我がメルクマールだった鶴見俊輔



2015年に鶴見俊輔が逝ってから6年が過ぎた。
93歳だった。
鶴見は歯牙にもかけないだろうが、七回忌である。
2007年には小田実が逝き、2008年には加藤周一が逝った。

鶴見の著書「悼詞」には二人への丁寧で誠実な弔辞が録られてあり、交友の深さを改めて知ることができる。
理路整然と眼光鋭く語る姿には、人を射竦めるほどの鋭い切れ味があった。

共産党員ではなく、しかし選挙では共産党への投票行動を首尾一貫続けた鶴見には、論理ではなく個人的な情緒の部分で付いて行けないことも多々あったし、時折英語で語られる言葉も人を小馬鹿したようでどこか胡散臭く、若干の違和感を持っていた。

しかし自らをインテリとは思わない自然体の語り口には、その違和感をも凌駕する勢いがあった。

歳に不足はないと表現するのは僭越ではあるが、今でも、巨星墜つ、の感慨がある。
また同時に、平和な社会の底が抜けたような寂寥感もある。
政治が迷走し、喘いでいる今、この時期にこその思いも無念である。


私が敬愛する社会学者の上野千鶴子氏が、鶴見の追悼文を書いている。
追悼の達人だった鶴見が、ついに追悼される側になってしまった瞬間だった。

 鶴見さんが、とうとう逝かれた。いつかは、と覚悟していたが、喪失感ははかりしれない。

 地方にいて知的に早熟だった高校生の頃から「思想の科学」の読者だったわたしにとって、鶴見さんは遠くにあって自(おの)ずと光を発する導きの星だった。

 京大に合格して上洛(じょうらく)したとき、会いたいと切望していた鶴見さんを同志社大学の研究室に訪ねた。「鶴見俊輔」と名札のかかった研究室の扉の向こうに、ほんものの鶴見さんがいると思ったら、心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックした。二度、三度。返事はなかった。鶴見さんは不在だったのだ。面会するのにあらかじめアポをとってから行くという智恵(ちえ)さえない、18歳だった。

 あまりの失望感に脱力し、それから10年余り。「思想の科学」の京都読者会である「家の会」に20代後半になってから招かれるまで、鶴見さんに直接会うことがなかった。それほど鶴見さんは、わたしにとって巨大な存在だった。

 「思想の科学」はもはやなく、鶴見さんはもうこの世にいない。いまどきの高校生がかわいそうだ。鶴見さんは、このひとが同時代に生きていてくれてよかった、と心から思えるひとのひとりだった。


小田、加藤、鶴見と、日本は貴重な人物を次々と失ってしまったが、まだ更なる巨星、大江健三郎が健在でいることに、未来まで平和であり続けて欲しい日本への希望と秩序を託す。

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