シャンフルーリ「将来の版画」
【原典:Champfleury, « L'imagerie de l'avenir » dans Histoire de l'imagerie populaire, 1869】
【19世紀フランスにあって、あまり顧みられていなかった大衆藝術に着目し、民俗画の研究を行なっていたシャンフルーリは、まだ識字率の低かった当時、複製藝術である版画を国民教育に使うことを提言します。太字は原文にある強調、()は原註、〔〕は訳註です】
1. 教育手段としての素描について
何人かの偉大な人物が、とりわけ18世紀以降、素描による藝術とそれが大衆に与える影響について関心を寄せているようだ。ディドロはサロンで、あるいは絵画に関する数多の著作の中で、当時の藝術家たちの願望を露わにするのが哲学者の役目だと自任していた。同じ考えから、ゲーテも版画に親しみ、その利点について、自身の支持者であるエッカーマンと好んで議論した。
こうした道の末に現代がある、そして、少数の無精者が、週に一度、色のついているものなら何でも褒めそやし、新聞で楽な仕事をして身分安泰だと思っているにしても、新聞の文化欄という枷に首の皮を剥かれていない独立不羈の者たちによって、藝術についての重要な仕事や研究が、変わらず試みられてきた。
ある者たちによって明らかにされ、またある者たちによって広められて、人類の持つ知識に藝術についての知識が次々と加わった。美の重要性が認識されると、さまざまな試みを行なう産業界は、伝統との訣別のみを求め、最も取るに足りないものを藝術の頂上に置こうする。
1869年1月1日の歓迎式で、教育大臣がさまざまな計画について教師たちに語った言葉は、もっともである。「わたしは、民衆版画を正しい道へと戻すべく、素描画家〔色彩画家に対して、素描(デッサン)画家のこと〕を雇うつもりだ」
版画は藝術の序列において非常に低い位置に置かれているから、笑う者もいるだろう。若者の心に対する版画の影響力を知っている者は、この新しい教育の試みを称賛するだろう(学校向けに発行され、公教育大臣の後援で刊行される最初の図版は、純粋に科学的なものだ。情操は、追って別の版画で、科学の支えとなるだろう)。
貧しい者にとっての博物館、詩、図書館とは何であったか、わたしは長いこと考え、かつてエピナルが些か粗野ながらも素朴な製品を生み出したとき、いかなる法によって、ヴォージュの中心都市〔エピナルのこと〕が頽廃藝術の工場とされたのだろうかと、疑問に思った。その動きは、過度の中央集権化と、また、民衆詩が多くの証拠を与えてくれる逆転現象のひとつと、結びつけるべきではないか?
田舎者は都会の雰囲気を味わいたい。都会人が田舎の新鮮な香りに憧れているのも確かだ。われわれは民衆によって作曲された歌を研究するが、民衆はオッフェンバックの下手な模倣に興味を持つ。われわれは原初の巨匠、真摯に人間の顔を描いていた者たちの記憶と作品を思い起こすが、村にはガヴァルニの少し堕落した安易な優雅さが浸透する。
これが自然に起こる平衡機構であり、統御しようとするのも尤もだ。
版画によって民衆の教育に気を配るのは有益だ。しかし今日の藝術家はこの教育に適しているか? わたしはそうは思わない。これまで藝術家がほとんど考えてこなかった思想が必要となるだろう。その思想を生み出し、また思想を展開しても狭義の藝術を実践する支障とならないようにするには、藝術家の教育から始めるべきではないか?
現代において、おそらく均衡を欠いているために、空論家となって藝術に悪影響を及ぼし、もはや嫌々ながら藝術に関わっている探究者が、しばしば見られる。
思想と絵画は、まるで敵どうし、互いに支え合おうとすべきなのに、一方が他方を食いものにしている。
多くの藝術家は思想を軽蔑している。その嫌悪感は、思想を絵画に適用する必要性が感じられないためだろう。藝術家は思想に何の関心もなく、考えても役立たずのがらくたができるように見えるのだ。
10年ほど前、わたしの友人の画家は、藝術には部屋を飾るための小さな絵画を作る以外の目的があると気づいた。――何をしよう? と彼は言った。
産業が、世界の覇権と資本を奪取し、大聖堂よりも広い場所を占め、産業の殿堂の何もない壁を覆うに相応しい藝術家を期待している。
地下深くから採取された産物が駅の壁に描かれたら面白いと思わないか? 鉱山での人間の労働を描いた美しい絵だ! あらゆる種類の偉人には、豊かな畝がある。大地は傑出した知性を生み出した。美しい肖像画だ。経路上に何と多くの興味深い記念碑が建つことか! 産業の場面、風景、有名人、偉大な歴史情景と組み合わされた建築だ。
――ある鉄道管理者はわたしに言った。「もし藝術家がそのような構想を描いてサロンに出展したら、われわれ大企業が実現手段を提供するに違いない(最近いくつかの新聞が報じたところによれば、わたしが1861年に「昔と今の偉人たち」で挙げた人物たちを、装飾家たちに駅に描いてもらうという)」
しかし、ほとんどの画家は、そのような計画を前にすると、尻込みする。多くの異なる要素を組み合わせねばならない。風景、記念碑、偉人、産業労働、歴史情景を、紋切型の象徴表現など役に立たない構図で描く! 現代の藝術教育は、こうした構想を実現する準備となっていない。
民衆版画は、はるか下位の序列に属するせいで、やはり同じくらい難しい。計画を定めるだけでは充分でない。計画はときに限界となり、ときに障碍となる。そこに間隙があり、協力しようとする知性をしばしば遠ざける。真の藝術家は、決められた時間に注文に応えられるものではない。思想が取りこまれ、血管をめぐり、脳を温め、手を動かしはじめるまでに、どれほど時間のかかることか!
もっとも、いくつかの実践を試みてもよかろう。
1848年、国民が自らを統治できると信じたとき、民衆教育のために多くの計画が提案されたが、ほとんどは草案のままに留まった。若い共和国に欠けていたのは、頭数ではなく、国民の昂揚だった。1793年には渇望が溢れており、すぐさま実行に移された。1848年、予期せぬ革命に驚いた者たちは、民衆と中産階級が合意して新たな制度に従うだろうかと、不安げに疑ったのだ!
フレデリック・ヴィヨ氏は、自らの職責において、美術館行政にどれほど多くの改革が必要であるか証明し、藝術に捧げた人生で得られた多彩な知識を大衆教育に役立てることで共和国に奉仕した、稀有な人物のひとりである。重要な計画のひとつとして、ヴィヨ氏は木版画学校の設立を提案した。ルーヴル美術館の傑作は、ティツィアーノやルーベンスの製版者たちが巨匠の作品に加えた力強い特徴とともに、大きな版で複製される。まだ若く、また常に情熱的なウジェーヌ・ドラクロワは、重要な作品を木版画の複製で大衆に広めるべく、自ら《メデューズ号の筏》をペンの太い線で描こうと申し出た。民衆の心を温めるのに適した他の絵画も、梨の木の版という経済的な方法で、すぐに出版されることとなった。《アンリエットとダモンの不幸》も、その価値は充分にあっただろう。
行政はフレデリック・ヴィヨ氏の計画に従わなかったが、ウジェーヌ・ドラクロワは計画に熱心だった、というのも、即効性という考えを統治者の心に植えつけるのは時間がかかって難しいからだ。
2. フランスは無知のままに留まらない
わたしの目の前に、1852年から1867年までの、フランスの教育の進歩を表わす地図がある。地図は3色で塗られている。黒は無知、黄は進歩、白は得られた結果を意味する。1852年、フランスの3分の2は黒だった。そして、教育によってもたらされた改善の連続を示す一覧表がなければ、最近まで領土の6分の5を覆っていた染みを見て、恥ずかしくなるだろう。
不吉な染みは年々縮小し、国によって派遣された教師たちの平和的な連隊を前にして逃げ去った。多大な努力の成果を確認すれば安心できるだろう、フランスは無知という癩病を取り除きつつあるのだ。子どもを診る医師が、年を追うごとに、巧みな治療によって慢性病の厄介な症状を消してゆくように、われわれは、フランスの中心部、いわば胃袋をいまだに醜い染みで侵食している無知を、たゆまず監視し続けねばならない。
アンドル、シェール、アリエ、オート=ヴィエンヌ、アリエージュ、ピレネー=オリアンタル、ランド、モルビアン、コート=デュ=ノール、フィニステールは、今でも無知の色に染まっている。住民の半数は読み書きできない! 他にも、乾いた土地に水を浸みこませるように、ひたすら教育を施さねばならない地域がある。ニエーヴル、コルシカ島、ロワール=エ=シェール、サルト、アンドル=エ=ロワール、ピュイ=ド=ドーム、メーヌ=エ=ロワール、さらにはセーヌ=アンフェリウールでさえ、ゆっくりとしか進歩しない。これらの地域の住民は、まだ100人あたり30人以上が全く読み書きできない。
こうした数字を見ると、義務教育という考えが認められてこなかったのに驚く。いかに精神の進歩が遅くとも、いかに獣性が逆らおうとも、権威に従わせるのが、服従させるには有益なのだ。騎手は進もうとしない馬に拍車をかけるが、最も人間的な通行人は自由であっても叛乱を起こさない。
子どもを教育する義務は、一定数の臆病な人間を怖気づかせているので、他の手段を用いねばならない。
3. 視覚教育の必要性
フランス全土で売られるようになった一枚絵は、とりわけモーゼルとバ=ランから始まった。
あらゆる民族、あるいは未開人にとってさえ、図像は教育の第一手段である。木の幹から斧で彫り出された偶像は、唇がかろうじて人間の言葉を呟く者たちに、この神こそ崇拝されるべきなのだと伝える。
ロレーヌやアルザスのひとたちは、版画を使ってさまざまな知識や教訓を学んだ。図像は、君主への敬意や、勝利と征服の記憶を教えた。また、キリストの伝説を一連の絵に描いて、女性の信仰心を喚起した。
勤労意欲の高い地域にも、怠け者や酔っぱらいはいた。放蕩と酩酊の結果は、快活さの下に道徳を隠している一連の絵で明示された。放蕩息子は、畑を離れようとする者たちの眼前に絶えず置かれた教訓だった。笑いたがりのひとたちにとって、その図像は心地よく楽しいものだった。
そうした面白い絵の説明文を読めないために、どれほどのひとが悔やんだに違いないか! 自分の無知を嘆き、「子どもには文字の読みかたを学ばせたい!」と思った者が、少なからずいたのは確かだ。図像は読む勉強につながり、読む勉強は書く勉強につながった。
今日でも、無知の不幸に包まれた地域を前にして、われわれは同じ成果を目指すべきだろう。
聡明な出版者とは、地図のまだ黒い部分を観察し、版画を刷新し、恵まれない地域の行商人を統率して、教育の進歩を促す者であろう。よい行ないであり、よい作戦でもある。
1867年の時点で、人口の半分が読み書きできない県は、まだ28あった。図像は教育の導きの糸であるべきだ。
しかし、今日の版画は使えない。エピナルの工場は「動く足」〔Le pied qui r'mueは1863年に流行したポール・アヴネル(Paul Avenel)の歌。ここではそれを元にした版画のこと〕に夢中であり、他の地域の工場はパリの製品〔19世紀に、種類を問わずパリで作られた商品を指して「パリの製品 articles de Paris」と呼ぶのが流行した〕に夢中のようだ、危険とまでは言わないが役に立たない。
計画をなぞりはしないが、ドイツ人がどのように図像を理解し、どうやって利用し、どのような優れた藝術家を起用しているか、指摘せずにはおれない。
衒学的ではないが見え透いて教訓的でもない言葉で民衆に語りかけるのは、困難な仕事である。
1849年、藝術家の鉛筆によって描かれた民衆の意識に何ができるかを示す例があった。
ドイツでは、血なまぐさい叛乱〔フランスの二月革命が波及して1848年からドイツ(プロイセン)で起こったベルリン三月革命、より直接的には1849年5月3日のドレスデンでの民衆蜂起のこと〕に続いて、1849年に「死者の舞踏」が現われた。その影響力については先に述べた〔これより前の章で解説している〕。こうした版画はまさしく民衆藝術に属している。しかし和解という思想を欠いている。
藝術の至高の目標は、和解である。
もっとも、この恐ろしい表象を描いた画家は、和解を信じていた。その証拠に、〔アルフレート・〕レーテルは民衆のために先の絵と同じような家庭の情景をいくつも魅力的に描いたし、真面目で敬虔な彼の絵は常に示唆に富んでいる。
これが版画の役割である。
われわれの先祖は、子どもの揺りかごから老人の肘掛け椅子まで、人間とその情念の栄枯盛衰を描いた「年代図」のような民衆版画を眺め、考えていた。金銭は他の版画でも印象的に表現されている。仕事と怠惰もまた、版画家たちの鏨を奮わせた。
これらは、藝術が半ば隠しながらも常に施しを与えたがっている、永遠の題材である。
(訳:加藤一輝)