デクノボー

2018年2月25日。


首相官邸のHPを見ると次のようにある。


一億総活躍社会実現、その本丸は人づくり。子供たちの誰もが経済事情にかかわらず夢に向かって頑張ることができる社会。いくつになっても学び直しができ、新しいことにチャレンジできる社会。人生100年時代を見据えた経済社会の在り方を構想していきます。


「経済社会の在り方」が曲者で、仕事をリタイアしても、まだ100歳くらいまで生きなければならない時代が来るのだから、何らかの経済活動を考えるということなのだろう。

少ない年金を元手に、何か起業せよとかではないと思うのだが、ならば預貯金を吐き出しなさいとしか理解できないこの謎の文言。

高齢者や年金受給世帯の預貯金が増加傾向で、それが全体の貯蓄額を押し上げているやに漏れ聞く。

一般的にそれらの人は、働かずして預貯金を増やしているのだろうか。

そうではあるまい。
現在や先の見えぬ社会への不安から、乏しい年金をやり繰りして内部留保しているだけではないのか。
(今のままで満足だよ~、という方は、以下は無用の内容です)

私は預貯金が乏しいから、80、90歳まで生きてしまう恐怖を持っている。
蓄えのある人は、その総額によって国民の貯蓄額を押し上げ、国債発行の担保となっている。

国民は赤字国債発行の連帯保証人というわけだ。
ハンコついた覚えはないが、国家財政が破綻したらと思うと、また恐ろしい。

それは、老いたら来世を見据えるのではなく、老いてなお現世を思い煩わなければならない社会に対しての恐怖である。

私はまだギリギリ切羽詰る状況ではないので、もしお迎えが来てくれるなら今の内であって欲しい。
誰か、私独りを西之島に流してくれないかと、ペシミズムに添い寝されながら思う。

長生きはしたくないと願う。
願いは一つ、自分の後始末は自分で済ませたい。
しかし、こればかりは自分で斎場へ出向いて、私を超ウェルダンで焼いてくださいとも言えず、他者を煩わせることになる。


「よだかの星」という宮沢賢治の短編がある。


よだかは、実にみにくい鳥です。
顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。
ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合でした。



よだかの悲しみと祈りは、賢治の死生観や宗教観が表出したものであって、人間の欲望の犠牲になる他の生物への慈しみや苦しみに寄り添う。


ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕(よだか)に殺される。
そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。
それがこんなにつらいのだ。
ああ、つらい、つらい。
僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。
いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。
いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。



「遠くの遠くの空の向うに行きたい」
これがよだかの悲願である。
太陽に懇願するよだか。


お日さん、お日さん。
どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。
灼けて死んでもかまいません。
私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。
どうか私を連れてって下さい。



太陽に断られると、今度は星に同じことを頼む。


お星さん。
西の青じろいお星さん。
どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。
灼けて死んでもかまいません。



星にも断られたよだかは、自力で空に昇る。


それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。
そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオぺア座でした。
天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。
いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。



よだかの絶望は賢治の絶望であって、人間も生物の中で生きるために他の生物の犠牲を強いている悲しみである。
この謙虚さは自意識を持つ人間にとっての苦しみと密接に連動している。

「デクノボー」と呼ばれることを望み、弱者を救済するために進んで身を挺する精神は、そもそも文明や文化は欲望を満たすための自然からの搾取ではなく、生物すべてに真実の幸福をもたらす倫理的な知性の創造であるとの主張と理解できる。

不幸の実感とは幸福の欠如感であり、賢治の農民芸術概論綱要の序論には、以下の文章が見える。


世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない


読み進めて行くと、科学と信仰と芸術的な直観の一致により、初めて世界全体(生物全体)の真実の幸福が実現されるという、強固な論旨が見える。

同時に、人間と動物、一体どちらが正気なのかと問い掛けているようにも感じる。
だから賢治の「世界ぜんたいの幸福」が成就しない限り、個人の幸福はあり得ないとの主張と悲しみが強烈に響く。

ここで賢治は内省する。
目の前の現実世界が修羅界であることの慨嘆より、己こそが修羅そのものだという自覚が悲しみの実相であると…。

修羅の世界を認めながら、何とか浄化したいともがく己こそが誰よりも修羅であるとして、正気ではない、修羅であると二重の悲しみを詠嘆し、生き方の提示もしている。

農業人であり、宗教人であり、コスモポリタンでもある賢治の主張は次の一節に凝縮されている。


みんなむかしからのきやうだいなのだから けつしてひとりをいのつてはいけない


これは階級なき社会や独裁社会とは別次元の主張であって、人間同士はもちろん、花や鳥を始めとした万物と共棲したいと願う賢治のアイデンティティである。

二者択一を迫る次元のものではなく、もっとその奥深くにある広大な宇宙観にも思える。

だからこそ、宇宙のあらゆる生物がみんなお互いの兄弟であるような世界、憎むことの出来ない敵を殺さないでいいような世界が来ることを願うのが人間の本心であるとの主張が、現代に於いて輝きを保っているのである。

普遍的な主張は、概してどの時代でも通用するものだ。
普遍が恒久であることを願う。

「烏の北斗七星」の一節がすべてを語っている。


どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません。



「人生100年時代」を見据えた経済社会の在り方など、どこにあるのだろうと訝しく思う。
100年安心年金、などのたわけた嘘っぱちもあった。

「人生100年不安時代」が強制的に始まり、現在進行形で泥濘の中を連行されているのだ。

しかし、声を上げる人の少なさに絶望しかけているのも事実。
もしも誰かが犠牲になって、それで多くの人に幸せが訪れるなら、率先して私が犠牲になろう。

童話や寓話にしか安息への逃げ場がない世の中だ。

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