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『マチネの終わりに』 平野啓一郎

音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を、最後まで見届けたとき、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? ベートーヴェンの日記に、『夕べにすべてを見とどけること。』っていう謎めいた一文があるんです。ドイツ語の原文は、何だったかな。洋子さんに訊けば、どういう意味か教えてもらえるんだろうけど、………あれは、そういうことなんじゃないかなと思うんです。展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。

花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。

 人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

 なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという、10代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。

 美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味といった取柄は、そんなことはないと簡単に慰めてしまう。そうして人は、ただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体、何だろうか?

この世界は、自分と同時に、自分の愛する者のためにも存在していなければならない。憤懣や悲哀の対象でさえ、愛に供される媒介の資格を与えられていた。そして彼は、彼女と向かい合っている時だけは、その苦悩の源である喧噪を忘れることが出来た。

 あんなに正直で善良な人が、こんなにも早くその生を取り上げられてしまう一方で、自分は何事もなく、平穏な生を許されている。

…………

 運命とは、幸福であろうと、不幸であろうと、「なぜか?」と問われるべき何かである。そして、答えのわからぬ当人は、いずれにせよ、自分がそれに値するからなのだろうかと考えぬわけにはいかなかった。

『マチネの終わりに』平野啓一郎

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