ダンテ神曲の詩法分析(1)地獄篇第1歌1~6

はじめに


先日書いたnoteの原稿「イタリア詩の技法」につづいて実際に詩の分析をしてみようと思います。まずはやっぱりダンテの神曲がよいかなと思うので、その地獄篇の第1歌、有名すぎるくらい有名な最初の数行を読んでみようと負います。
ダンテがどういう人で、神曲がどういう作品なのかとかは書くときりがないし、ここではすべて割愛します。
知らなくてもこの拙稿は読めると思いますが、ほんとうに全然ご存じないならちょっとググってみておいてください。
また予めnoteの「イタリア詩の技法」はお読みください。本稿はそれを前提にしての練習問題という位置づけですので。
 



§1 まず1行目のスキャンニングから


神曲はすべて11音節の詩行から成り立っていて(ほんとうはすこし不正確な言い方ですが)、詩行をその11音節に分けて、その中でどのようなリズムがあるのかを分析することを英語ではscanning、イタリア語ではscansioneといいます。
ではまず1行目から。神曲地獄篇第1歌の出だしの1行目は次のようなものです。
 
Nel mezzo del cammin di nostra vita
 
一番簡単にスキャンするには母音の数を数えてみることです。二重母音とかそういうことは考えないで単純に母音の数を数えてみてください。いくつありますかね?・・・11個だったはずです。ということはこの行はもうすごく単純に1つの母音が1つの音節を形成しているということです。母音にシリアル番号を振ってみましょう。
 
Nel mezzo del cammin di nostra vita
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

(どうしても数字がずれてしまいます。みにくくてすみません:付記)
 
スキャンニングをなぜするかといえば、詩行のリズムを確かめることで、リズムを作るのは強勢(アクセント、より正確にはイクトゥス)であり、強勢は母音にしか落ちませんから、こういう風に母音の数を数えて番号を振れば、とりあえずスキャンニングはもう完成です。イタリアで出版されている詩法の専門書や論文のなかでもスキャンニングがなされている箇所があるとしたら、このように番号をふるだけです。
けれどももしかしたら分綴、つまりシラブルに分けた方が見やすいかもしれませんよね。それもやってみましょうか?ただしそのためにはいま数えた11個の母音に子音がどのようにくっつくか、またはれ切れるかのルール、つまりハイフネーションのルールを知らねばなりません。
これはそれほど難しくはないです。次のルールを覚えておいてください。
 
①    2つの子音が連続したらその間で切る。
②    2の同じ子音が連続したらその間で切る。例 pazzo → paz-zo
③    これの補足として-cq-も同じ子音の連続とみなしその間で切る。 例acqua→ ac-qua
④    鼻音(mとn)、流音(rとl)に子音が続いてていたらその間で切る。発音すれば分かると思いますがこれらの子音は次に続く子音と連続して発音するのは困難です。例 ombrello→om-brel-lo(注目していただきたいのは最初の切れ目。-mbr-というふうに3つ子音が連続しているので、どこで切るか迷うと思いますが、mとbの間で切ります。発音してみればそれが自然と分かるはず)。②のルールも3つの子音が連続している例を挙げたかったのですが思いつきませんでした。すみません。
⑤    逆に①にも関わらず、chやghやgnなどは一つの子音として扱い、その間で切ることはありません。これも当然のルールですよね。分けたら発音できないですから。 例cognome→ co-gno-me(要するにcog-no-meとはしないっていうことですね!)
⑥ Sに子音が続く時は間で切りません。子音が複数つながるときも同じです。こういうsは不純なs(s impuro)とか呼ばれてます。これも発音してみると納得がいきますが、sに子音が続く時ってsは極めて不完全に、ほとんど次に続く子音に依存するように発音されますよね。例 nostro→ no-stro
⑦  母音の間に1つしか子音がない時は後ろの母音と音節を作るのがふつうです。 例lavoro→ la-vo-ro
だいたいルールとしてはこのくらいだと思います。列挙するとどうしても実際以上に煩瑣に見えてしまうものですが、ひとつひとつのルールを見てみるとどれもわりに当然なものばかりなはずで、ルールを暗記しようと思わなくてもすぐ慣れるんじゃないでしょうか。そもそも最初に述べたように子音の切れ目はそれほど重要な問題ではありませんし、数カ所間違えたからと言って気にする必要はないです。
 それでは改めてさきほどの詩行を分綴してみましょう。肝心なのは詩の場合(ラテン語の詩のスキャンニングもそうですが)単語の切れ目は気にせず、1行があたかも長いひとつの単語であるかのように考えて切れ目を考えていくことです。
 
Nel-mez-zo-del-cam-min-di-no-stra-vi-ta
 
そんなに難しくないですよね。
 そういえば、さっき書きそびれました。この行は最初から母音が11個しかないから云々、ということを冒頭に書きましたよね。でも本当はそうなっているのはダンテ先生のおかげです。camminは本当はcammino「道のり、歩み」という単語です。最後の母音-oを落としてあるのです。apocopeという技法です。これでそもそも1音節倹約しているのです。さらに現代イタリア語ならvita「人生」には普通、冠詞をつけてdella nostra vitaとするところだと思います。実際の詩行ではこれがdi nostra vitaとなっています。ダンテの時代には無冠詞がふつうだったのかどうかそこまでは検証していませんけれど、現代語と比べるならここでも1音節もともと節約されていて、普通に書けばこの詩行もじつは13音節になっちゃうところだったわけです。
 さて閑話休題。先ほどの詩行にこんどはアクセントを振りましょう。多くの場合、ふつうに辞書に載っている、現代語のアクセントと同一です。ただし、冠詞、接続詞、前置詞、代名詞などで1音節のものにはアクセントは打たないでよいです。また受け身のessere +p.p.や完了形のavere +p.p.のessereやavereは1音節であればこれもアクセントは打ちません。このように語学上のアクセントと詩におけるアクセントとは必ずしも一致しないこともあるので、詩のアクセントはイクトゥス(ictus)と呼びます。ここからはイクトゥスと呼びますね。
 先ほどの分綴したものにあらためて番号を書き、イクトゥスがあるものには丸印を番号につけます。
 
Nel-mez-zo-del-cam-min-di-no-stra-vi-ta
1  ②  3   4   5  ⑥  7 ⑧ 9 ⑩ 11
 
 10に必ず最終イクトゥスが来るのがendecasillaboの絶対のルールです。それ以外に4か6のどちらか少なくともイクトゥスがくるのが良しとされています(この行では6にイクトゥスがあります)。
 それと「イタリア詩の技法」で書き忘れましたが、チェズーラcesuraといって1行のなかにちょっとした切れ目があります。4音節目にイクトゥスがある場合は、4~5音節目、6音節目にアクセントがある場合は6~7音節目に切れ目があります。
 
「切れ目」と言っても朗読する際にとくにそこで息継ぎをするとかいうほど切って読むわけではないのですが、でもなんとなくそこに切れ目があるのだということは意識されます。
 この行では6のあとにcesuraがあります。そこを//で切ってみます。
 
Nel-mez-zo-del-cam-min // di-no-stra-vi-ta
1 ② 3 4 5 ⑥ 7 ⑧ 9 ⑩ 11
 
 はい、今度こそ正真正銘、スキャンニングの完成です!!



§2 2〜3行目のスキャンニング


 2行目はこんな行です。

Mi ritrovai per una selva oscura
 
また母音を数えましょう。全部で13個あるはず。ということは2つ余計ですよね。母音が連続しているところを探してください。ritorvaiの部分と、2つの単語にまたがっていますが、selva oscuraの部分です。この2箇所しかありませんから、この2箇所をどちらも1つの母音として考えるほかありませんね。
 ただしその理屈をもう一度復習しておきましょう。ritrovaiという単語は-a-のところにアクセントがあります。したがって(此処から先、アクセントがある母音は<強>、アクセントがない母音は<弱>と書きます)語末の-aiは<強+弱>です。これは行末に出現した場合は2音節と考え(そして10音節目と11音節目を形成)、それ以外の場所では基本的に1音節として数えるのでしたよね。重要なルールなので復習しておいてください。もうひとつのほう、つまりselva oscuraの太文字部分にはどちらもアクセントがありません。<弱+弱>です。このパターンは1音節ととるのも2音節として取るのも可能でした。ここはそのルールの柔軟性を利用して1音節と考えるというわけです。
 さて、分綴とイクトゥスさらにはチェズーラを考えて、スキャンニングを完成させてみてください!
 
Mi – rit – ro – vai // pe -ru – na – sel -vao – scu - ra
1 2 3 ④ 5 ⑥ 7 ⑧ 9 ⑩ 11
 
 第1ストローファ最後の行である、3行目に行きます。
 3行目は次のようなものです。
 
Ché la diritta via era smarrita
 
また母音を数えましょう。12個です。1つ節約が必要です。viaの部分とvia eraの部分と2箇所ありますからどちらかで節約するわけですが、前述のルールどおりviaのほうが優先されます。分綴やアクセントはもうみなさんできるのでは?
 
Ché – la -di -rit – ta – via // e – ra - smar – ri – ta
1 2 3 ④ 5 ⑥ ⑦ 8 9 ⑩ 11
 
こうやってチェズーラまで考えると、viaのほうを1音節と考えるのが更に納得いきますよね。さらに言うとふつうイクトゥスが2つの音節に連続して落ちるとすこし読みにくいのですが、6と7の間にチェズーラがあって、ほんの一瞬、小休止があることによって朗読しやすくなっているのもわかります。
 


§3 第1ストローファを読み直す


 3行(=1ストローファ)のスキャンニングが済んだところで中身も一応みてみましょうか。この部分は文法的にも語彙的にもほとんど現代イタリア語と違いがなく、イタリア語初心者でも読めるのではないでしょうか。nel mezzo di ~(現代語ではin mezzo di ~のほうがふつうと思いますが)は「〜の真ん中で」。camminoは「道のり」ですが、もともとcamminare「歩く」から来たので、「歩み」とかそんな漢字の語です。前述の通り、最後の母音oが欠落しています。ここまでで「人生の歩みの真ん中で」という感じでしょうか。
ritrovare「(再び)見つける」が再帰動詞的に使われています。つまりmi ritrovaiで「自分を見出す=〜にいるのに気づく」。次の前置詞perはinであるべきところです。でもダンテには他にもinとするべきところにperを使っている例があるそうで、この詩のなかでのリズムとかを考えてというよりただの癖でしょう。selvaは「森」。現代イタリア語ならboscoとかforestaとか言うのでしょうが、ラテン語の「森」がsilvaでそこからイタリア語に入ってselvaとなりました。ダンテの時代なら「森」にこの語を充てるのはむしろ当然でしょう。というわけで2行目は「暗い森にいるのに気づいた」
3行目に行きましょう。イタリア語の詩を読むときにcheは要注意です。ちょうど英語のthatのように関係代名詞としても接続詞としても使えます。さらにここではchéのようにアクセント符号がついていますよね。こちらは多くの場合perchéとおなじ理由を表す接続詞です。けれどもときにはsicchéと同じ結果を表す接続詞として使われることもあります。ここでも理由なのか結果なのかやや議論があるようです。おそらく理由を表す接続詞と考えて良いように思われますが。
 それ以上に3行目はその後が問題です。la diritta viaは「正しい道」、smarritaは「道に迷った」という形容詞です。したがって3行目は「というのは正しい道から逸れてしまったのだ」というような意味です。
しかしここ、コロケーションが少し不思議な感じがします。英語でも「道に迷った」はI got lost.「道に迷った」とは言いますがMy way is lost.とはあまり言いませんよね。同じようにイタリア語でも「道に迷う」の主語は人であるべきでしょう。Io sono smarrito.のように。「道」を主語にするのはやや破格に思われます。またその「正しい道」をこの行ではla diritta viaと表現していますが、もう少し先12行目ではla verace viaというように別の形容詞を使って表現しています。
 なんでダンテ先生がここでごちゃごちゃ怪しいことをいろいろやっているかと言えば、それはもうdirittaとsmarritaと韻を踏むためとしか考えられません。
 もちろんふつう脚韻はそれぞれの詩行の一番最後でふむものですが、それ以外にこうして詩行の内部で韻が踏まれることがあります。rima interna(詩行内部の韻)と呼ばれます。これによって静謐ななかに物語り始めた1~2行目に対し、3行目に独特の畳み掛けるようなリズムが生まれ、ダンテの心の動揺が表現されているように思えます。



§4 第2ストローファのスキャンニング


第2ストローファ、すなわち4~6行目はつぎのようなものです。
 
Ahi quanto a dir qual era è cosa dura
esta selva selvaggia e aspra e forte
che nel pensier rinova la paura !
 
4行目はなんと母音が16個もあります(さらに言うとdirは本当はdireです。前述のacopopleを使ってすでに母音を一つ省略してあるので、そうでなかったら17個母音があったはずです!)。2箇所の-ua-をどちらも1音節とみるのは(というかuは半子音として考えます)、さらに単語をまたがって母音が連続しているところが2箇所(quanto aとera è)ありこれらも1音節と見なさないとならないです。
さて、これで4つ音節が減り、16→12になりました。あと1つ!どこだかわかりますか?・・・Ahiです。イタリア語ではhは発音しませんので、Aiと書いてあるのと同じです。これも1音節とみなします。結果次のようになります。
 
Ahi – quan – toa – dir // qua – le – raè – co – sa – du – ra
1 ② 3 ④ ⑤ 6 7 ⑧ 9 ⑩ 11
 
どんどん行きましょう!つぎ。5行目は母音14個。音節を3つ減らします。selvaggiaの-iaは1音節。さらに単語をまたがって母音が連続する2箇所もそれぞれ1音節とみなします。結果は次のように。
 
es – ta – sel – va – sel – vag – gia // ea – sprae – for -te
1 2 ③ 4 5 ⑥ 7 ⑧ 9 ⑩ 11
 
はいはい、どんどん行きます。つぎ。6行目は12個の母音。pensierのところを1音節とみなします。pauraのほうは2音節です。この単語は-u-にアクセントがありますが<弱+強>の連続する2母音のうしろがuの場合は、原則べつべつの音節と考えるというのは「イタリア詩の技法」で説明したとおりです。
 
che – nel – pen- sier // ri- no – va – la – pa – u -ra
1 2 3 ④ 5 ⑥ 7 8 9 ⑩ 11
 
これで、めでたく6行スキャンニング完成です!難しくないですよね?!
 



§5 第2ストローファを読み直す


4行目はAhi!「やれやれ」という感嘆詞につづいて感嘆文となっています。英語で言えばOh, what a painful thing it is to say what it was like!
「やれやれ、~がどのようだったかを言うのはどんなにか辛いことか!(〜のところに入るべき主語は次の行にでてきます)」
なんで英訳をしたかと言うと、英語で書くとわかってもらえるかなと思うのですが、whatとwhatという2つの疑問詞が使われますよね。それがそれぞれこの詩行ではquantoとqualです。quantoとqualで頭韻が踏んでいます。
 何も説明せずに「頭韻(aliterazione)」という言葉を使いましたが、その意味はこの例から明らかですよね。アクセントまでの語頭の部分が同じ2単語が近い位置にあることを言います。
 もう一回まとめておきます。韻のなかで一番重要なのはもちろん脚韻です。「イタリア詩の技法」で説明したように神曲の脚韻はrima intrecciataで、ABA BCB CDC…のようになっています。まだここまで6行しか取り上げていないので、あまりイメージが沸かないと思いますが、それでもここまで1行目のvitaと3行目のsmarritaが脚韻、2行目のoscuraと4行目のduraと6行目のpauraが脚韻をそれぞれ踏んでいます。
 けれども韻はそれだけではありません。さきほどのdiritta / smarritaのような詩行内の韻rima internaや、ここのquanto / qualのような頭韻(この直後にもselva selvaggiaという表現がでてきます!)などいろいろな韻を組み合わせているのが、まさに「声に出したいイタリア語」を作るのに一役買っているわけですね。
それとこの文はそうとう語順がグチャグチャになっています。ラテン語でもイタリア語でも(たぶん他の近代西欧語も?)詩を読み始めて最初にひっかかるのは語順が散文と違ってものすごく自由だということでしょう(ラテン語に比べるとイタリア語の詩はまだましです)。
文法も現代イタリア語とは少し違うところがあるので、完全に同じ単語を使ってふつうの語順に復元することはできませんが、大雑把には次のような語順だったらふつうの散文です。
 
Ahi, quanto duro è dire come era.
 
そんな悪くない気もしないわけではないですが、やっぱりこれじゃ詩になりませんね。そういうわけで韻律を整えるために、詩は語順がグチャグチャを覚悟しておいてください(繰り返しますが、ラテン語のウェルギリウスとかもっとひどいです。それに比べればほんとダンテはこの点ではラクです)。
 さて5行目。冒頭のestaは現代イタリア語ならquestaです。この語は少し古い時代の詩にはよく出てきます。で、このesta selva「この森」が先ほどの4行目のqual eraの主語です。「この森がどんなだったか言うのはなんと辛いことだろう」みたいになっているわけです。そしてなんと言ってもこの行の特徴は前述のselva selvaggia「生い茂る森」の頭韻です。selvaは前述のように「森」、selvaggiaはそこからできた「野蛮な、野生の」という形容詞です(フランス語のsauvage(ソバージュ)は外来語として髪型などの名称にも使われていますよね。これも同語源です)。そういうわけでselvaとselvaggiaは同じ語源の単語ですから語形が似ているのは当たり前でそれを「はい!頭韻です!」というのはいかにも芸がないです。しかも頭韻を踏む2単語は微妙に離れていたほうが優雅なものです(さっきのquantとqualみたいに)。連続した2語の頭韻はいかにも強引で、荒々しい。けれどここではそれが絶妙に力強い表現を生み出しています。しかもselvaを修飾する形容詞がselvaggiaだけでは足りないらしく、さらにaspraとforteとあと2つ形容詞を追加しています。それぞれどういう意味の形容詞かを議論するのは無駄に思われます。どれも「荒れた」とか「生い茂った」とか「ひどい」とかそんなかんじで「森」の凄まじさを形容する形容詞です(forteは現代語では「強い」ですがここではその意味ではありません)。どんな形容詞でもいいのですよ。類語を3つも重ねることに意味があるのです。
 宝塚歌劇団のモットーでしったっけ「清く正しく美しく」っていうのは?「美しい」はともかくとして「清く」と「正しく」っていう2つの語ってだいたい同類語ですよね?どこが違うかって聞かれても違いを言えないです。でも2つ並んでより強調がなされるわけです。こういうレトリックにもギリシャ語の名前があったはずなのですが、ちょっと思い出せません。兎も角ダンテも3つも形容詞を付けて「茂り、荒れた、ひどい森」みたいに強調しているわけです。先ほどの荒々しい頭韻に続いての形容詞三連発。迷い込んだ森を思い出したダンテの畏れが伝わってきます。もしかしたら震えているかもしれません。そんなかんじです。
 このように詩の技法というのは内容と独立して存在するものではなく、内容と一致して、それをよりよく演出するという役目を果たしたときに初めて意味を持つものだとよくわかります。
 それでは最後の行。冒頭のcheは関係代名詞です。先行詞は前の行のselvaです。selva che rinova la paura「恐怖を新たにする森」ということです。間に挟まれたnel pensierは「思い出すと」ということです。英語でもin ~ingで「〜するときに」ということを表せますよね。あれと同じようなかんじです。このnel pensier rinova la pauraとそっくりな表現をアエネイスがトロイヤから逃げてきた顛末をディードというカルタゴの女王に物語るときに使っていた気がするのですが、どこだったか探すのが面倒くさいのでその話はナシにします。神曲の注釈書を見ても、偉いイタリアの文献学者たちが誰もそこに言及していないので、私の勘違いかもしれませんし。でもそういう本歌取りは至るところにあるはずなので、そういうのを追いかけるのも研究の一つの分野です。
本題に戻ります。この3行はちょっと複雑な構文になっていましたね。全体をもう一回直訳風に訳すとしたらこんなかんじです。「やれやれ、思い出すだに恐れを新たにさせるあの茂り、荒れ、ひどい森がどのようであったかあらためて言うのはなんと難しいことだろう」
ということは前述の関係代名詞は非制限的に使われていますね。「思い出すだす恐れを新たにするので・・・」のように理由として読むことになります。
ともあれ、以上で6行読めたわけです。当初の計画では12行くらい読もうかと思ったのですが、今日はこのくらいにします。ダンテは第三者的な観点から自分の過去の「森体験」を物語っています。第三者的観点に立っているときは比較的静かな語り口で語り、他方、森で迷った自分に自分を重ね合わせた瞬間(3行目やとりわけ5行目)抑えきれない感情で詩の韻律の脈拍が跳ね上がる、とそんな印象の6行でした。
もう一回声に出して読んでみてください!


Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura,
ché la diritta via era smarrita.
Ahi quanto a dir qual era è cosa dura
esta selva sevaggia e aspra e forte
che nel pensier rinova la paura!


 
 
 
 



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