希死念慮 という言葉を知ったときに、生まれて初めて、自分は死にたいのかなあと思った。

人間は抽象的な概念を理解するとき、名前がついていないとなかなか難しいらしい。私だって、死ぬという言葉、概念なんか知らなければ、死にたいなんて思わなかっただろう。

死にたいことは、悪いことだろうか。死ぬことは、悪いことだろうか。さも悪い事のように教わるし、死にたいと言った人を後押しする人は圧倒的に少ない。不思議だなと思う。たかが一生、みんな死に向かって歩いていて、終わりが早まるだけで、大して変わらない。

周りの人が悲しむよ。そんなのは死ぬ当人からしたら何も関係ないことで、私が悲しいから死なないでだなんて、エゴで、傲慢だと思う。時にそれに救われることだってあるから難しいが。

後悔するよ、生きていればいい事あるよ、だなんて以ての外だ。なぜわかる?自分を前例に、全員がそうだと思ってはいけない。小さないいことを積み重ねてなんか居られないほど、大きな苦しみの中にいる人にそんな事を言うのは、崖の淵に立つ人の背中を蹴り落とすようなものだ。

おかしい。死ぬのは悪いことという風潮が。しかし、人間社会を崩落させずに営み続けていられるのは、死を自然に迎えるのがベストなものとしているからだ。そう考えれば、仕方がないのか。みんな薄々気がついていて、でも、そんなことを言ってしまえばこの世はおしまいになる。全ての価値が無に等しくなる。だから言わないのかもしれない。

死ぬのは自然な事だ。そして、自死は人間にしかできない。(と思う。詳しくは知らない。)そそのかしているわけではないけれど、皮肉にも、1番人間らしい死に方なんじゃないだろうか。

このことに気がついてしまったら、地球が滅びる前に、人類が勝手に自滅していくはずだと思う。長い長い年月をかけて。

同世代の子達の中で、たまにこんな話をする。40、50ぐらいで死にたいよね。年寄りばかりの社会で若者のお荷物になるくらいならね。

自死をする前提での話が、普通にある。言及はしないが、死にたい時に死ぬというのは、自死またはその時までに許されていれば安楽死によるものだろう。

なんで生きているかも分からないのに、死ねばすべて無くなるのに、理由を見いだして生きることが出来るのは、実はすごく強いことなのかもしれない。考えなくても構わないはずのことをこうしてぐだぐだ考えて日付を越すより、余程生産的だろう。

でも、疑問を抱かずに居られない。死ぬことはどうして悪なのか。そもそも、私がよくできた夢を見ているだけで、本当はこの世なんかないのかもしれない。だからいつ死んだって構わないし、その気さえあれば死ねるはずだ。それでも死んでいないのは何故かと考えると分からない。その時ごとに、死ぬ勇気に歯止めをかける何かがあったのだと思う。

終わり方が分からない。死にたいなとよく思うが、未遂に終わった記憶が頭にあり、怖くて前よりも死ぬ気は失せた気がする。そう考えれば、一度死のうとしてみるのも悪くない。こういうこと書くと怒られそう。推奨しているわけではないが、否定もしていないと書いておきます。

死にたい時に死ねるのが、幸せなんじゃないかと今は思っています。



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