平安時代のセクハラ


清少納言と仲良しの赤染衛門は貧乳だったらしい。
貧乳が差別用語なら微乳とでも置き換えるべきか。
ペチャパイなどは、もう完全にアウトなのだろう。
だから以後は微乳で統一する。
見せてもらったわけではないが、敬意を払って「美乳」と表記してもいいくらいである。

後拾遺和歌集を読んでいると、次の歌が目に入った。
作者は漢学の文章(もんじょう)博士である大江匡衡が、妻の赤染衛門へ呼びかけたもの。

はかなくも思ひけるかなちもなくて博士の家の乳母せむとは

おいおい、文章博士の家で育児をしようというのに、そんな背中だか正面だかわからないような貧弱な乳(知)で大丈夫かいな。
「ちもなくて」の「ち」は、乳と知を掛けている。
まあ、夫婦間でのことだから、相手さえ了解していれば許されるのだろう。

しかし才媛の赤染衛門も負けてはいない。

さもあらばあれ大和心し賢くばほそぢにつけて荒らすばかりぞ

この場合の大和心は、現代人が思い浮かべるものとは違う。
その本質は大和魂であるのだが、当時、大和魂とは漢才(からざえ)に対比させて生まれた言葉である。

ならば漢才とは何ぞやとの疑問が湧く。
その正体は、漢文などの知識や、それを駆使する能力や才能を指すのであって、男子としての、いわゆる一般教養であった。

それに対し大和魂とは、仮名文字に象徴される和文などの素養を持つ女性特有の文化や心意気のようなものだった。
現在使っている「大和魂」が、いつの間にか変質されて今に至ったことは、ここで述べる必要のないことなので省く。

中国文化が次第に国風化されてきたこの平安期は、赤染衛門、和泉式部、清少納言、紫式部などの女流文学者が多く輩出された、奇蹟といっても過言ではない黄金の時代であった。
次の黄金期は、明治の一葉登場まで待たねばならない。

さて、赤染衛門の返しの意訳である。
はいはい、どうせそうでしょうよ、たとえ「乳」や「知」などの「ぢ」がなくても、私は大和心で立派に子育てしてみせますからね。
「博士」に対応するのが「大和心」であり、その決意表明が頼もしい。
出来た妻である。

この時の子が、大江挙周(おおえのたかちか)である。
挙周が大病を得た時の赤染衛門の対応も、細やかで心が洗われる思いがする。
微乳ながらも立派に息子を育て上げた彼女は、大和撫子の始祖といっても過言ではない。
現代に於いて「良妻賢母」が死語になりつつあるのは、これも男女差別と捉えられるからだ。
当然のこと。

夫である大江匡衡は、赤染衛門の微乳が好きだったことがわかる。
というより、好きになった女性がたまたま微乳だったというべきか。
異性に限らず、いつの世も好みは千差万別。
それで世の中のさまざまなバランスが保たれているのだ。

個人的には胸の大小に関心はないけれど、セクハラ親父にならぬよう、言葉や対人関係には細心の注意を払って生きている(たまには魔が差すこともあったりする)私である。

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