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FIP(猫伝染性腹膜炎)の治療の闇と真実

ネット上に氾濫するFIP(猫伝染性腹膜炎)に関する情報。
その真実を記載しています。

FIP(猫伝染性腹膜炎)とは?

現在、多くの猫は猫腸コロナウイルス(FECV)という弱毒性ウイルスに感染しています。FECVは初回感染時に下痢を起こすことがあるものの、その後は無症状で猫の腸管内に感染が定着します。現在はほとんどすべての猫の腸管内にFECVが感染していますが、生涯何も起こさずに天寿を全うすることがほとんどです。
しかし、このFECVが何かをトリガーに、別なコロナウイルスである猫伝染性腹膜炎ウイルス(FIPV)に突然変異すると、マクロファージという免疫細胞に感染し全身に拡がります。FIPVはマクロファージに感染すると、過剰な免疫反応を引き起こし、全身の様々な場所で炎症を起こしてしまいます。これがFIP(猫伝染性腹膜炎)です。FIPのトリガーは、ストレスやあるいは先天的な遺伝子の異常が考えられています。トリガーとなるストレスは、飼育環境の変化、過密飼育、手術などが挙げられ、FIPは若齢の猫での発症がほとんどであるため、ペットショップからのお迎え、去勢や避妊手術といった猫にとっての一大イベントはFIPを発症するトリガーとなり得ます。また同腹子で発症するケースもしばしば認められるため、ストレス以外の遺伝的な影響も考慮されています。
ベンガル、サイベリアン、アメリカン・ショートヘア、ブリテッシュ・ショートヘア、ロシアンブルー、スコティッシュ・フォールドなど純血種の猫でより発症しやすいことが知られていますが、その理由は不明です。

FIPの症状

FIPVは、マクロファージという血液中の免疫細胞に感染、増殖し炎症を起こします。マクロファージは全身のどこにでも移行できますので、あらゆる症状が起こり得ます。典型的な症状は以下の通りです。

  • 発熱、食欲の低下

  • 嘔吐

  • 腹水の貯留

  • 呼吸促迫(胸水の貯留)

  • 黄疸

  • 腹腔内リンパ節の腫大

  • 腎臓の腫大や変形

  • 眼の異常(ぶどう膜炎)

  • 神経症状(てんかん発作、運動失調、眼振など)

腹水や胸水が貯留する『ウェットタイプ』、リンパ節、肝臓、眼などに肉芽腫性炎症を生じる『ドライタイプ』に大別されますがこれらが混合していることも少なくありません。どちらのタイプかということは実はあまり重要ではなく、眼の症状や神経症状があるかどうかが重要です。これは、眼や脳には薬が到達しにくい身体のバリアがあるため、薬の用量を増やさないとそこまで到達しないためです。眼の症状や神経症状を見落とすことは休薬後の再発の一因とされています。
眼の症状は片眼だけ充血して眼が濁ってみえたり、瞳孔の左右のサイズが違うなどです。
神経症状としてはふらつきや、対象物との距離が測れないためキツツキのように器をつつくように食事を食べようとしたりといった症状が生じることが多いです。中にはてんかん発作(痙攣)が起こることもあります。
(巷では中国などのブラックマーケットのセラーが勝手に、初期、中期、後期などという括りを作っていますが本来そのような定義はありません)
FIPは急速に進行することがほとんどであり、数週間から1ヶ月で致死的な経過をたどりますが、ドライタイプの場合には数ヶ月間症状を呈していることもあります。

FIPの診断

病理組織検査というウイルスが感染した部位の一部を採取して、FIPVの存在を証明することが本来は確定診断に必要ですが、この検査は麻酔を必要とする上に結果が出るまでに時間を要します。上述のようにFIPは急速に進行する病気であり、実際に行われることはほとんどありません。
血液検査では下記のような所見が典型的です。

  • 高蛋白血症(高グロブリン血症)

  • 高ビリルビン血症

  • SAA(炎症のバイオマーカー)の高値

  • 貧血

特にSAAや顕著な高グロブリン血症はFIPに非常によく認められます。
抗体価検査が行われることがありますが、実はこれは微妙です。現在は多くの症例でコロナウイルスに罹患しており抗体価が高いか低いかどうかだけで発症の有無を判断することは困難でありあまり有用ではありません。
画像診断では、エコー(超音波検査)やレントゲン検査により腹水や胸水がないか、肉芽腫性炎症を示唆するリンパ節の腫大や腎臓などの臓器の腫大や不整な形状変化や炎症所見がないかを評価します。腹水や胸水は誰が見ても一目瞭然ですが、肉腫性炎症についてはFIPをある程度の数の診断した経験がないと難しいこともあります。
腹水などの貯留液やリンパ節は細胞診を実施し、細菌感染や腫瘍などの可能性を除外します。FIPではマクロファージの集簇を認める肉芽腫性炎症の細胞所見が認められます。

診断の決め手はPCR検査

PCR検査では猫のコロナウイルスを検出し、FECVとFIPVを区別するものではありません(FIPVを特異的に検出できる検査会社もあります)。しかし本来腸管内にしかいないはずのコロナウイルスが、腹水やリンパ節などのサンプルから多量に検出されればこれは診断の決め手となります。(糞便中のコロナウイルスは健康な猫もほとんどが陽性となるので意味がありません。)
腹水や腹腔内リンパ節など、画像検査で検出された異常な病変から採取した液体や細胞をPCRに提出することが重要です。
ただし、偽陰性や偽陽性も稀に認められるためPCR検査は上述の典型的な検査所見があることが前提となります。

FIPの抗ウイルス薬による治療

奇跡の薬 GS-441524
FIPは長年、抗ウイルス薬が存在せず不治の病とされており発症したら残念ながら基本的には100%亡くなってしまうという病気でしたが、GS-441524という抗ウイルス薬がFIPに非常に有効で、臨床試験では数多くのFIPの猫が治癒しているという衝撃的な研究結果が2019年に報告されました
※GS-441524のGSはライセンスを保有する製薬会社、ギリアド・サイエンシズ(Gilead Sciences)の頭文字です。
Efficacy and safety of the nucleoside analog GS-441524 for treatment of cats with naturally occurring feline infectious
GS-441524はまさに奇跡の薬であり、世界中の獣医師や猫の飼い主さんはこの薬がすぐに販売されることを期待していました。

ブラックマーケットにおけるGS-441524の違法販売

しかし、残念ながらギリアド・サイエンシズ社からはこの薬を猫の治療薬として販売することはありませんでした
そこに目をつけたのが、中国など海外のブラックマーケットです。ライセンスを無視しGS-441524を勝手に製造、販売する会社が次々と現れ、セラーが投与量を指示しSNSなどで情報を拡散していきました。これらの会社はブラックマーケットにおいて、GS-441524をMUTIAN(ムチアン)、CFN、メロンX、SPARK&AURA、ラプコンなど様々な名称で高額で販売するという手法をとり利益をあげていきました。一部の会社はギリアド・サイエンシズから販売を止められたものの、次々と名称を変えて再販売しイタチごっことなり現在に至ります。最近では、人用の化粧品などとして販売している製品もあり密輸のような状況が続いています。
ただし、これらの製品にはいずれも成分名はGS-441524ではなく、MT0901としていますがこれはGS-441524と全く同じ化合物であることが論文として報告されています。成分名としてGS-441524と書いてしまうと、ギリアド・サイエンシズ社から訴えられる、税関でも止められるため本当の成分名を書くことができない、それだけの話です。

ムチアンとFIP治療の闇

ムチアンなどのブラックマーケットの製品を購入することは、泥棒にお金を払う行為と同義です。例えるなら、自分の作った未発表の絵や作品を、他人が勝手にコピーして利益を得ている、そのような状態です。
しかし、それしかFIPの治療方法がなくそれを使って助かるなら頼りたい、その藁をすがる思いにつけこみ、ムチアンなどのGS-441524コピー製品の製造会社は『未承認薬であるから高価である』という名目で巨額の利益を得ると同時に、コピー製品を利用して利益をあげる一部の動物病院(ムチアン協力病院)が複数現れました。
このようにして『ムチアンを使えばFIPは治る』という事実が確立していったのです。そして多くのまともな倫理観を持っている獣医師はコピー製品を使用せず、FIPは一部のムチアン協力病院でしか治療できない、ある種の特権のようなものになっていきました。一方で、巨額の治療費のため、費用を工面することが難しいケースではクラウドファンディングが乱立し、ちょっとした社会問題となりました。
承認、未承認は獣医療において実はそれほど重要なことではありません。未承認だから高額?そんなことはありません。獣医師が用いる薬はほとんどは医薬品で動物用医薬品はごくわずかで、言ってみればほとんどが動物用医薬品としては未承認です。動物における薬の用量は人間の用量から外挿して使用されることすら少なくありません。問題の本質は『勝手に製造した薬を成分名を偽り、許可なく販売していること』です。
論点をすり替えてはいけません。

レムデシビルとGS-441524正規品の登場

FIPの治療薬が上述のようなブラックマーケットによる製品しか存在しなかった状態がしばらく続いていましたが、その後FIPの治療を大きく変化させる事態が起こりました。新型コロナウイルスの大流行です。
人類はかつてないコロナウイルスとの戦いを強いられ、コロナウイルスに対する抗ウイルス薬が早急に必要となりました。ここで、GS-441524に化学修飾を加えたレムデシビルが人間において安全性が担保されていたこともあり、コロナウイルスの治療薬として初めて承認されました。
レムデシビルは投与されると体内でGS-441524に代謝され、抗ウイルス薬としての効果を発揮しますので、レムデシビルとGS-441524は本質的には同じものです。そのため、FIPの治療薬としても極めて効果が高く、何より静脈注射できるという大きなメリットがあります。(静脈注射は血中濃度の上昇が確実です。)
その後、レムデシビルを84日間投与して、FIPを完治させたという症例報告がなされましたが、如何せん注射薬であり3ヶ月連日注射するというのは猫にとって非常に大変です。それでもFIPの治療を初めて医薬品で治療できるというのは獣医療にとって大きな一歩となりました。
そして、猫にとってさらなる朗報が舞い込んできます。英国やオーストラリアで、BOVA社からGS-441524の錠剤が規制当局の許可を受けて、正規の動物用医薬品として販売されるようになったのです。
これを受けて国際猫学会(ISFM)はレムデシビルを初期治療に、経口GS-441524錠を維持治療として用いる84日間のプロトコルを発表しました。既にこのプロトコルを用いて世界中で数百症例が治療を受けて治癒しており、レムデシビルとGS-441524は100%に近いほど高い奏効率があり安全性も極めて高いことが分かっています。
これらの薬は、日本国内でも輸入可能となり、漸く獣医師はまともな医薬品を用いて治療することができるようになりました。ただし、これらの正規品は非常に高価であり治療費が高額となる点だけが難点です。

モルヌピラビル

新型コロナウイルスの治療薬としては経口薬も渇望されており、その中で登場したのがモルヌピラビルです。モルヌピラビルは、細胞毒性が高いためこれまで抗ウイルス薬としての認可が降りていなかったようですが、5日間限定投与であれば投与可能であるとして承認されました。
モルヌピラビルの抗ウイルス薬としての作用機序はGS-441524と類似しており、FIPVにも高い抗ウイルス作用を示すことが論文として報告されています。ただし、人の新型コロナウイルスでの5日間投与と異なりFIPでは治療期間が84日間と長期にわたることから安全性については不明な点が多いのが現状です。
モルヌピラビルは国内では先発医薬品が、海外(インド)では後発医薬品が販売されております。レムデシビルやGS-441524と比べて非常に安価です。
GS-441524やレムデシビルはFIPで効かないことは殆どないと言っても過言でないのですが、モルヌピラビルはFIPに無効なことがあります。これはモルヌピラビルの代謝が速く血中濃度を維持できない猫がいること、抗ウイルス作用としてレムデシビルやGS-441524ほどの高い効果がないことなどが原因として挙げられていますが定かではありません。レムデシビルやGS-441524と比較するとまだまだ未知な部分も多い薬ですが、医薬品を用いた治療の選択肢が増えたことは大変好ましいことです。

GS-441524コピー製品の使用はなぜなくならないのか?

GS-441524の正規品やレムデシビルが利用可能となり、経済的なご事情がある場合には、モルヌピラビルという新たな選択肢も出来ました。それでもムチアンやラプコン、CFNなどのGS-441524のコピー製品の使用が日本国内ではいまだに続いています。
その理由は、これらのコピー製品がGS-441524とは別物としてオーナーさんに認識されているケースがあること、そして仕入れ値の違いによるものだと思われます(BOVAから正規品が販売されるようになってから、GS-441524のコピー製品の製造会社はこれまでよりも安価に販売するようになっているようです)。
また、ムチアンやラプコンなどの成分がGS-441524と似て非なるものとして真実を隠している獣医師もいるようです。ムチアンとGS-441524のどちらの方が効くかと聞かれても困ります。どちらもGS-441524です。
コピー製品の製造会社からの購入は、日本国内からの正規のGS-441524の販売を遅らせる原因になるだけではなく、このような会社を更に潤わせ、さらなる違法行為を助長することとなります。
海外のメーカーの分析ではコピー製品には1カプセルごとにGS-441524の含有量が異なっていることも示唆されています。もしGS-441524の含有量が少ない状態のものを投薬し続けたら、当然再発の原因となります。見た目ではどの程度GS-441524が含まれているか分かりませんし、このような違法行為を行う会社が、利益を高めるために意図的に濃度を薄くして販売しても不思議ではありませんし、こちらとしては気づく術はありません。
コピー製品にしか報告がない有害事象(折れ耳など)もあり、これはコピー製品に含まれるGS-441524以外の添加物の影響が考慮されています。
このように正規品ではなくコピー製品を優先して使用するデメリットはあってもメリットは猫にとっては何もありません。
正規品を使用している獣医師は日本国内は徐々に増えてきています。しかし、購入には英語でのやり取りが必要であること、ムチアン等のコピー製品よりも仕入れ値が高価であり病院の利益が少なくなるため、正規品を使いたくないという獣医師もいるのが事実です。
いまだに『ムチアンやラプコンはGS-441524と似ているが別物である。レムデシビルの安全性や有効性は不明だ。』という説明をする獣医師がいたらその獣医師は嘘をついていると思っていただいて差し支えありません。

再発はなぜ起こるのか?

FIPには一定の確率で再発が生じることが知られています。それはなぜ起こるのでしょうか?
下記が再発の原因として挙げられます。

  1. 不適切な薬の用量

  2. ウイルスが薬の届きにくい組織(眼や神経)に潜在

  3. 治療中にウイルスが変異し薬剤耐性を獲得

適切な薬の用量を用いて治療しなかった場合には、残存したウイルスが再増殖することがあります。これはコピー製品にも指摘されている問題で、○○mgと書いてあっても1カプセルごとに多かったり少なかったりしているために、適切な用量の調整が出来ず、少なかった場合には再発の原因になります。メーカーとしては成分にGS-441524は含まれていないという立場ですし、そもそもがペーパーカンパニーのような状態なので、この問題にまともに対応するつもりもないようです。
また、眼や神経にウイルスが潜在していると薬をやめた途端に再発することもあります。そのため、治療開始時にこれらの所見がないかを評価することが重要です。ただし、検査での異常や症状がまったくない状態でも脳神経組織などにウイルスが潜在していることが稀にあり、このようなケースは残念ながら事前に検出することができません。
すべてのケースで神経組織に到達する高い用量(通常の倍量)で投与すれば再発のリスクは下がるのですが、やはり費用の問題がネックとなります。

抗ウイルス薬を用いても亡くなってしまうケースは?

レムデシビル、経口GS-441524錠、モルヌピラビルといった医薬品を用いても残念ながら以下のようなケースでは亡くなってしまうことがあります。

  • 全身に進行し、多臓器不全となっている

  • 急性呼吸窮迫症候群を発症している

治療開始が遅れると、治療開始時点で腎不全や脳死状態になっていることがあります。このようなケースでは残念ながら救命は困難です。
また、稀ではありますがFIPは急性呼吸窮迫症候群(ARDS)という肺の障害を起こすことがあります。これは全身性の炎症に反応した好中球という免疫細胞が肺に集簇し、好中球から放出された蛋白分解酵素が肺の組織である肺胞や血管に障害を与えてしまいます。その結果として、急速に肺に水が溜まり呼吸不全となってしまうのです。これがARDSです。
FIPでは、発症から数日でARDSに至るケースがあり、ARDSに至った猫の致死率はその原因を問わず致死率100%と報告されています。人間ではエクモや人工呼吸などによりARDSから救命可能なこともありますが、猫ではまだARDSから救命に成功した報告はありません。
FIPで適切な抗ウイルス剤を用いても亡くなってしまうケースは、残念ながらあまりにも広範囲に病変があるケース、ARDSを発症してしまったケースのどちらかです。いずれにしても早期の治療開始が救命の一番のポイントになります。そのため、FIPが強く疑われる状況ではPCRの検査結果を待たずに治療を開始することを推奨しています。

この記事がFIP治療に悩めるオーナーさんのお役に立てば幸いです。

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