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『人類はどれほど奇跡なのか』

西住さんに紹介していただいた『人類とはどれほど奇跡なのか』を読んで作成したレポートです。西住さんのnote記事は以下参照:

本書を読むよりも先に西住さんのnote記事を読んでいたせいか、私が本書を読み終えた後に最初に浮かんだ疑問は「はて奇跡とは一体なんだろな?」ということだった。というのも、本書を読む前は人類はどれほど奇跡的で、どんなふうに奇跡的な存在なのかなぁとワクワクしていたのだが、読み終わってみると、あらかた予想通りで、確かにそうだよねと思わず落胆してしまった。

本書は、生命の誕生、知性の獲得、意識の発生の三部構成である。人類の奇跡さを表す要素として、他の生物にはない(と考える)人類特有の高度な知性について着目している。そこで人間の複雑化した神経ネットワークによる意識は、生存確率を高めようとする進化によって結果的に生じたものであると本書は語る。しかし、そんなことは本書を読まなくても、ダーウィンの進化論が浸潤した今の時代を生きる私たちにとっては当たり前のことではないか。

では、意識が量子論状態の構造に起因するような複雑なもので、そのような物理的に複雑な生命体が宇宙に存在することの確率がきわめて低いため人類の存在が奇跡なのか。これに関して首を縦に振り切ることができなかった。私も西住さんと同様に引っ掛かってしまった。

本書が挙げる人類の奇跡ポイントは以下の通りである。

1.宇宙にそもそも生命が存在している
2.人類が複雑な意識に起因される高度な知性を持つ

1に関しては人類だけに限らず、地球上の生命全ての存在に当てはまり、人類特有の奇跡らしさなるものがない。
2に関しても、p164にて「人間的な意識が行動プランの策定と結びついているのならば、前頭葉が発達し、さまざまな予測をもとに行動をプランニングする動物には、人間に近い意識があると考えるのが自然である。」と述べられており、意識があることは人間特有の奇跡というわけではないことが述べられている。本書の説明に則るとチンパンジーと人間の意識レベルの違いは量子論的な次元数を持つ空間の数の違いに他ならなず、根本は同じなのである。

本書の題名は『人類はどれほど奇跡なのか』だが、本書を読むと人類だけが奇跡というわけではなく地球上の生き物全てが奇跡だといっているように感じる。地球にはびっくりするような生態をもつ生物が山ほどいる。そいつらの存在は奇跡ではないのか。(本書では触れていないので、それらが奇跡ではないといってるわけではない。)

私の趣味として驚くべき生態の生物を一つ紹介しよう。この記事の画像に載せたアオミノウミウシ Glaucus atlanticus(noteの運営さんイタリック体を実装してください)だ。驚くべきは派手な体色と奇妙で美しい形だけではない。その細長い指状の突起は体の表面積を増やすことによって、呼吸を助け、さらに海面に浮かぶ手助けをしている。アオミノウミウシはカツオノエボシを食べて針細胞を取り込み、それを自分の身を守る毒針として使う。こんな驚くべき生態の生き物が地球に存在することも奇跡ではないか。

本書は人間がいかに奇跡的な存在であるかを示す本であると「はじめに」で語られていたにも関わらず、人間の奇跡さについて語りきれていなかった。まずそこで私は突っかかってしまった。

けれども、もっと根本的に奇跡に対する私の中の考え方の違いに気がついた。私は、神秘と奇跡を混同するという誤謬を犯していた。

人類の存在が、原子と宇宙との間に極めて巨大なスケール格差が存在して、偶然に偶然を重ねた数奇なものであっても、因果関係によって一定の秩序を持って関係を与えることができる。それがいかに特異なものであっても自然な領域のものに回収可能なものである。それがどれほど確率が低く、奇跡的なものに見えても、人間や自然を越える神秘にはなり得ない。

ウィトゲンシュタインによると神秘とは語らないことに由来する。

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.44

神秘は中身や様態に関わりなくただ現にあることそれ自体である。したがって、世界が何であるか、いかにあるかを語る物理学から神秘を語ることはできない。それにもかかわらず私は本書で人類の神秘を探っていた。私は人類がどんなふうに奇跡であるのかを探っていたつもりで、人類がどんなふうに神秘であるのかを探っていた。

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