机上の迷論


日本書紀の推古天皇三十四年(626)夏五月の条に以下の記述がある。

夏五月の戊子の朔丁未(五月二十日)に、大臣薨せぬ
仍りて桃原墓に葬る
大臣は稻目宿禰の子なり
性、武略有りて、亦辨才有り
以て三寶を恭み敬ひて、飛鳥河の傍に家せり
乃ち庭の中に小なる池を開れり
仍りて小なる嶋を池の中に興く
故、時の人、嶋大臣と曰ふ


嶋の大臣(おおおみ)、蘇我馬子の邸宅(嶋庄遺跡)完成と併せて、墳墓完成の記述である。

傍証のみで確実なことは言えないが、邸宅跡地とされる場所から石舞台古墳が見える。

二年後には、

蘇我氏の諸族等、悉く集ひて、嶋大臣の為に墓を造りて、墓所に掘れり

と、舒明天皇即位前紀にあるので、生前の寿墓なのか、それとも馬子の死後に造られたものなのかわからないが、前紀を信じるのであれば、二年間の殯(もがり)期間があったとも解釈できる。

いずれにせよ、地位も名声も財産もあり、人は必ず死ぬものと了解していれば、やはり寿墓を造っておくべきではないだろうか。
いわゆる終活である。

石舞台の巨大さにはいつも感嘆する。
だが時の最高権力者の墓だとして、この大きさは適正なのだろうかとも思う。

30余りの巨石を積み上げ、総重量は2,300トンともいわれているが、一辺50メートルを超える方形基壇としても、それ以上に巨大な古墳も同時代には存在し、石組みも丁寧に仕上がっているからこそ、懐疑的になる。

要するに、権力者の墓にしては巨岩の切石加工や組み上げ技術が稚拙ではないかとの疑問が湧くのだ。
農地用にと村民に封土をはぎ取られ、羨道を覆っていた数個の巨石も失われている。

被葬者に対して若干の悪意も感じられるのは、やはり蘇我氏系の墳墓と、当時から認識されていたからか。
失われた数個の巨石は、高取城築城の際に、付近の古墳の墳石とともに運び出されたとの推測もある。

封土は雨風などによって流失してしまったわけではない。
盗掘されたとしても(実際に盗掘は何度も行われている)封土まではぎ取るには、そこに強固な意思や憎悪が存在したからと考えるしかない。


2014年11月に河原寺跡の西側、奈良県立明日香養護学校敷地内の小山田遺跡から、石敷き遺構発見のビッグニュースが報じられた。
中大兄(葛城皇子)の父親の舒明天皇を葬った、飛鳥時代最大級の古墳の一部の可能性があると書かれていた。

墳丘の一辺は70メートルで、石舞台古墳の長さを超える方墳とのこと。
乙巳の変で滅びた蝦夷の墓とする見方もあるが、毎度のことながら、もし舒明の王墓なら、宮内庁が舒明天皇陵として管理している桜井市忍坂にある段ノ塚古墳の被葬者は迷子になってしまう。

この小山田遺跡が初葬地という考察が圧倒的だが、それにしては狭い飛鳥の地にあって、以後ずっと広大な土地の再利用もされず、混乱するばかりである。
時代は蘇我氏全盛期だ。

それゆえ、小山田遺跡こそが馬子の墓所で、石舞台古墳は稲目の墓所では、との勝手な推理も可能になる。
もっとも、菖蒲池古墳と併せて、日本書紀にある大陵・小陵とワンセットと考えるべきか。

ならば小山田遺跡の被葬者は蘇我蝦夷、菖蒲池古墳は入鹿、といういことで辻褄が合う。
けれど、推理とも言えない素人の思いつきだから、信じてはなりませぬ。

そもそも石舞台古墳についても、戦前の日本の考古学者で「日本近代考古学の父」と呼ばれ、京都帝大の大学総長を務めた濱田耕作は、次のように語っている。

是は一つの古墳を以って誰人か歴史上の特定の人の墓に擬せんと望する。
所謂歴史家の態度であって、我々古墳を主体として研究せんとするものにとって多少なりとも確証を欠く点があれば、これを以って仮説の一として認める程度を超越することは出来ない。


誠にその通りで、墓誌などの出土が無ければ、どんな名推理とて机上の空論でしかない。

でもね、わかっちゃいるけど、なのです、素人には…。
無知を承知の、稚拙な考察でした。



付記
資料も少なくどのようにも解釈可能の時代なので、当時の改竄や上書きなども考慮しつつ読み解く面白さがあります。
日本の古代史が好きなので、どうしても主観に力が入ります。ヨタ私論と読み棄てて頂ければ幸いです。


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