内定をもらえなかった20卒の僕と、今就活をしている22卒の君へ。就活は、茶番か。(前編)

2020年、1月中旬のこと。

「盗塁死さん。あなたね、内定です。」

高層ビルのオフィスで人事部長に言われた、人生で初めての言葉は今でも思い出せる。

就活を初めて15か月目に突入していた僕は、あっけにとられた。

出るときは、こんなもんか。

内定先は、とあるWEB広告代理店。

勝った、と思った。

当時総合広告代理店のクリエーティブ職を志望していた僕は、とりあえずここに内定をもらい、あとは総合広告代理店に就活エナジーを全ツッパすればどこかから内定はもらえるだろう。

「本気」と書いて「まじ」で、そう思っていた。

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そして、7月下旬。3か月前のこと。

20社ほど受けた総合広告代理店にすべて落選し、僕はそのWEB広告代理店に入社することを決めた。

はじめに

この記事を読んでいる皆さんへ。

就活は、茶番だろうか。

僕の周りでは、よく「就活とか茶番でしかないわw」という声が見受けられる。

ああ、そうだ。就活は、茶番だと思う。

毎月夜行バスで鍛冶橋に行き、東京駅の富士そばで朝ご飯を食べた後、11時まで近くのスタバで時間をつぶし、働かない頭で山手線に乗って、ほぼ徹夜明けの状態で面接を受けて、人事のおじさんの小ボケにすらうまく対応できず、1週間後に来るのはお祈りメール。

そんな茶番だ。

21卒の僕は、成果がどうあれ、そんな茶番に本気で挑んでいたことに違いない。

そして、茶番と割り切って挑んだ就活が、自分を変えた気もする。

だから今日は、長い長い2年間の茶番劇の結果自分に何が起こったのかを、就活をなめ腐っていた20卒の僕と、就活を終えた21卒の僕と、今就活をしている22卒のあなたに伝えたいと思うので、時間が許す限り見ていってほしい。

就活前夜

思えば、不器用な人生だった。

忘れ物が多かった。小学校ではいじめられていた。家の鍵を無くした。中学の野球部で、一回もスタメンになれなかった。モテなかった。高3の7月まで、大学のことを何も調べなかった。今通っている大学だって、友人が教えてくれなければ存在さえ知らなかった。深く考えもせず、大学でアメフトを始めた。練習中に笑いの無い環境に耐えかねて、半年でやめた。

自分の人生が、他人事だった。

保護者みたいな友人に囲まれ何とか日々を生きてきたが、そんな日々の中で「自分はこれがしたい」なんて考えたことはなかった。

そんな自分の好きなことを一つ挙げるとするなら、人を笑わせることだった。

別に人から笑いを取ったところで野球に勝てるわけではないのだが、どんなチームでもムードメーカーを担っていた自負はあったし、野球が下手くそな僕がチームで存在感を出すには自然とそうならざるを得なかった。

そんな僕がいざ就職活動の矢面に立たされたところでやりたいことなんてYouTuberくらいしか思いつかず、かといって他の職業の魅力も探そうとしなかった自分は「就職活動を始めない」という選択肢をとった。

当時の自分の価値観にとっては当然の、怠惰な選択だった。

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2018年12月。

大手のインターン選考にいそしむ友人たちを横目に、「なんかアイデア仕事したい」というふわっとした理由で中小企業のインターンに参加しては「何か思ってたんとちゃうな」を繰り返す日々だったが、ここで僕の人生に転機が訪れる。

JR大阪駅をよれよれのリクルートスーツで歩いていた時の事。

改札前の柱に貼ってあった有馬記念のポスターがその時はやけに気になって、初めて「足を止めて広告を見る」という経験をした。

やられた、と思った。

JRA広告

(とあるWEBページから拝借)

写真は撮っていないから、もう何が書いてあったかは覚えていない。ただ、レースの様子がありありと映し出されたボディコピーに鳥肌が立ったことは覚えている。

そして、「これだ」と思った。

世の中には、こんなかっこいい表現ができる職業がある。こんなに心揺さぶれる言葉を発信できる職業がある。

人の心を動かしたり笑わせたり、僕が21年間何の役にも立たないと踏んでいた能力は、ちゃんと仕事にできるのだと知った。

それが、「広告業界」というものを知らなかった盗塁死青年と「コピーライター」という職業の初めての出会いだった。

そこから先は、就職留年まで早かった。(僕の20卒の就活詳細はこちらから)

調べてるんだか調べてないんだかわからないような上っ面の広告業界研究と、マイナビで「広告」と調べてはよくわからない会社にもエントリーをし続ける日々。

実績も実情もわからないような人間が「クリエイティブ職に就きたいです」なんて言ったところで受かるはずもなく、ご存じの通り20卒では内定を一社からももらうことができなかった。

ここまでが、20卒のお話し。

就職留年という選択

「就職留年をしよう」と決めた、明確な瞬間が一つだけある。

それは、とある広告代理店D社のインターンに合格した時だ。

あまり詳しくは言えないが、「『真夜中』をテーマにした800字の作文」というエントリー課題から、IPPONグランプリみたいなクリエーティブ筆記試験、「このCMのこの俳優さんのセリフ、君なら何を言わせる?」みたいな珍妙な面接をパスし、見事に倍率n倍の関門を潜り抜けたのだ。

受かったのがうれしかったのではない。

「お前はまだ面白いよ」と選考官に言われた気がしたほうが、何倍もうれしかった。

野球は下手くそ、記憶力も要領も悪い。そんな人間の唯一のとりえと言えば「人を笑わせること」だったし、なんだか「お前はそっちでやっていける能力があるよ」とD社のクリエイターに言われた気がした。(これは後に勘違いだったと気づく)

8年半のベンチ生活で深くDNAに刻まれた「盛り上げ役」という役割が、初めて社会で活かせる気がした。

だから、この瞬間、「コピーライターを目指そう。」と決めた。

今まで部活でもバイトでも結果に現れなかった「人を笑わせる」という能力を活かして、コピーライターになる。これが、就職留年の決意である。

地獄の始まり

「コピーライターになりたい」という夢はひとまず持ち合わせたものの、2回目の就活でそんなリスクの高い就活を続けるわけにもいかず、ここからは苦境を強いられることになる。

だが、将来の夢というのは不思議なもので、いったん自分の置かれている状況は無視させるだけの幻覚作用のようなものを含んでいるのだと思う。

メジャーデビューを目指してコンビニでバイトを続けるバンドマンや、内定を蹴って300再生をうろうろするYoutuber、第一志望の業界に熱を上げOB訪問をし続ける就活生ですら、程度は違えどきっと同じような目に遭っている。

僕が払った犠牲は1年の時間と50万の親への借金くらいだが、やはり夢を見すぎると泥沼に足を突っ込むというのは共通項だった。

この記事の後編では、21卒として自分が経験してきた、地獄のような就職活動の記録をつづっていきたいと思う。

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