人間の一生を貫く矛盾

2015年9月1日の日記より。


政治が良くなれば暮らしも良くなる、などの幻想は誰でも知っている。
いくら政治や暮らしが良くなっても、人間、結局は老いるのだ。

若い頃に、いずれ現役を離れた時には趣味に生きたいと思っても、読書を楽しもうとすれば視力の衰えに悩み、山歩きで自然に親しもうとすれば膝が痛み、旨い酒を飲もうとすると内臓が悲鳴を上げ、医者がストップを掛ける。

そんなままならない世の中だと気付くのは、すべて老いてからのことである。
こうして老いはすべての予定や計画を裏切るのだ。

早ければ三十代前半、多くの人は四十代、五十代になって、己の肉体の衰えを確かな現実として自覚する。
人間の心身はあまねく一つの着地点へ向かっている。
それは緩やかな変化の過程を経ての結果である。

歩けなくなったり噛めなくなったり聴こえなくなったりするのは、結果へ向けての一本道である。
他人事ではないどころか、生きとし生ける神羅万象すべてに通底する現実だ。

別居している子供と週一回以上会うとか、相談あるいは世話をし合う親しい友人がいるとか、電話で家族や友人などと連絡をとるなどの国別の比較は、なるほどと思って見ることはあっても、調査した内閣府が、それならばこのような施策を行います、といった話は出て来ない。

だから政治が良くなれば云々、というのは幻想なのだ。
我々は実際の現場でそのことを痛切に知っている。

生まれたら例外なく死ぬのが絶対法則ならば、なぜ生まれなければならなかったのか。
宗教は様々な回答を用意しているが、体験者が語ることは絶対にないから回答も多岐に渡り、何を信じれば良いのか混乱する。
必ず訪れる死を考えることは、すなわち未来を考えることでもある。
大事故や大災害などがない限り、人間は必ず独りで生まれ独りで死んで行く。

宗教はその隙をも突いて、だから一日一日を大切に、あるいは懸命に、あるいは祈って生きなさいと説く。
なるほどそうだろうと思いながらも、死に近づくことは、もう懸命に額に汗して働くこともなければ、お金を溜めていざという時に備えることもない、夢のような平穏な仙境だと気付く。

その延長線上で物事を考えれば、死ぬことは怖くなくなるし、近しい甘美な現象であることへまで思い至る。
ある目標を着実に達成するため、自分が将来採るべき行動をあらかじめ約束しておくコミットメントであることと知る訳だ。

宗教家や尊大な人物ではないので、死についていくら語ろうと、所詮メビウスの輪をたどるだけなので、こうして不毛な思考になる。

世代別人生満足度のグラフを見ていると、中高年層の満足度が高いことの意味が理解できる。

長く人間稼業を続けていれば、高望みが叶わないこともわかって来るし、肉体の衰えとの上手い付き合い方、折り合いの付け方もわかって来る。
人生の過不足の塩梅を受け入れたということだ。

死の瞬間にわかることが沢山あるという。
わかっても手遅れではないか。
だから生きているうちに善行を積めなどの言葉も空虚に響く。
孤独と絶望こそ人生の最期に味わうべき境地なのだと聞くと、尚更そう思う。
人間、生まれてから死ぬまで矛盾の連続である。

諦観も挫折もありて老いの秋

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