌てて席を離れると、窓から天竜川が見えた。新緑の緑を映し、止まったように穏やかな水面に一瞬目を奪われると、
「晴ちゃん、何してるの、早く早く!」
と、那由が急かした。誰のおかげでこんなに忙しいと思っているのか。苦笑しながら荷物を背負いなおす。
僕たちが車両のドアの前に立った時、電車は小さな駅に滑り込んだ。
山の斜面にへばりつくような駅には、ベンチと、それを囲むフェンスと屋根があるきりだ。駅舎すらないその無人駅、白神駅のホームに、老人が一人たたずんでいた。
「おじいちゃん!」
ドアが開くなり、那由は僕の手を引っ張って駆け出した。
「久しぶり! 元気だった? おばあちゃんも元気?」
「元気だよ。那由も、この前会った時より元気そうだな」
思い出した。白神のおじいさんだ。この駅には小学生だった頃の夏、那由と一緒に、伯父さんに連れられて一度遊びに来たことがあったっけ。僕とは血のつながりはないが、那由にとっては、父方の祖父になる。伯父さんは婿養子だから、那由と名字も違う訳だ。
「四時の電車で帰らなきゃいけないの。今日は二人だけの遠足」
「そうか、そうか」
おじいさんは、ニコニコしている。
「昼ご飯用意してあるから、それ食べて帰ればいい。家でおばあちゃんが待ってる」
そう言って、おじいさんは歩き出した。那由はおじいさんの横に並び、僕は後からついて行く形になった。
ホームから続く階段を登り、突き当たりを右に曲がった。
一応舗装してあるとはいえ、アスファルトはひび割れて路肩が崩れかけている。下は崖だ。この間、あれだけ苦戦した海沿いの自転車道の方が、ずっと立派に思える。
しかも、その道はすぐに山道に変わった。細いくねくねと曲がる道が、苔と落ち葉に覆われている。
そうだった。おじいさんの家に行くには、この道しかなかったのだ。直接通じている道路がないので、自動車では行くことができない。駅で降りて歩くしかないのだと、五年前に那由が言っていた。
そのまま二十分ほど歩いたろうか。先の見えない、アップダウンの激しい道にくじけそうになった頃、視界が開けた。天竜川に出たのだ。川には吊り橋が掛かっているが、かなり古びている。
無言のまま歩く二人のスピードはゆっくりだが、止まる気配もない。仕方なしに、僕はついて行く。鉄骨でできてはいるが、広くもない足場のはるか下は水の流れだ。それだけでも目がくらみそうなのに、橋が微妙に揺れているのだ。恐ろしくて、足元なんか見ていられない。
「吊り橋を渡る時は、前を見て歩くのが良いんだよ」
以前来たときに、おじさんがアドバイスしてくれた言葉を思い出した。あの時も、スタスタと歩く那由とは逆に、僕は及び腰だったんだっけ。こんな所も、僕は成長していないようで、何だか悔しい。
目をあげると、相変わらず那由とおじいさんが歩いていく。那由は笑ったり、考え込んだり。おじいさんは、ずっと笑顔だ。
僕は気付いた。那由とおじいさんは、一言も言葉を使わずに、ずっとしゃべり続けているのだ。
『那由、新しい学校は面白いか』『面白いよ、晴ちゃんがいるから』会話が完全に成立しているのが分かった。そして、話の内容はほとんど僕に関する事だと言うことも。ひそかに感じていた疎外感が、ちょっとずつほぐれていく。
橋を渡りきり、少しまた山道を歩くと一件の家が見えてきた。廃屋らしく、閉め切られた雨戸は黒く変色して、庭は荒れ放題だ。昔は林業で栄えていたらしいこの集落も、今ではいわゆる「限界集落」というやつになっている。
いくつかの廃屋の横を通り、丸く刈り込まれた茶畑を抜けていくと、今度は見覚えのある家が見えてきた。周りは小さい畑になっていて、耕された土には長ネギや大根が植わっている。
おばあさんが、家の前に立っていた。那由は駆け出していって飛びついた。
「今日は、晴ちゃん連れてきたよ」
「あら、お婿さんと一緒かね」
お婿さん? ドキッとする僕に、那由はキッと振り向いて『話を合わせて!』とアイコンタクトしてきた。
「那由がお嫁に行って、ちょうど一ヶ月になるかね。ちゃんと、晴宏くんを大事にしているかい? ふたりで暮らすには譲り合いが大事なんだから、那由もね……」
おばあさんは、嫁としての心得を懇々と話し始めた。
「婆さん、話は中で、飯を食いながらゆっくりとな」
おじいさんは、おばあさんの小さな肩を優しく抱くようにして、家に連れて入った。後には僕と那由が残された。
「おばあちゃん、ちょっと痴呆が入ってきたの。私が晴ちゃんの中学へ転校して、晴ちゃんの家で暮らすんだよって話をしたら、完全に嫁入りと思って大喜びしちゃったから……そのままにしてるの」
「そういうことか」
「びっくりさせてゴメンね」
「気にしなくていいよ……悪い気はしていないから」
例によってセリフの後半は、那由に聞こえないほどの声でしか話せなかったが。
土間を上がると、那由とおばあさんは居間に、おじいさんは台所に向かった。家事はすべておじいさんがしているようだ。僕も、荷物を居間に置いてから、おじいさんを手伝うために台所に移動した。
台所は古びてはいるが、清潔に片付いている。物は多いが、全部があるべき場所に収まっているという感じだ。お昼ご飯は大根の漬け物、山菜の煮物、具だくさんの味噌汁。それから信州名物、明らかに何かの虫だと思われる佃煮。
もうお皿は用意してあったので、ひと言断って鍋から盛りつけていく。
障子を開け放って、台所と続き部屋になっている居間から、那由とおばあさんのガールズトークが聞こえてくる。「私がこの家にお嫁に来たのも、那由と同じ年頃だったよ。といっても、隣の家から来たんだけどね」
もしかして、さっきの廃屋だろうか。
「小さい時から、じいちゃんとは大の仲良しでね。じいちゃんは近所の悪ガキに、私のせいでよくからかわれていたんだよ」
「へー、おじいちゃん、嫌がらなかった?」
「それがね、じいちゃんは……」
那由にしてみれば何遍も聞いている話だろうに、初めて聞く話のように熱心に相づちを打っていた。
にぎやかな居間に比べ、この台所は静かだ。僕としても、元々コミュニケーションが得意な方ではないので、黙って菜箸を動かしている方が気が楽だ。
那由とおばあさんは、居間のコタツに並んで座っている。「よく、似とるだろ」
おじいさんが、味噌汁をお椀につぎながら僕に話しかけてきた。虚を突かれた僕は、
「え? あ……はい」
と間抜けな返答になってしまった。
確かに、那由とおばあさんが二人並んだ姿は、とても似ている。小柄な体格とか、くりっとした目とか。
「赤ん坊の頃から、よく似とったよ。……今の那由は、ちょうど嫁に貰った頃の婆さんと瓜二つだ」
「そうなんですか」
元気だった頃の思い出が蘇ってしまって、今のおばあさんを見ているのが辛いんじゃないだろうか。そうチラリと思ってしまった僕の心を見透かすように、おじいさんは言った。
「ボケとるように見えるが、昔から話がかみ合わんことも多かったし、別に気にならんさ」
そしておじいさんは、僕の盛りつけた煮物の皿を居間に持って行った。僕はその背中を見ながら、こっそりと非礼を恥じた。
コタツの上に昼食を並べ、僕とおじいさんが座布団に座った所で、「いただきます!」と、那由はいつものように手を合わせて大声を出した。
おじいさんは黙ってうなずき、おばあさんはニコニコしゃべっている。那由はおじいさんに目で語りかけ、おばあさんの聞き役をしている。僕は、よく分からない虫の佃煮と格闘している。端から見れば、不思議な光景かも知れない。
おばあさんが言った。
「私たちも、一度だけ街に住んだことがあるんだよ。でも、一年ちょっとで、山に帰ってきてしまったの」
「どうして?」
「じいちゃんとね、一日中バラバラに働くことが、どうしても耐えられなくてね。じいちゃんに『山に帰りたい』って頼んだら、その日のうちに会社を辞めてきてくれて」
「へえ」
「身の回りの物だけカバンに詰めて、持てない物は全部売って、電車に乗って帰ってきたんだよ」
「そうなんだ」
……すごい行動力だな、おじいさん。
「でも、私がじいちゃんにお願いをしたのは、その時だけだよ。あとはずーっと、じいちゃんのわがまま、聞き続けてきたからね」
おじいさんが、口を開いた。
「わしらは生まれてから六十年以上、ここで生きてきたんだ。他のところで生きていくことはできんよ」
「那由が今住んでいる街が、わたしたちの山と同じになればいいね」
「大丈夫だよ。晴ちゃんがいるから、ちゃんとやっていける。心配しないで」
「……ああ、那由の言うとおりだねぇ。晴宏さん、那由をよろしくね」
そう言っておばあさんは、こっちを向いて深々と頭を下げた。
食事が終わると、おばあさんは疲れたのか、座ったままで居眠りを始めた。那由も、おばあさんと同じように背中を丸め、そのまま黙って座っている。
おじいさんが食器を片付け始めたので、僕も手伝おうと慌てて腰を浮かした。ところがおじいさんは一言、「ありがとう、だが一人で大丈夫だ」と僕を制し、一人で食器を台所に持って行ってしまった。仕方なく僕はコタツに座り直した。
おしゃべりな那由が、今は一言もしゃべらない。おばあさんの寝息と、台所からおじいさんが食器を洗う音、そして古い柱時計の振り子の音だけが聞こえる。
時間が、いつもよりゆっくりと流れているのを感じる。電車の中から見た天竜川のように。
洗い物が終わったおじいさんが戻ってきて、黙ったままゴロリと横になった。この家の人が二人とも寝てしまい、僕は何となく居場所がない。
でも、考えてみれば、これがこの老夫婦のいつもの過ごし方なのだろう。目の前の那由が、この家の座敷童のようだ。
そうすると、僕は何だろうか。掃き出し窓の外を見ると、モンシロチョウが二匹くるくるとじゃれ合うように飛んでいった。
「ボーン、ボーン、ボーン、……」
柱時計が三回鳴った音に、意識が戻った。気付かないうちに僕も、うとうとしてしまったらしい。
同時におじいさんもむくっと起き出して、まだ寝ているおばあさんの肩にそっと半纏を掛けた。那由はそのおじいさんと呼吸を合わせるように立ち上がり、持ってきたリュックを肩に掛けた。僕も慌ててそれに倣う。
那由は、おばあさんの横顔を数秒見つめてから、ふすまを開けておじいさんと一緒に居間を出て行った。
あの落ち着きのない那由が、随分長いことじっとしていたんだな。ずっと起きていたのだろうか……。そんなことを考えていたら、おじいさんと那由はもう土間から外に出てしまっていた。二人を追いかけ、僕も靴を履いた。
来た道を戻る。行きと同じように、無言のままだ。
駅のホームに降りる階段の手前で、おじいさんは足を止めた。僕らも立ち止まる。
「また来るね、手紙も書くね」
那由はおじいさんに声を掛けた。おじいさんは、優しく那由の頭をなでた。そして、僕の肩に手を掛けた。
そのままおじいさんは僕をじっと見つめた。何かを言いたそうだったが、結局おじいさんは何も言わず、無言でまた、いま来た道を戻っていった。
「元気でね!」
那由は遠ざかる背中に声を掛けると、「行こう」と僕の手を引っ張った。
駅の待合室には、と言ってもフェンスに囲まれたベンチが一つあるきりだが、いわゆる「駅ノート」が置かれていた。この駅はいわゆる『秘境駅』として鉄道ファンの間では有名らしい。電車が来るまでの時間つぶしでそれをパラパラとめくっていると、那由がのぞき込んできた。
「何、読んでるの」
「駅ノート」
相変わらずの近距離に動揺しながらも、僕は答える。
「ふーん……、あんまり好きじゃないな、こういうの」
「え、そうなのか」
「なんていうか、『誰もいない秘境に来た俺ってスゴイ!』ってことばかり書いてあるし。ここに来た人に伝えたい言葉って感じがしない」
「そうかなぁ……」
考えすぎじゃないだろうか。めくったページには、「静かさに癒される」「リフレッシュできました」なんて文字が見える。
「ここで普通に生活してるのなんておかしいって、言われてるみたいだから」
「うーん、確かに、おじいさんやおばあさんは、今の時代には少数派かも」
僕は言葉を選んで言ったつもりだったが、「少数派って、いけない事?」と、珍しく那由が強い言葉で言い返してきた。
「いや、いけないとはいってないけど」
「けど、なんなの」
那由は質問を重ねてきた。僕は、少し考えてから言った。
「少数派だと、色々やっかいな事はある。実際僕らは、学校ではお互い以外に友だちがいない少数派だ。だから今、ここに来ている」
「みんなと一緒に遠足に行きたかった? 私は、遠足よりここに来たかった」
「それは、僕も同じ気持ちだよ。でも」
「でも?」
「学校をさぼった事は全然後悔していないけど、さぼらなきゃいけない状況に追い込まれたことが不利というか……あー、うまく言えない」
僕は、ノートを脇に置いて座り直した。
「今日、僕たちはおじいさんとおばあさんに会いに来た。それは、とても大切な時間だった。でも、周りの連中からは二人で学校をさぼったって思われる」
「いいじゃない、別に。どんな風に思われたって、少なくとも私たちにとっては、さぼった訳じゃないし。それじゃ、だめなの?」
那由は、一呼吸置いて続けた。「私は、今の学校で、晴ちゃん以外に友だちは全然必要だと思ってないし」
「放っておいてくれないかな」
「えっ、それって……」那由が急に涙目になったので、僕は主語をとばしていたことに気がついた。
「あ、違うよ。クラスの連中にも先生にも、できれば放っておいて欲しいけれど、そうはいかないんだ、ってこと」
「そういうことか」 那由は、ほっとしたような顔を見せた。
「私みたいに、気にしない事だよ」
それができれば、こんな病気にならなかったんだけど、とは、さすがに言えなかった。
電車が来た。また、三時間近くの長旅だ。
乗り込んだ時は、行きと同じようにガラガラだった車両にも、天竜川を離れるに従って少しずつ他の乗客が増えていく。帰りも那由の主張で将棋を指してみたが、周りの人の目が気になって、なかなか集中できない。
集中を欠いたままの僕が二連敗すると、「晴ちゃん、もっとまじめにやってよ」那由に怒られた。
「ごめん、ちょっと続けるの、しんどいや。悪いけど、寝かしてもらいたい……いいかな」
「あ、そう? どうぞ、私の事は気にしないで」
そう言って、那由はリュックから知恵の輪を取り出し、カチャカチャと音を立てていじり始めた。時々、「ん?」「あれ?」「あ、こうかな?」なんて声がする。
寝ようとする僕の事も、少しは気にしてくれないかな……。そう思いながら、僕は少しずつ眠りに落ちた。
夢を見た。小さい頃の夢だった。
僕と那由は、那由の田舎にある土手の道を歩いていた。川の流れていった先に何があるのか、二人で確かめに行こう。そう思って下流に向かっていた。
気がつくと、那由がいない。確かにさっきまで一緒にいたはずなのに。僕は焦った。歩いていたのは僕だけだったのか?川を渡ってきた風が強く吹き付ける。
那由に起こされたのは、午後七時近く。もうすぐ豊橋に着く、というタイミングだった。いつの間にか、車内は随分と混んでいる。こんな中で眠ってたのかと思うと、かなり恥ずかしい。
「晴ちゃん、よく眠れた?」
「……うん、まあまあ」
那由は、いつもの通りニコニコとしている。まあ、那由がいいなら、いいか。
豊橋駅で降りるなり、那由のコールが始まった。
「お腹空いた! お腹空いた!」
「じゃあ、何か買って帰ろうか?」
豊橋の駅ビルには、いろいろ総菜も売っている。
「いやいや、晴ちゃんのご飯が食べたい! 家で手早く作れるもの、探して!」
「うーん……」
那由の無茶ぶりに応え、冷蔵庫の中の物を頭の中でリストアップしていく。手早くできて、栄養もあって……とはいえ、昼ご飯がああいう内容だったので、ついつい口がこってりした物を要求してくる。
「豚丼で良い?」
「最高です!」
新豊橋駅で豊鉄に乗り換えれば、ほんの数分で僕たちの家の最寄り駅に着く。そこから僕たちの家はすぐだ。
「玄関、まだ電気付いてないね」
那由が言う。母さんの帰りは、今日も遅くなるらしい。
冷凍ご飯をレンジで温めている間に、醤油、みりん、酒とハチミツを合わせてフライパンで煮詰める。茹でて冷蔵してあったほうれん草をさっと湯通ししてからゴマと海苔であえて、あとはキュウリの漬け物と、非常用に買って置いたインスタント味噌汁に三つ葉を刻んで入れようかな。丼の上には新玉ねぎの薄切りをのせよう。
僕が夕飯の準備をしている間、例によって那由は後ろでうろうろしている。
「……えっと、那由、はし並べて?」
「はいはい!」
「それと、どんぶりと、小鉢を二種類、汁椀、それぞれ二つずつ出してくれる?」
「ちょっと待ってよ、えー、どんぶりと、小鉢が……いくつだ?」指折り確認なんかしている。
あんなに勉強はできるのに、僕の指示が覚えられないのがいかにも那由らしい。妙な感心をしながら、フライパンに豚肉を入れて火を通す。
「いただきます!」
できたての豚丼を挟み、僕らはテーブルに向かい合わせになって手を合わせた。那由は相変わらずふーふーふーと三回息を吹きかけながら、無心に夕食を頬張っている。そんな那由を見ていると、遠出で疲れた後に夕食を作らされても、そんな事はすべて許せるような気になってくる。
「どうしたの?」
こちらの視線に気付かれてしまった。ちょっと焦る。
「晴ちゃんもボンヤリしてないで食べなよ。おいしいよ?」
「そりゃそうだよ、僕が作ったんだもの」
「おお、言うねぇ! でもホント、ありがとね」
そう言って、那由はいつもの花のような笑顔を見せた。前言撤回。「許せるような気になる」じゃない。もう、全部許す。
片付けを終えると、那由は、「今日は、日記、色々書きたいから」と言って早々に部屋に引っ込んでしまった。僕も、勉強しなくちゃ。
四月二十二日(水)
はいどうも。(←漫才か、とツッコミを入れてくれると、嬉しい) そんなわけで、本日のミステリーツアー遠足、行き先はおじいちゃんおばあちゃんちでした! ほんとは、着くまで内緒にしときたかったのに、晴ちゃんてば、せっかちなんだから。
やっぱり、行き先を知らないでも大丈夫! 学校なんてさぼったって大丈夫! 誰に何を言われようと平気! っくらいのドンとした気持ち、どうかね、持ったら何かと有利じゃないかね? そう私は晴ちゃんに言いたい。
おじいちゃんもおばあちゃんも、元気で良かったよ。安心した。「おムコさん」だなんて、驚かしちゃってゴメンね。うん、そこはゴメン。いままでにも何べんか、違うよ、とは言ったんだけどね、でも、おばあちゃんがあんまり嬉しそうなんで、もっと元気になって欲しくてさ。ついつい。
おじいちゃんがおばあちゃんを街から連れて帰った話、あれは何度聞いても感動ものだね。私も晴ちゃんと違って田舎育ちだから、気持ち分かるわー。
うん、もしか、万が一、いや億が一、私が結婚でもする事になったのなら、お相手にあれぐらい大切にされたら嬉しいだろうな。
また将棋やろうねー。では、本日はここまでにて、失礼。
「私が結婚でもする事になったのなら、」
うわ、なんだか照れくさい!
いつか、そんな日が来るだろうか。でも、「億が一」かあ。前途は多難だなあ。
(続く)
次の話はこちらです。
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