悪魔

久子はその手紙を手に取り、思わず口を押さえていた。
アイボリー色の便箋に、赤い文字。
その内容は、娘・涼香への憎悪で溢れていた。

死ね。
おまえなんか死ね。
殺す。
ぶっ殺す。
八つ裂きにする。
ナイフで、包丁で、切り刻む。
チェーンソーで首を切り落とす。
ビール瓶で頭を叩き割る。
目をえぐる。
鼻を削ぐ。
唇を噛み砕き、舌を切り落とす。

そこまで読んで、久子は目を伏せた。

「これ書いたの、隆也さんじゃないの?」

大島隆也。涼香が三ヶ月前に別れた恋人だった。

「違うの、お母さん、それは」
「いいえ、この字はたしかにあの人の字だわ。このクセ、見たら忘れないもの」

小さいハネに、直線的な文字。大島隆也の字にはたしかに特徴があった。
久子は一度だけ、隆也から手紙を受け取ったことがあった。
日頃の感謝を綴った手紙だった。
隆也には身寄りがなく、久子のことを本当の母親のように慕っていた。

その隆也と、涼香が急に別れたと聞いた時、久子は耳を疑った。
あんなに仲の良かった二人が、どうして。

「心配して来てみたら、案の定だわ」

同棲していたマンションを引き払い、涼香は一人暮らしを始めていた。
傷心に加えて、残業続きの過労もあるようだった。散らかり放題の部屋はゴミがたまり、ひどい匂いだった。

「一体、なにがあったっていうの。隆也さんは、こんなことを書く人じゃなかった。こんな、、、これじゃあまるで、悪魔じゃないの」

悪魔、という言葉に涼香が反応した。身体が震え、目をふせたまま無言の涼香を、久子は抱きしめた。

久子はこの時、知らなかった隆也の一面を初めて知った気がした。
いつも笑顔が愛らしく、好青年だった隆也はもう久子の頭の中にはいなかった。
暴力的で感情的な、醜い人格の隆也がそこにいた。

「隆也さんは、今、どこに住んでいるの」
「知らない。もう、会いたくない。二度と」

涼香は泣いていた。そして、久子は確信した。涼香は逃げているのだ。あの男から。

—————

興信所を使って、隆也はあっさりと見つかった。
会社は変わっておらず、住所も県内だった。
拍子抜けした久子だったが、すぐに会えるようになったことにも驚いた。
探偵が偽名を使い、隆也の会社に連絡をした。
日時を指定し、偽のアポイントをとりつけたのだ。

もちろん、久子はそのことを涼香に秘密にしていた。
涼香がどうしてもあの男には会わないで欲しいと懇願したからだった。

とあるビジネスホテル一階のカフェ。
密会は、隆也の指定した場所で行われた。

そこへ向かうタクシーの中で、久子は隆也の書いた手紙を読み返していた。

腕を切り落とす。
足を切り落とす。
顔の皮を剥ぐ。
内臓をえぐり出し、口に詰める。
硫酸を全身にかけ、皮膚を溶かす。
ガソリンをかけ、黒焦げにしてやる。
このクソ野郎。
ゲス野郎。
ボケ。
カス。
ゴミ。
死ね。
死ね。
死ね!

お客さん、とタクシーの運転手に呼び止められて、久子は顔をあげた。
「着きましたよ、こちらのホテルですよね?」

気がつくと、久子は目的地に到着していた。
あまりの文章の醜さに、久子は気分が悪くなっていた。

怪訝な顔をした運転手に料金を支払い、久子は車を降りた。

でも、どうして。
隆也は、たしかに優しい青年だった。
子供の頃に両親を亡くし、施設で育ったせいか、愛情に飢えていた。
涼香は、そんな隆也にとって、始めて出会えた、天使のような存在だったはずだ。

たしか、3年付き合ったと久子は記憶している。
3年の間に、なにかあったのか。
それとも、もともと…

ーーーーーー

目の前に現れた久子を見て、隆也は驚きを隠せなかった。
隆也は黒いスーツを着て、ホテルの中庭が見渡せる広いカフェの、一番奥の席にすわっていた。隆也はウェブサービスの営業をしており、テーブルの上にはその資料が広げられていた。

「涼香の、お母さん。これは一体、どういう…」

気まずそうな隆也に対し、久子は厳しい態度を崩さなかった。

「隆也さん、あなたにお話があるんです。娘を、涼香を守るために」

髪をポニーテールにした女性のウェイターが注文を聞き、すぐにコーヒーを二つ持ってきた。水曜日の午前中とあって、ホテルのロビーはしんとしていた。客は、久子と隆也のほかに、若いカップルがいるだけだった。

「隆也さん、率直に聞きます。この手紙のことです」

久子はテーブルの上に、例の手紙を広げた。そして、赤い猟奇的な文字を隆也に見せつけた。

「隆也さん、これは、どういうことなんです」

隆也はすっかり、意気消沈しているように見えた。以前会った時より、10歳も老けているように見えた。頭は薄くなり、白髪も増えていた。顔にはシミができ、ほうれい線がはっきりと刻まれていた。涼香と同い年だから、28歳のはずだ。しかし、娘の同世代の人間だとは、どうしても思えなかった。

「一体、なにがあったと言うの」

隆也は俯いたまま、なにも言わなかった。久子は続けた。

「私は、あなたのことを、とても優しく、まじめな人だと思っていたわ。だから、涼香と付き合うことも認めたの。あなたに涼香を任せれば、安心だと思ったから」

はい、と隆也は小さく相槌をうった。
なにも言おうとしない、隆也に久子は少しずつ苛立ちを募らせていた。

「でも、この手紙を見て、あなたに対するイメージは180度変わったわ。あなたがこんなことを書くなんて、信じられなかった」

隆也は、久子の目を見た。そして、眉をしかめた。
しらを切るつもりだろうか、と久子は怒りを覚えた。
そして、最近ニュースで見たサイコパスと呼ばれる人格のことを思い出していた。
反社会的で、暴力的。他者に一切感情移入せず、人の痛みを理解できない。常時、病的に嘘をつく。

「あなたがこんなことを考えていたなんて信じられない。あなた、本当はサイコパスなんでしょう。あなた、悪魔よ。こんなことを娘にしようとしていたなんて、信じられない。娘を今でも殺そうと考えているの?もう、娘にはつきまとわないでちょうだい。もう二度と、娘には近づかないでちょうだい。あなたみたいな悪魔は、」

「何も聞いていないんですか、涼香に」

興奮して顔を赤らめていた久子の顔が、一瞬で固まった。
ついに隆也が、本性を現したのだと思った。

「この手紙はたしかに、僕が、涼香と別れる時に書いたものです。あいつときっぱりと別れるために書いたものです。金輪際、もう二度と、会いたくないと思って書いたものです。あいつの異常さを思い知らせるために書いたものです。僕は3年間、必死に我慢しました。僕にとって、始めてできた彼女だったから。かわいい、天使だと思っていたから。あなたのことも、本当に家族のように思っていた。でも、もう我慢の限界です。僕の精神は限界です。僕の肉体は限界です。こんなこと毎日言われて、それでも愛し続けることなんて、僕にはできない」

久子は、隆也が泣くのを始めて見た。大粒の涙が、便箋の赤い文字の上に落ちて滲んだ。それはまるで滴り落ちた血液のようだった。

死ね。
おまえなんか死ね。
殺す。
ぶっ殺す。
八つ裂きにする。
ナイフで、包丁で、切り刻む。
チェーンソーで首を切り落とす。
ビール瓶で頭を叩き割る。
目をえぐる。
鼻を削ぐ。
唇を噛み砕き、舌を切り落とす。
腕を切り落とす。
足を切り落とす。
顔の皮を剥ぐ。
内臓をえぐり出し、口に詰める。
硫酸を全身にかけ、皮膚を溶かす。
ガソリンをかけ、黒焦げにしてやる。
このクソ野郎。
ゲス野郎。
ボケ。
カス。
ゴミ。
死ね。
死ね。
死ね!

あなたみたいな悪魔は死んでしまえばいい。
さっきそう言いかけたのを、久子は思い出していた。

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