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同じ方向で向き合う

長い間ずっと、それなりの量の文章を書いてきた。

最初に小説と言えるようなものを書いたのは小学校3年生の頃で、当時大好きだった工藤直子の「ともだちは海のにおい」と宮沢賢治の影響を多分に受けた内容だったと記憶している。
中学生くらいからお芝居を観ることにハマり、高校に入って、演劇部と文芸部を掛け持ちし、1年で演劇部を退部して外部の劇団に入った。そのうち、友人の誘いで映画も撮るようになり、映像と舞台、両方の脚本を書くようになった。

こうして、私は、小説と脚本の間を行ったり来たりして、今に至る。

どちらが好きかと問われれば、小説だが、どちらが得意かと訊かれるなら、多分、脚本だと思う。

先日、軽い気持ちで書いた小説を、脚本にする機会があった。
普段、脚本は脚本として、小説は小説として書くから、こんなことは初めてだ。
今回の脚本として想定したのは、舞台ではなくてラジオドラマのような映像作品。
これもひとつの文体練習だと思う。
文章と読者で完結する小説と違って、脚本は、役者が演じて、その空気や音を含めて、見るものが受け取って初めて完成するものだと思っている。
それを読むのは読者ではなく役者だ。そして、その役者がそこからどういう感情を作るのか、観客がどう感じるのか、作家の手が離れてから見るものが受け取るまでの工程が、複数人の解釈を通るのだ。
小説で想定するものがきちんと生きてくれる脚本にするのは、きっと難しい。(多分、脚本を小説に起こす方が容易なのではないかと思う。)

同じ内容のものに同じ方向で向き合うのは難しい。
この続きを脚本から書くのか、先の部分と同じように小説から書くのか、私はまだ、決めていない。



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