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お金が存在しない世界からやってきた

気付いたら、社会人2年目もそろそろ終わります。

社会人2年目は、未経験で財務をやり抜く1年。この1年間に私がお金について考える時間は、おそらくそれまでの人生でお金について考える時間の合計よりも長かったです。

なぜなら私はかつて、「お金が存在しない世界」で生きていました。

日本では資本主義が当たり前になっていますが、中国は1980年代まで「計画経済」という体制になっていて、経済の資源配分を市場の価格調整メカニズムに任せるのではなく、国家の物財バランスに基づいた計画によって配分されます。

一般人の生活はどのようなものかというと、働いても給料が支給されず、代わりに「工分」という労働点数が計上され、点数によって毎月の食料品や生活用品が支給されます。まだ、戸籍ごとに「粮票」「肉票」「布票」などの配給切手が支給され、その配給切手を使って物資を交換するシステムがあります。

計画経済が上手くいかず、1980年代後、中国は徐々に「社会主義市場経済」(実質、社会主義の要素が混ざっている資本主義)に移行しましたが、人々の暮らしにまだ計画経済の名残りがあります。私の両親は、日本のバブル世代と同じく、80年代に大学に入り、80年代末に社会人になりました。その世代の大学生は、学費を払う必要がないだけではなく、実家に仕送りができるくらい、政府から潤沢な生活費が補助されます。就職活動をしなくても、卒業したら政府が決まった就職先に配属されます。

私の両親は、こうやって公務員になりました。給与が高くないとはいえ、小さなところというと三食や生活用品、大きなところというと持ち家のマンションが支給され、医療費の支払や子供の進学に苦労することもありません。普通に暮らすだけなら、お金の出番はほとんどありません。

もちろん、普通に暮らすだけでは物足りず、お金を使うことを一種のエンタテインメントと考えている人も多いです。しかし、私の両親は計画経済のど真ん中に10代を過ごしたせいか、お金で自分を楽しませることができず、「買い物が楽しい」「外食が楽しい」という感覚(ひと昔の中国では、小ブルジョワ的な価値観と思われる)はそもそもないです。家族と時間を過ごすことや、自然と親しむことは何よりのエンタテインメントでした。そのような環境で育てられた私は、勉強はできるがお金に興味を持たず、将来は大学か出版社で働き、商売とは無縁の人間になるかな、と何となく思っていました。もちろん、お金を使って買い物したりすることはありますが、私の世界観の中には、お金が存在しないも同然でした。

そんな私が、資本主義の国である日本の企業に就職し、新卒2年目でいきなり財務を任されました。「お金が存在しない世界」からやってきた私は、財務諸表ところか、そもそもお金ってなに?を理解することからはじめ、1年間で予実管理も銀行対応も決算も一通りこなせるようになりました。何もかも分からなくて何もかも辛い時期も長かったのですが、お金の興味深さに徐々に目覚めました。

お金とは、商品交換の際の媒介物。

お金とは、経営資源の一つ。

お金とは、鋳造された自由。

お金とは・・・

仕事自体にやりがいがあることはもちろんですが、何より、仕事以外でも財務を通じて、私は「お金が存在する世界」の仕組みを理解しはじめました。

今までは、オペラグラスを使って、遠い後ろの観客席から世界という舞台を覗いていたが、会計ないし経済を理解することで、私がいきなりドローンのカメラで舞台の上に飛び上がり、楽屋に入り込み、世界の全貌を観えるようになりました。その全貌を知ることは、時にはスリリングで、時には悲しい体験ではあります。結局、私たちのあらゆる幸と不幸は、何かしらの形で「お金」と関係していると気付きました。

私は決して、計画経済が良い制度とは思っていませんが、お金が存在する世界と存在しない世界を両方知っているから、「資本主義は、当たり前ではない」という感覚を持っています。物理的には経済活動の現場に身を置きながら、精神的には資本主義と程よく距離を置いています。どこの企業も、どこの国も成長、成長と言っていますが、GDPが高いことと民衆が豊かな暮らしをしていることは全く別のことではないでしょうか。世の中に必要ではないモノが溢れていて、人々は他人がより便利に残業できるように残業しています。

今の私はまだ、その違和感の正体を上手く説明できませんが、時間をかけてたくさん経験・勉強すると、いつか自分なりの答えが出るかもしれません。そして、そこから自分の理想な世界観を構築できたらと思います。

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