冬の蜂は死に場所を探して歩いているのではない
力のない初冬の陽だまりの中、オオスズメバチが行く当ても無さそうによろよろと右へ左へと歩いていた。
秋になるとワイドショーなどで毎年恒例のようにその脅威を喧伝される奴も、いよいよ力尽きるのかと、その動きを目で追っていた。
冬蜂の死にどころなく歩きけり
鬼城の句が鮮やかに浮かぶ光景である。
句の蜂がどんな種類かは勉強不足でわからないが、おそらく雄であることは間違いないだろう。
村上鬼城、大正四年に詠んだ渾身の代表作である。
持病の難聴や子だくさんゆえの貧困に喘いだ鬼城も、句集を出したことで晩年には評価が上がり、子規や虚子にも可愛がられたという。
蜂は本能のみで交尾を果たしたか、それとも無念の結果かはこちらにとってはどうでもいいことながら、死に向かう姿に自然の摂理や生の循環を想う。
話を句に戻すが、「けり止め」によって、句の余情や余韻が排除されていることに注目したい。
それでも読み手側のこちらには、命尽きる寸前の蜂の姿に哀れを覚え、人生に仮託したりしてしまう。
これこそが鬼城の狙いであり、受精した雌はそのまま越冬するが、雄は蕭条と定めを受け入れるのみ。
昆虫に限らず、それは人間にも当てはまるように思えてしまう。
がむしゃらに働き通し、立派に企業や社会に貢献したはずの男たちも、現役から離脱すれば生き甲斐を見失うことがある。
結局、自分の存在意義は「肩書」によってでしか社会で通用しなかったのだと気づいたり、地位やお金は今の人間社会でかろうじて通用する不安定なアイテムだったと気づいたり、そこでやっと、現実や真実を知ることになる。
世間では、いきいき老人、はつらつ老人などの言葉が飛び交っても、内容を噛み砕けば、そうありたいとの願望ばかりが先走っているから、多数(おそらく)の男たちは老後にもがくのだ。
最近の老人は「切れやすい」と聞くに及んで、もがいてもやり場のない鬱憤やストレスの捨て場がないことに想い至る。
話を句に戻すつもりが、戻っていなかった…。
人間は冬蜂が歩くのを見て、死に場所を探しているのだと単純に受け入れてしまうが、蜂にそんなつもりはなく、まして己が死ぬことさえ自覚してはいないはず。
このオオスズメバチも、よく観察すると触角が半分失われ、翅も傷ついている。
跳べないから歩くしかないのだ。
単純な話である。
方向感覚がないから右や左へ歩いているのであって、その姿を人間は脳内変換しているだけなのだ。
確かにこの蜂の死期はすぐにやって来るだろう。
その現実に思い至る意識(脳)が昆虫にはないから、こちらが勝手に仮託してしまうだけなのだ。
鬼城は、蜂が死に場所を求めているのではなく、生きようとの本能で「生きどころ」を探し歩いているのだと感じ取ったに違いない。
だからこそ、俄然、この句が輝いて胸に納まるように思えるのである。
鬼城の代表作といえば、他にも以下の句が必ず列挙される。
どの句にも通底している情趣は冬蜂の句と同じで、生あるものへの限りない慈しみの精神である。
生きかはり死にかはりして打つ田かな
闘鶏の眼つぶれて飼われけり
鷹のつらきびしく老いて哀れなり
春寒やぶつかり歩く盲犬
いとも簡単に風邪(コロナではない)に罹ってしまう人間の何と多いことか。
一日仕事すると翌日は疲れ果てて一日中寝ていたくなる。
老眼ゆえ、スマホを見る気力が失せる。
食べられると思ったつもりの食事量が食べられなくなった。
これが現実なのだ。
老残の寂しさと厳しさに、我が余生の長短を重ねながら、私も右へ左へとよろよろ歩いている。