富士山

富士の嶺に登りてみれば天地はまだいくほどもわかれざりけり

この歌は江戸時代前期の文学者で歌人、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)の作で、「富士の山をよみける歌三十六首」の一首目に置かれた歌。

富士山に登ってみれば、ようやく夜明けを迎えつつあるが、まだ天と地の境もおぼろである。

これは日本書紀の書き出し、「いにしへ天地のいまだわかれず、陰陽のわかれざりしとき、渾沌(まろか)れたること云々」を援用したことがわかる。

類相歌や類似歌はうんざりするほどあるだろうが、富士に似合う雄大な叙景である。

長流、少々変わり者で、友人といえば年少の契沖のみ。

二人の関係は省略する(数回前辺りで触れた)が、古典文学に造詣の深かった長流は、後の賀茂真淵や本居宣長など、国文学者に多大な影響を与えた。

黄門様、徳川光圀も長流を知るところとなり、これほどの者はぜひ召し抱えたいと招へいを試みたが、長流は光圀を袖にした。

変わり者たる所以である。
そのせいかどうか、長流は生涯独身だった。

振られた体の光圀だが、黄門様も諦め切れなかった。

五十人扶持を保障し、編纂中の万葉集注釈の役目を与えた。
ところが長流、ずぼらなのか真剣に取り組み過ぎたのか、作業は一向に捗らない。

そのうちに長流は病死してしまった。
およそ六十年の人生である。

万葉集注釈の作業を引き継いだのは、唯一の親友、契沖だった。

やがて完成したのが、万葉集全注釈書の「万葉代匠記」であり、「富士の山をよみける歌三十六首」を含む歌集、「晩花和歌集」を世に出したのも契沖である。

富士の嶺にまだき朝日の見えそめて後(のち)ぞあづまは鳥が鳴きける

長流はご来光を前に、立て続けに何首も読んでいる。


太平洋戦争中、愛国百人一首なるものが編まれた。
一首目の歌も百首の中に収められたから、年配の方はご存知だろう。

人麻呂、旅人、憶良、赤人、家持、西行、俊成、定家、実朝…。
徳川幕藩体制の庇護の中にいた長流も、まさか自分の歌が、後世に官軍方の延長勢力に軍事利用されるとは考えもしなかったはず。

世の中に「絶対」などというものは存在しない…。

今日は富士山の初冠雪が記録されたようですね。
右往左往する人間をよそに、季節は確かな足取りで進みます。

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