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包囲された街、トンネルが生命線となる

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BiH)の首都サラエボ市からこんにちは!お元気ですか?Zdravo, kako si?

光陰矢の如し
1年って本当に早いですね
屋外でビールの季節が
巡ってきました
🍺
レストランのテラス席が
ペチュニアで彩られます
天気の良い日にテラス席を
選ばない人はいません
きっと🌸

日曜日、ミュージアムへ行こうとしたら途中ガッツリ渋滞にはまり身動きがとれなくなりました。

飛行場へ向かうバスは
間に合うか心配ですね
鳴り響くクラクション

サラエボマラソンの開催日でした!(マラソン大会が多い)

うっかり車で出掛けてしまいました。車両通行止めなど迂回しながらやっとの思いで帰宅したら自宅前の道が完全に封鎖されていて1ミリも車の進行を警察に許してもらえず、公共駐車場に仕方なくパークしました。多大なロスタイムと無駄なパーキング代・・・。お出かけ前は交通情報をチェックして出かけないといけませんね。
この日の目的地はTunnel of Hopeでしたが到達不可。日を改めて訪れました。



Tunnel of Hope:希望のトンネル

希望のトンネル
救いのトンネルと呼ばれる
サラエボトンネル博物館外観

民家にトンネル入口を戦時中建設
各言語のパンフレット
施設内のショップで購入
約350円
こちらをベースに
note書き進めます

1425日間のサラエボ包囲戦


ボスニア紛争の真っ只中1992年~1996年のサラエボ包囲戦中に建設されたこのトンネルは市内のボスニア政府支配地域と包囲地域を結ぶ生命線として機能しました。

サラエボは1984年には冬季オリンピックを開催した地でもありながら、戦争が勃発し街は1992-1995年は包囲されるという信じがたい事が起こりました。約4年包囲、死亡者1万千人以上。ピンク色がVRS軍テリトリーなのでボスニア軍は完全に包囲されています

スルプスカ共和国軍(VRS)によって完全に遮断されたサラエボ市と国連が管理するサラエボ空港の反対側にあるボスニア人が保有する領土を結ぶためにボスニア軍によってトンネルが建設されました。「もしこのトンネルが無かったら」博物館見学中に恐ろしくなりました。
参考URL
BBC News | EUROPE | Sarajevo's tunnel of hope

黄色のラインがトンネルD-Bです
ドブリニャ地区(D)と
ブトミール地区(B)を
結んでいます
手前は国連管轄の飛行場です
元UN管轄であり、
現在はBIHの玄関口
サラエボ国際飛行場が奥に見えます

のどかな草原はサラエボ包囲中
VRS軍のテリトリーでした
トンネル周辺の草原には今も地雷があるかもしれません。立ち入りは禁止です。BiH全体で地雷が除去されていないエリアがあるので、安全なエリア内での観光が推奨されています
トンネル博物館入り口
入場料:大人約700円
オーディオガイドはQRコード
トンネル内部は高い場所で約170センチ、幅は約120センチ。女性の私でも窮屈を感じますし、ほとんど屈めて歩行しました。大きな体躯のユーゴ人男性には相当狭かったと思います

我々訪問者は約20メートルのトンネルを実際通ることができますが、オリジナルは全長800メートルです。こんな短い距離すら地上で横断することは不可能でした。動くものは全て標的となっていた凄惨な包囲戦では多くの市民が射殺されました。

飛行場に駐留するUN軍の戦車
現在のサラエボ国際飛行場
かつてUNは
今と同じ風景を見ていたと思います

絶望的な中で発案されたD-Bトンネルは秘密裏にしかも手作業で掘削されました。絶え間ない砲撃の中、光源は"Kandilo"と呼ばれる植物油に満たされた鍋から火を灯して掘り進めます。気象条件が厳しい状況下で作業は難航しながら、そして除去した土など敵側に見つからないように苦労した様子がオーディオガイド、解説書で伺い知れます。

この簡素な木造りの地下トンネル内は浸水がひどかったようです。大雨や雪解け水で天井まで浸水したこともありました。
スコップ、つるはし、手押し車で作業が勧められました。私の思いですが1990年当時であれば日本は赤坂ツインタワーなどが竣工した頃です。西側諸国やUNは技術面や物質面でもっとサポートできなかったのでしょうか。困難過ぎます。後にThe Blue Roadという人道的に結ばれた飛行場内の道もワークが弱くこのトンネルに依存していました
常にトンネルを補強していたと思います。土嚢、手押し車、シャベル。1990年代に全て手作業とは!包囲された市民は一刻を争う生死の問題が直面しているのに、残酷過ぎます

包囲後800日の夜トンネルが完成

サラエボ市を包囲された市民たちは過酷な状況に置かれました。そして飛行場の滑走路の下にトンネルを作るというアイデアから彼らに出口を与えました。食料、戦争物資、人道援助がサラエボ市内に入ってくることを可能にしたのです。様々な困難を乗り越えトンネルを使用できるようになるまで6か月以上かかりました。1993年7月20日午後9時頃、D地点とB地点の作業員がとうとう出会うことができました。

荷車が使われ石油、爆弾、兵器、食料、医薬品が運ばれるようになりました。掘削完了当日、早速市内に12トンの物資が搬入されました。トンネルは大事な生命線となりました。
トンネルを通り人道援助、救助が盛んに行われました
ボスニア紛争中UNHCRは食料や医療支援、難民保護、帰還支援等行いました。しかしUNに対してボスニア側目線における微妙なニュアンスも伝わってきました。一般的にはUN軍がボスニア紛争において任務を遂行する上で不十分であったと言われています。
ボスニア紛争中に赤十字は多くの支援活動を行いました。人道的な緊急援助、医療支援、捕虜の保護、人道法の促進など多岐にわたりました
武器や兵器も運ばれました
輸送は800mのトンネルに2時間費やすこともありました。絶え間ない砲撃が続く中でも夜間にトラックは危険と隣り合わせでヘッドライトを付けずに市内へ物質を運搬しました
人道援助パッケージは今でも食べられている缶詰メーカー、チョコレートバーなどが見られます
給水を貰いに行くためのポリタンク。インフラは全て止まっていました
ZASTAVAは当時ユーゴスラビアの軍用兵器や車の製造を過去行っていました。このトラックを使用して包囲中のトンネル工事の資材運搬を輸送していました。このトラックの運転手の家族が車体をトンネル博物館に提供しました。
軍用物質
奥に飾られている青い背景に6つのユリのサインはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍ARBiHのマークであり、ボスニア紛争勃発後の1992年に創設された国軍です。1995年のデイトン合意による紛争終結後は、ARBiHはBiH連邦軍に再編され、2005年ボスニア紛争時に戦闘相手であったスルプスカ共和国軍(VRS)とBiH連邦軍は統合されました

博物館ではドキュメンタリー映像、戦争写真、軍事装備、旗、軍服などのアーカイブ資料も展示されています。

戦時下のサラエボ市民
寒冷地ゆえに暖を取らなくては生死に関わります。材木や屑鉄を拾い集めているのでしょう

サラエボトンネルはサラエボ包囲の象徴的な存在となり、市民の生活を支える重要な役割を果たしました。そして現在では歴史と戦争の記憶を伝える場所となっています。訪れる人々にとってトンネルは戦争の悲劇と人々の困難な状況を物語る重要な史跡です。

戦時下でも
愛は止められない

Tunnel of Hopeへ行く最中、道に迷ってしまいました。

狭い一本道
草原過ぎて
観光地の博物館行にしては
農免道路風です

おじいさんに助けられる

屋外でコーヒーを飲みながらノンビリ友達とおしゃべりしていたおじいさんが車内で地図アプリを見て困っている私に声を掛けて下さり、道案内をしてくれました。目的地に着いた途端おじいさんと私は抱き合って大喜びをしました。心からの感謝を伝え、又、駐車場で働く男の子たちがおじいさんをヒーロー視!その親切ぶりを称えていました。おじいさんも過去トンネルに関わった人でしょう。ボスニアの人々は大変温かく愛情深い人が多い国です。外国人の私に嫌な顔をせずに言葉が通じなくても大切にしてくれます。毎日のように皆さんの親切に触れており感謝が尽きません。

日曜はドライヴに最適
トンネル博物館は
Ilidžaイリジャという街にあります
飛行場がありサラエボ市から
車で約20分で
大変美しく整備された街です

お食事🍚情報

La Trattoria

Restraunt&Pizzeria
ビルの外観は本当に古いです
内戦中の崩れと経年劣化です
Dekanter
というな名のワインバーが
お隣にあります
店主が開錠して
店内を見せてくれました
「今度、夜に飲みに来ます!」と
言いましたが・・・
I am a beer person.
お酒が何でも好き
というわけではなくて
ビールだけ好き
なのです
sorry
🍺
ちなみにサラエボビールを注文ですが
グラスはベルギービール
STELLA ARTOIS
シェードの下のテラス席
シーフードリゾット
大きなエビが入っていて
トマト味
カルボナーラは細麺
もちろん牛のベーコン

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