ダランベール「翻訳技術についての考察」

【原典:D'Alembert, « Observations sur l'art de traduire en général, et sur cet essai de traduction en particulier » dans Mélanges tome III, 1759】
【正式な表題は「翻訳技術一般について、そしてとくにこの翻訳の試みについての考察」です。「この翻訳の試みについて」とあるのは、この文章はダランベール自身によるタキトゥス『年代記』の抄訳の前に置かれたものだからです。直訳か意訳か、形式等価か動的等価か、正確性か可読性か、といった選択と逡巡が、実践者の立場から仔細に語られています。本文中の()は原文にあるもの、〔〕は訳註です】

わたしはここで規則を説くのではない。翻訳技術を巧みに操った優れた作家たちならば、もっと立法者を自任するに相応しかっただろう。けれども彼らは、規則を成文化するよりも、実例を示すのに長けていた。彼らの仕事に込められた技術を研究しよう、口論の種になる不確かな決めごとではなく。実際、どのような戒律が、偉大な模範の研究よりも望ましいというのか?模範はいつでも啓発的だが、戒律はときに有害である。文学のあらゆる分野において、理性が少数の規則を作り、それが恣意的に拡張され、衒学趣味によって鉄枷となり、先入観によって重んじられ、才能ある者でもあえて破ろうとはしなかった。美術界を見回せば、凡才が何にでも規則を押しつけ、天才が身をかがめて規則に従っているのが、あちこちで見られる。君主が奴隷によって檻に入れられているのだ。もっとも、支配されるべきでないからといって、何でもしてよいわけでもない。この原則は文学の進歩にとって非常に有益であり、創作だけでなく、翻訳などの模作にもやはり適用されるべきだと、わたしは思う。この論考では過度の厳格と寛容を慎もう、どちらに行き過ぎても同じくらい危険なのだ。翻訳の規則について、まずは各言語の性質から、次に作家の特性と比較して、最後にこの種の書物において打ち立てられるであろう原則との関係において、考察しよう。

ある言語が正確に別の言語から作られていたら、翻訳技術は何にも増して簡単だろうと、一般には信じられている。その場合、凡庸な翻訳家が多くなり、優れた翻訳家は少なくなるだろうと、わたしは思う。凡庸な訳者は盲目的な直訳に留まり、その先を考えようとしないだろう。優れた訳者は、さらに文体の調和と宛転を望むのだ、優れた作家が蔑ろにしたことのない資質ふたつであり、一部の作家の特徴でもある。したがって翻訳家は、どのような場合に正確で完璧な類似よりも勢いを削がない程度に優雅な言葉づかいを優先してよいか見極めるため、とても敏感でなければならない。執筆技術、とくに翻訳技術における大きな難題のひとつは、力強さを高貴さに、正確性を可読性に、厳密な調整を文体の働きに、どこまで譲ってよいかということだ。理性は厳しい審判であり畏怖すべきだが、耳は誇り高い審判であり尊重すべきだ。だから、言語の性質上直訳できなくはないように見えても、別の理由から瘦せこけて硬く調和のない翻訳になりそうであれば、直訳を旨としてはならない。

もっとも、諸言語の性質の違いゆえ、直訳で済むことはほとんどなく、訳者は先に述べたような難題から解放され、正しさのために心地よさを犠牲にしたり、心地よさのために正しさを犠牲にしたりする必要はない。しかし、原文を一行ごとに翻訳できないために、翻訳家には危険な自由がもたらされる。模倣が完全な類似とならない中で、模倣でも可能なことを尽くしそびれていないか、気をつけねばならない。それに、母語の機微を知悉するのにこれほど研究を要するならば、ひとつの外国語の機微を解き明かすには、さらに相当な研究を要するのでないか?この二重の素養のない翻訳家とは何なのか?

この点についてはあまり困っていないはずだと思われている者がいる。それは古代作家の訳者だ。原文の言葉づかいの機微が翻訳家に分からなければ、鑑賞者にとっても分からない。ところが、奇妙な宿命によって、そうした翻訳家は他の翻訳家よりも厳しい扱いを受けている。古代に対する買いかぶりから、われわれは古代人が常に最も見事な方法で表現していたと思っている。われわれの無知は、原型を有利に、複製を不利にする。翻訳家は常に、原典が自らわれわれに差し出す考えより劣っているのではなく、われわれが原典に対して抱いている考えよりも劣っているように見られるのだ。そして、矛盾を完璧にすべく、われわれは同時に現代のラテン語学者たちを賞賛している、その大多数は母語では面白くもないのに、もはや存在しない言語でわれわれを圧倒してくる。それほどまでに、作家と同じく言語もまた、死んだものはすべてわれわれの敬意を受ける権利が多分にあるのだ。

しかし言語によって性質が異なるというのは本当だろうか?と言われるだろう。哲学精神を自負し、ときにはそれを露わにした現代の文学者たちが、逆の意見を主張していたことは、われわれも知らないではない。おかしなことに、慣例によって、そんな意見を押しつけるつもりなどない哲学精神に対して、甚だ不当な非難が向けられてきた。天才の手にかかれば、どの言語もあらゆる文体に適合するに違いない。内容や書き手によって、軽妙にもなれば感動的にもなり、素朴にもなれば気高くもなるだろう。この意味で、言語には言語どうしを区別する特徴はない。しかし、どの言語も同程度に各種の作品に向いているとしても、あるひとつの概念を表わすのに同程度に適しているわけではない。これこそが言語の性質の多様性を成している。

諸言語は、この多様性の結果として、互いに優れたところがあるはずだ。もっとも、一般的にいって、言い回しが多様で、構造が簡潔で、自由度や豊かさの大きい言語ほど、優れているだろう。ここでいう豊かさとは、ひとつの概念をやたらと多くの同義語で表わせることではなく、それぞれの概念の機微を異なる言葉づかいで表現できることである。

文人によって培われたあらゆる現代の言語のうち、最も多様で、最も柔軟性があり、最も形式の融通が利くのはイタリア語だ。また、イタリア語には優れた翻訳が優れた声楽と同じくらいたくさんある、声楽じたい一種の翻訳なのだ。逆に、われわれの言語は最も厳しい規則、最も一様な構造、最も窮屈な運びをしている。詩人と同様、翻訳家にとっても厄介な言語だとして、驚くことがあろうか?しかし、このような困難は、どのような効果を必然的にもたらすか?われわれはフランスの作家を高く評価するようになる、かような困難のためにわれわれには凡庸なものが届かないからだ。

言語に特質があるとすれば、作家にも特質がある。だから原典の性格は模倣にも伝え渡されねばならない。それこそが最も要求されていながら、最も実践されておらず、さらには読者ですら最も気に留めていない。最もかけ離れた作品を、心も表情も持たない整った美人のごとく、同じような作風にしている翻訳が、どれほど多いか?言うなれば、ある訳業に対して最も害をなす種類の誤訳が、そこにある。ほかの誤訳は一過性であり自ずと修正されるが、その誤訳は継続的であり直しようがない。消せばなくなるような欠点など欠点の名に値しないも同然だ。作品を殺すのは、間違いではなく生気のなさだ。作品が不完全になるのは、たいてい著者の配置したものによってではなく、作品に存在しないものによってである。

訳業のうちに原典を生かすのは、原典の表現を見誤ったり一面的にしか見なかったりしがちなだけに、難しい。たとえば、ある作家が簡潔さと力強さというふたつの性質を持つ文体だったとする。というのも、このふたつの性質が必然的に結びついていると考えてはならないのであって、簡潔さが冷たさや素っ気なさを伴うこともあるからだ。けれども、ある訳者は、先の著者に似せるために、簡潔であることで満足するだろう。しかし簡潔であっても力強くなかったら、似せるために最も重要な部分を欠くことになる。

しかし、その気質を生まれ持っていなかったら、どうやって異質な性格を身にまとうのか?したがって、才能ある人物は、そのひとと似ており、肩を並べつつ真似できる者によってのみ翻訳されるべきだ。凡庸な絵を描く画家でも模写に秀でることはできる、とされる。しかし絵の模写は創意工夫なく真似ればよいだけだが、翻訳家は自分の色を使って模写せねばならない。

作家の特徴は、思想か文体か、あるいは両方にある。思想に特徴のある作家は、外国語に移されたときに失うものが最も少ない。よってコルネイユはラシーヌよりも翻訳しやすいはずだし、逆説的に聞こえるだろうが、タキトゥスはサッルスティウスよりも翻訳しやすいはずだ。サッルスティウスは何でも語っているが、簡潔だから、翻訳では残すよう心がけねばならない。タキトゥスは仄めかしが多く、読者に考えさせるので、翻訳では失わせないよう気をつけねばならない。

優れた思想を優れた文体に乗せた作家は、文体だけが魅力の作家よりも多くの手だてを、訳者に与える。思想と文体を兼ね備えた作家であれば、訳者は思想的特徴を、つまりは著者の精神の少なくとも半分を訳文に移せたと自負できるが、文体こそ肝である作家は、訳者が言葉づかいを翻訳しなかったら、何も翻訳していない。

そうした翻訳にとってとりわけ厄介な作家のうちでも、最も与しやすいのは母語を上品に使うのが主要な美点となっている作家であり、最も手ごわいのは自己流の書きかたをする作家だ。イギリス人はラシーヌの悲劇を上手く翻訳しているが、フランス語による作品としては最も独創的と思われるラ・フォンテーヌの寓話を同じように上手く翻訳できるか疑わしい。『アミンタ』は、恋の細やかさに満ちた牧歌であり、心地よい些事を描くにはイタリア語こそ相応しく、イタリア語に任せておくべきものだ。『セヴィニェ夫人の手紙』は根本的に軽く、文体に無頓着だからこそ魅惑的である。これらの作品を、翻訳できないといって軽蔑する外国人もいる。実際、困難を切り上げるには軽蔑が一番なのだ。

詩人が韻文で翻訳されることは、とりわけフランス語において可能なのか?という疑問がある、われわれの言語はイタリア語や英語のような無韻詩を認めず、翻訳家にも詩人にも許さないからだ。多くのフランスの作家が、制約を好むがゆえに、あるいは詩を愛するがゆえに、詩人を散文で翻訳することはできない、それでは詩人を歪め、重要な魅力である調子と調和を奪うことになる、と主張した。韻文にしても、翻訳というより模倣ではないか?という疑問が残る。ふたつの言語の響きの違いだけでも、韻文での翻訳には乗り越えようのない困難がある。代わりばえのしない脚韻と句切りで、画一的な展開の、言ってしまえば単調なフランス語の詩が、ギリシャ語やラテン語の詩の変化に富んだ韻律を表現できると信じられようか?しかし響きの違いなど障碍のうちでは最も小さい。ウェルギリウスやホメロスの数節をフランス語に翻訳し得た偉大な詩人たちに訊いてみよ。自分では描けない概念の代わりに、同じくらい的を射た自家薬籠中の着想を持ってきて、描写の詩句を感情の詩句に、力強い表現を激しい言い回しに、華麗な響きを思慮深い韻文に置き換えざるを得なかったことが、何度あっただろう?一例だけ挙げてみよう。自ら命を絶った不幸者たちを描くウェルギリウスの美しい詩句をご存じだろう。

自らの手で自らを殺す
無実の者、光を嫌って
命を投げ捨てる。
Qui sibi lethum
Insontes peperere manu, lucemque perosi
Projecere animas.

詩人は「光を嫌って、命を遠くへ投げ捨てた」と述べている〔『アエネーイス』第6巻第434-436行〕。われわれの言語は臆病だから、じつに生彩で上品なこの描写を使わせてくれない。フランスの偉大な詩人のひとりは、以下のような2行に置き換えた。

虚弱かつ狂乱のうちにあって、もはや耐えられなかったのだ、
神に課せられた人生の重荷に。

ふたりの詩人のどちらが好まれるかは判断しがたいだろう。けれどもフランス語の詩句がまったくラテン語の詩句の翻訳になっていないことは容易に分かる。ある詩人を散文に翻訳するのは、詠唱〔アリア〕を叙唱〔レチタティーヴォ〕にするのと同じである。韻文にするのは、詠唱を別の詠唱にすることで、それは元の歌に引けを取らないかもしれないが、同じ歌ではない。片方は似せた模作だが韻律がない。もう片方は模倣というより主題を同じくする作品だ。ならば他言語の詩人をよく理解するにはどうしたらよいか?その言語を学ばねばならない。

以上の考察から導ける結論は何か?どれほど困難を克服できたかによってのみ評価するのであれば、おおよそ創作よりも翻訳のほうに価値がある。天才ならば骨を折らずとも考えやそれに相応しい表現は浮かぶ。われわれの持っていない考えをわれわれに適した形で表現するのは、まさしく技術の賜物であろうし、手の内を明かせないだけにいっそう偉大である。しかし、いくら隠れているといっても、技術が込められていることは分かるのであって、だから独自の作品のほうが模倣による作品よりも好まれるのだ。われわれにとって天性とはいつも権威あるもので、天性のみによる作品にこそ心打たれるのが常である。したがって、自然の土壌から普通の耕作と平凡な栽培によって生まれた果実のほうが、同じ土壌で多くの手間と工夫をかけて育てあげた外国の果実よりも好まれる。外国の果実を味わったあとで、必ず地場の果実に戻るのだ。

しかし、創造的な作家を正しく最上級に置くとして、優れた翻訳家はそのすぐ下に、そして凡人と大差ないことしか書かない作家たちよりも上に、置かれるべきだろう。ところが、われわれの間では、異国の役柄を身にまとうことで成り立っている技術すべてに一種の不幸が貼りつけられている。不当きわまりない偏見によって貶められている技術もあれば、充分に重んじられていない技術もあり、翻訳家という職業もそのひとつなのだ。

翻訳家の仕事が報われず、優秀な翻訳家の数が少ないのは、そうした不当な扱いのためだけではない。翻訳家が技術を駆使しながらもたくさんの壊しがたい束縛に出くわしているのに、われわれは進んで束縛を強めて喜び、まるで翻訳家の意気を挫いて役立たずにさせるかのようなのだ。

翻訳家が苦しむ束縛のひとつめは、ひとびとが翻訳家に課す、あるいは翻訳家が自ら課しているもので、原著者に対抗しようとせず写字生に徹することだ。妄信的に原典にこだわる翻訳家は、出来のよくない部分でさえ、装飾を加えたら涜聖の罪を犯した気になる。翻訳家は、自分を原典より下位にしか置かず、またそれを苦にも思わない。熟練の版画家が、巨匠の絵を模写するとき、細かく僅かな加筆で美点を引き立て欠点を隠すのを自重するのに近い。翻訳者はしばしば著者の下に立つよう強いられているが、上に立てるならば立つべきではないか?こうした裁量は勝手放題に堕する危険があると反論されるだろうか?適切な原典を選べば修正や装飾の機会は稀であり、もし度重なるようならば翻訳する価値がないのだ。

翻訳家が自縄自縛している障碍のふたつめは、少しの勇気で原典の横に立てるときに自らを引き留める臆病さである。ここでいう勇気とは、原典にある鮮烈で力強い表現を翻訳すべく新たな表現を試せることだ。確かに、このような逸脱は禁欲的に行なわねばならない。それでも間違いなく必要なのだ。どういった場合に必要か?翻訳困難である理由が言語の性質のみに起因する場合だろうか?各言語にはそれぞれ変えようのない文法がある。ラテン語をフランス語によって語るのは、見事な冒険というよりおかしな企てだろう。だが、著者が母語において天才的な表現を使ってみたらしいと分かる場合は、似たような表現を求めてよいだろう。はて、天才的な表現とは何か?奇を衒ったり投げやりに述べられたりした新しい単語ではなく、新しい考えを力強く伝えるために、やむを得ず既知の表現を上手く組み合わせることだ。文筆において、革新のために許される、ほぼ唯一の方法である。

新たな表現に最も不可欠な条件とは、制約に要請されたからといって、読者にその制約を思わせないことだ。ときに流暢かつ奔放にフランス語を話す才気煥発な外国人に出会うことがある。そうした外国人は、話しているとき母語で考えてフランス語に翻訳しているが、そこで使われる強烈で独特な言葉づかいは語法の許すものでないのが残念に思われる。この外国人による会話は、まともな会話だとすれば、よき翻訳の姿である。よき翻訳において原典は、ありのままの母語を守ろうとする妄信的な小心ではなく、ある言語の言い回しを借りて別の言語を少しばかり美しくできる気高い自由を持って、われわれの言語を話さねばならない。そのとき翻訳は、評価されるべき特徴をすべて備えたものとなる。簡潔で自然な雰囲気、原典の特質の刻印、そして同時に外国色のもたらすであろう土地の薫りだ。

したがって、上質な翻訳は言語を豊かにする最も確実かつ即効の方法である。この恩恵は、古代人を熱烈に称賛し、現代人を手厳しく、不当にさえ非難した、前世紀の有名な諷刺家〔ボワローのこと〕の翻訳観よりも、より現実的であるように思われる(『アカデミー・フランセーズの歴史』第2巻を参照のこと〔Abbé de Olivet, Histoire de l’Académie Françoise depuis 1652-1700〕)。「フランス人には風情がない。古代の妙味だけがフランスで作家や専門家を生み出せる。優れた翻訳はこの貴重な味わいを原典の読めない者にも伝えてくれる」という。われわれに風情がないとして、どこへ逃げたのか、わたしには分からない。少なくともフランス語に手本がないのではないし、古代の手本に劣るのでもない。すでに亡くなった者だけを比べても、ソポクレスをコルネイユよりも上に、エウリピデスをラシーヌよりも上に、テオプラストスをラ・ブリュイエールよりも上に、パイドロス〔古代ローマの寓話作家Caius Iulius Phaedrusのこと〕をラ・フォンテーヌよりも上に、誰があえて置くだろう?だから古典の本棚を翻訳に限ることはしまい、ただし排除すべきでもない。古典の翻訳は優れた手本を増やす。いくつもの作家や時代や民族の特徴を教え、普遍的で絶対的な嗜好と自国の嗜好を区別する僅かな差異に気づかせてくれる。

翻訳者が思いこんでいる規則のみっつめは、ある作家の端から端まで翻訳しなければならないという、馬鹿げた束縛である。そのせいで訳者は、出来のよくない部分で消耗し興ざめして、優れた部分に来たときには気力を失っている。そもそも、どうして誤った考えを優雅に、ありふれた考えを繊細に翻訳しようと苦心するのか?古代人の短所を知るためではなく、古代人の優れた事績でわれわれの文学を豊かにするために、われわれの言語に翻訳しているのだ。切り分けて翻訳したからといって古代人を傷つけることにはならない、側面から描くことで古代人のためになるのだ。『アエネーイス』のハルピュイア〔人面鳥〕たちがトロイア人の晩餐を奪うくだり、キケロの冷たい冗談や演説の美しさを損ねることさえある下品な軽口、ある歴史家の内容も文体も面白くない語り、そうしたものを翻訳することに何の喜びがあるのか?それに、ある言語だからこそ魅力なものを、どうして別の言語へと移すのか?農業や牧畜生活の詳細は、ウェルギリウスの中にあれば心地よいが、これまでの散文訳ではどれも無味乾燥である。だから、上手く扱えないものは捨てよというホラティウスの賢明な教えは、他の書きものと同様、翻訳についても当てはまるのではないか?

わが国の文学者は、多くの作家に資する美しさを持っていながら、もし著者が知性と同じくらい審美眼を持っていたら最良の部分を削っていたであろう作品を、抜粋して翻訳することに然るべき利点を見出すだろう。たとえばセネカやルカヌスが巧みな訳者によって引き締められて抄訳されたら、どれほど喜ばしいか?セネカは、引用するには優れものだが、ひとつの主題の周りを煌めく速さで絶えず回っているから、通読するのは難儀であり、その点では常に目標へ向かって緩やかに進むキケロと異なる。ルカヌスは詩人界のセネカで、雄々しい本物の美しさに満ちているが、あまりに雄弁、あまりに単調、あまりに格言ばかりで、印象が薄すぎる。全訳されるべきは無造作そのものが魅力となっている作家だけだ、たとえばプルタルコスは『英雄伝』で、絶えず主題から離れたり戻ったりするが、飽きさせることなく読者と会話している。

この提案、古代人を抄訳に留めることは、なるほど目下の主題とは間接的な関連にすぎないが、有益であろう別の考察につながる。学習過程において、子どもたちは少数の作家しか与えられず、さらに通常その中の一部分だけを示され、説明や教育を受けている。この部分はよいとか平凡だとか悪いとか区別なしに、子どもたちは覚えさせられる。多くの教師は審美眼に乏しいから、本当に美しい部分はたいてい最も強調されない。それぞれの作者の様々な作品から最も優れた部分を選び、子どもたちに古代人を読ませるときは、より覚えるに値するものだけを示すほうが、はるかに有益ではないか?こうすることで、子どもたちは古代人の思想すべてではなく最良の思想にのみ身を任せられる。より多くの作家の才能と文体を知ることができる。ついには審美眼を養いつつ知性を豊かにするという特権に与れる。そうした集成は、選んで作れば桁外れの分量にはならず、通常の学習時間で充分に親しめるはずだ。企画にあたる優れた文学者を、いくら励ましても過ぎることはないだろう。もっとも、そのような文学者は、なかなか併せ持てないふたつの資質を持っていなければならない、古代人の読解に通暁し、かつ古代人に肩入れするようないかなる妄信からも自由であることだ。馬鹿げたホメロス愛好家のように、この大詩人の作品のうち称賛に値すると思う箇所にはことごとく下線を引こうとして、3回読んだあとには本のはじめから終わりまで下線を引くような真似をしてはならない。そんな男はホメロスの真の美しさを知っていると自負できるだろうか、またホメロス自身こうした崇拝者を嬉しく思うだろうか?

本題に戻ろう。ここまでの議論で明らかになった翻訳技術の原則は、タキトゥスのさまざまな箇所の拙訳においても、守るべきと思われる。それらの断片のいくつかはすでに刊行されており、読者はそれらを楽しんで、もっと多くの断片を望んでいるようだった。しかしわたしは、タキトゥスの著作から注目すべき作品をすべて抜粋したとは、まったく思わない。タキトゥスは古代で最も偉大な比類なき歴史家だという訳者の贔屓目を別にしても、収録すべき作品が最も多い歴史家なのだ。しかし、今わたしが世に出すものは、この抜きん出た作家、力強さと繊細さと実直さをもって人間を描き、感動的な筆致で心打つ出来事を描き、感情豊かに武勇を描いた作家のうちに見出せる、多種多様な美の典型を示すには充分だろう。真の雄弁さを高い水準で備え、素晴らしい事績を簡潔に語る才能を持っており、作品を読むことで人間についての悲しいが有益な理解を得られる、最良の道徳教師のひとりと看做すべき作家だ。人間性を悪く描きすぎだと非難されていることは、わたしも知っているが、つまりは人間性をよく研究しすぎているのだ。難解だというのは、有象無象に向けて書いていないからに他ならない。あまりに素早く簡潔な文体だと非難するのは、まるで少ない言葉で多くを語らないのが作家の最良の資質ではないというかのようだ。

勢いよく情熱的に翻訳できなければ、天才の翻訳はできない。しかし、その天才が同時に深遠な作家でもあるならば、研究し翻訳するには時間を要する。それに、一般論として、どのような趣向の作品であれ、冷たく投げやりな文体を避けるには、素早く書きつつも時間をかけて修正する必要があろう。この原則に得心して、わたしはこの試訳を大急ぎで書きあげ、それから可能な限り正確かつ厳格に修正した。

わたしが原則として実行したのは、タキトゥスのような作家、そしてフランス語と同じくらい扱いにくく厄介で冗長で曖昧になりがちな言語の僅かな手がかりと挌闘するには少なすぎるわたしの才能の許すかぎり、原文の正確さ、高貴さ、簡潔さを保持することである。著者のように引き締められないところでも、より溌溂とした文体となるよう切り詰めて、わたしには届かない簡潔さを不完全ながら補っている。要するに、言葉を翻訳できないときは、精神を翻訳しようとしたのだ。わたしがすでに刊行していた作品もあちこち修正しており、変更の多くは、翻訳をより力強く簡潔にしつつ、原文の意味をすべて残し、また険しく素っ気ない文体としないためである。本当の意味を勘違いしていた箇所も2、3直した。それ以外の箇所で、ほかの者が採用するかもしれない意味、さらには多くの解説者や翻訳家が従ってきた意味から逸れていたら、正当な理由があってそうしたのだと信じている。全体として、意味に議論の余地があり曖昧に思われる場合は、最も美しいものを選んだ、それこそタキトゥスの真意と常に考えるべきだからだ。多くの言葉を費やさないと一般の読者に著者の意味の広がりを伝えきれないときもあるが、わたしは回りくどい表現で勢いを削ぐよりも知的な読者にだけ繊細さが垣間見えるようにした。そして、子どもじみた描写や概念を提示しているように見えるときは、勝手ながら少し意味を変えた。わたしはタキトゥスに然るべき感嘆の念を抱いているが、それで目が眩んでタキトゥスらしくないと思われるいくつかの箇所を見逃すわけではない。わたしの考えでは、それはたとえばアグリコラ〔タキトゥスの岳父〕の生涯についての一節で、タキトゥスがドミティアヌスの赤い顔をその眼前で処刑された不幸な者たちの青ざめた顔に対置し、この赤さは元来のものだと述べて、暴君の顔に恥の印象を与えないようにした箇所だ。些細で取るに足らない事情であり、歴史家の才能を煩わせるにも、無実の犠牲者たちとそれを処刑する暴君によるおぞましく悲痛な光景のうちに描きこむにも値しないと思う。

もっとも、わたしがこの翻訳でどのような計画を採ろうと、万人に好まれるとは期待すべくもない。翻訳については、何にも増して、各々の読者が自分の尺度なるもの、こう言ってよければ固定観念を持っており、訳者に強いるのだ。だから文藝において広く認められた翻訳ほど稀なものはないだろう。全体としては是認されても、批判されうる細部がたくさんあるのではないか?この作品が、ふたつの言語の性質、タキトゥスの特質、そして翻訳技術の真の原理を熟知し、わたしの訳業を評価できる少数の文学者に認めてもらえれば、とてもさいわいである。そうであると信じているだけの方々に対しては、わたしは何ら期待も要求もしない。

わたしが真の目利きと認める方々から賜りたい親切はただひとつ、わたしの欠点を見つけるだけでなく、欠点に気づいたら修正方法を教えてくださることだ。すでにたくさん挙げた、訳者が文句を言ってしかるべき理不尽のうちでも重大なものは、訳者を非難するときによくある方法である。わたしが言っているのは曖昧で馬鹿げた不誠実な非難のことではない、そんなものは気にしなくてよいからだ。理由のある、公平な装いの批判について、翻訳に対してはそれだけでは不充分だと言っているのだ。自由な作品に対する評価では、目についた欠点を筋の通った批判で明らかにするだけでよい。著者は構想や言うべきことや言う方法を決められたからだ。しかし訳者はそれらすべてを強いられた状態にあり、自分では選べない狭くて滑りやすい道を歩き続けねばならず、ときには崖を避けるために横っ飛びしなければならない。したがって、訳者を正しく批判するには、訳者が何らかの過ちに陥っていると指摘するだけでは足りず、その過ちに陥らずとも、より上手く、あるいは同等にできると説得せねばならない。翻訳が厳密な正確さを欠いていると訳者を非難しても、読みやすさを失わずに正確さを保てたと訳者に示せなければ、無駄である。訳者が著者の考え全体を翻訳していないと主張しても、それで弱々しく間延びした翻訳にはならないと訳者に示せなければ、無駄である。翻訳が大胆すぎると訳者を非難しても、より自然で同じくらい力強い他の翻訳に代えられなければ、無駄である。作者の間違いを修正するのは、通常の批評においては立派だが、翻訳の批判においては義務である。だから、この種の書物で、他のすべての書物と同様、よい批評がよい作品よりもいっそう稀であるのは、驚くに当たらない。それで、どうしてよい批評にならないのか?皮肉が便利すぎるのだ!普通の読者たちは、上手い皮肉でなくたってよいのだ。文学において、尊敬されるためにはならないが、読まれるためには確実な手段のひとつである。

(訳:加藤一輝)

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