ロドルフ・テプフェール「ふたつのシャイデック」

【原典:Rodolphe Töpffer, « Les Deux Scheidegg » dans Nouvelles genevoises, 1845】
【本作は、シャルパンティエ版『ジュネーヴ短編集』(1841)にはなく、のちのJ.-J. ドゥボシェ版『ジュネーヴ短編集』(1844)が初出となります。フランス語で書かれていますが舞台はドイツ語圏スイスの山々で、表題の「ふたつのシャイデック」とは「グローセ・シャイデック(原義「大きな峠」)」と「クライネ・シャイデック(原義「小さな峠」)」のことです。〔〕は訳註です】

スイスを旅しているとき、独りで、日ごろ仲のよい家族と一緒にいないと、雨は退屈をもたらす悲しい使者となり、落胆した観光客と一緒に宿の部屋に閉じこめられてしまう。失意にとらわれず、持てる機知や愛想を集めて、観光客たちが即席の集団を作り、数時間のあいだ明るく楽しい場を築ければ、心地よい時間を過ごせるに違いない。しかし、体面、家族の不在ゆえに各自の抱く虚栄心、あるひとは貴族的な遠慮、またあるひとは行儀のよい小心、こうしたもののすべてが原因となって、気さくで優しい親切心さえあれば一時的に団結できるであろうひとたちを互いに孤立させる。

昨年の八月、ある日の夕方、わたしがラウターブルンネンに到着したとき、雨に遭った。宿は、わたしと同じく次の日に小シャイデックを越えるつもりだった観光客で賑わっていた。ほとんどがイギリス人で、ほか多くのスイス人、それから数人のドイツ人とフランス人だった。皆が食堂に集まっていたが、混ざることはなかった。ひとりの紳士、それも非常に気さくなひとが、あちこちへ行き、気圧計の様子を知らせ、各々の予定を尋ね、自分は、多種多様な衣装を纏った民族的な格闘技の興味深い光景を見られるはずの、二日後に行なわれる地域の大きな祭りのため、マイリンゲンへ行く予定だと言った。よく知られているように、アルプスの羊飼いたちは、格闘するとき、左の太ももに紐を結んで、相手が握れるようにする。それを誰もが自分と同じく想像できるように、この善良な紳士は、わざわざポケットチーフを右の太もも〔前の文では「左の太もも」に紐を巻くことになっているが、原文ママ〕に巻きつけ、観光客から観光客へと渡り歩き、ポケットチーフを握って力士の正確な位置を確かめるよう促した。多くの女性たちがその場を去るべきだと考えた。もっとも、彼がイギリス人の集団に近づくと、ひとりがきっぱりと言った。「下品な儀式を止めてください」善良な紳士は言った。「儀式ではありません、アルプスの力士たちのやりかたです……」「わたしはあなたのことを知りません、わたしがあなたに何も言っていないのに、あなたがわたしに話しかけるのを止めてください!」「そうですか! 分かりました! これ以上話すのはやめましょう、そのほうが楽です」そして彼はポケットチーフをほどき始めたが、何度も引っ張られて固くなった結び目を解くため、周りのひとたちの助けを借りていた。

食卓に着くと、わたしはこの善良な紳士と隣り合わせになり、マイリンゲンでの素晴らしい祭りについて説明された。わたしは魚を運んできた給仕に訊いた。「明日、マイリンゲンで大きな祭りがあるのですか?」「わたしの知るかぎりでは、ありません」隣人はナプキンで口許を抑えて笑い、驚くほど悪戯っぽい目でわたしを見た。「どうしたんですか」とわたしは言った。給仕が立ち去るまで、彼は答えなかった。「あなたの無邪気さに笑ってしまいました。こういうひとたちが、世間に隠れて行なっている祭りをいつも否定しているのを、ご存じないのですか?」「確かに。しかし、ではあなたはその情報を誰から聞いたのですか?」「不用意な男からです。インターラーケンの木こりです。わたしは彼の宿にすっかり馴染み、この季節の残りをそこで過ごそうと決めていました。もっと言うと、わたしは彼の仲間たちとも親しくし、食卓を明るくし、イギリス人たちを歓迎して、宿を繁盛させていました、そのとき、彼のおかげで、この祭り、この格闘技、この衣装に頭が一杯となったのです。もちろん! わたしは我慢できません、マイリンゲンへ行って泊まるつもりです」「なるほど」そう返事して、わたしはとても繊細な味の見事に盛りつけられた魚を食べはじめた。

わたしの向かいに若い女性がおり、隣人と話していてもそちらに目を惹かれた。この若い女性は、とりたてて顔つきが美しいわけではなかったが、表情の優雅さと振舞いの慎ましさが印象的だった。彼女のほうもわたしを気にしているらしく、ときどき顔を赤らめていたから、わたしはすぐさま、彼女の心の中にある優しい感情が、素直な羞恥心の表われになっているのだと確信した。しかし、そうと分かったところで、小説めいた椿事を想像して結末までたどり着くには、邪魔なものがあった。ひとつは彼女の右側にいる父親としか思えない年頃の男だ。もうひとつは彼女の左側に座っている若い男で、彼女の態度が、兄にしてはあまりにかいがいしく、恋人にしてはあまりに馴れ馴れしく、婚約者にしてはあまりに打ち解けている。もっとも、面白い小説とは好奇心をかき立てる小説に他ならないのであって、わたしは、待ちきれずに推測するものの急いで知ろうとはしない読者が、すべてを一気に明かしてくれる最終ページに直行するのではなく一ページずつ丹念に読み進めるかのような、楽しい状態だった。つまり、わたしたちが食卓を立ったとき、わたしはまだ第一章を読んでいたにすぎなかった。とはいえ、若い男がおやすみなさいと言って旅の伴侶と別れたとき、彼女の顔や態度に何か気配を感じて、妹ではないと分かった……。だが、これほど馴れ馴れしく身内のようにおやすみなさいと言ったこのお相手が、どうして彼女の兄でないのか、それ以上は分からなかった。ふたりは退出した。他の客も徐々に去って、わたしは隣人とふたりきりになり、隣人がわたしに話しかけてきた。わたしは話を少しも聞かずに彼を眺めながら、小説や謎、もっと小さな問題にさえ向かない顔があるものだと思った。いかに好奇心や放浪癖のありそうな想像力であっても、格子縞の大きなハンカチを右の太ももに巻きつけて一座から一座へと歩きまわる男の中には、発見したり突きつめたりしたいものが見つからないだろう。

そのとき、ひとりの若者が用心深く部屋に入ってきて、周囲を見回し、すっぽりと体を覆っていた外套を脱いで、給仕に身振りで夕食を頼んだ。給仕はわたしの前に彼の食器一式を置き、彼が座るやいなや、たちまち隣人が彼に話しかけた。「マイリンゲンへ祭りを見に行かれるのでしょうな!」若者は生返事で応えた。「何の祭りですか?」「盛大な祭りです!」そして隣人は、見世物の順番や衣装の種類、羊飼いたちの格闘、そして敵に掴ませるために各々が右の太ももに着けているものを、あらためて説明しはじめた……。ここで給仕が話に割りこみ、今晩インターラーケンに戻りたいと考えている御者が報酬を払ってくれと言っていると伝えた。隣人は「行ってくる」と言って立ち去り、わたしと若者はふたりきりになった。会話を続けようと、わたしは祭りに参加したいと言った。彼が話を遮った。「きっと素晴らしいでしょうね。わたしのほうは、わたしの祭りはまた別のところで! ……」何か別の気がかりがあるかのような言葉に、わたしは立ち上がってその場を離れようとした。彼も立ち上がった。ふたりだけだったのだ。彼はわたしの手を取って愛想よく言った。「不躾な質問をお許しください。あなたはふたりの男性に付き添われた若い女性と食事をしていましたが、そのかたたちが祭りに行くかどうか、ご存じですか?」「そのつもりであるように、わたしには見えました」「ありがとうございます」と彼は答え、よい夜をとわたしに言うと、急いで立ち去った。彼が出て行ってから、わたしは、向こうが兄でないなら、こちらはもっとそうでない、と考えるようになった。残念ながら、小説が面白くなるにつれて、わたし抜きで終わる可能性も高くなってきた。第一巻を読み終えたあと、第二巻を欠いたまま第三巻を読んでいると気づいた読者のような、不愉快な状態だった。わたしは寝ることにした。

翌日は晴天に恵まれ、前日の雨で蘇った自然は、ただならぬ輝きを放っていた。わたしたちはまだ暗い深淵の底のような谷間にいたが、朝の影に包まれたままの峰々の向こうに、紺碧の空に輝く高い山脈の頂が見え、さらに近くには、九百ピエの高さに聳えるスタウバッハが見えた。観光客たちに混じって、わたしは滝を見に行った。滝の真下に立ち、顔を上げると、空中で波がぶつかり合い、渦を巻き、砕け、また束になって吹き出し、頭上に落ちてくる前に無数の煌めく水滴となって散ってゆく。ある粒は遠くへ消え、ある粒は周りの草原に露となって降り、ある粒は別の粒と再びくっつき、風の気まぐれで右へ左へと流され、小川となって、リュートシーネ川の奔流に合流する。

わたしは旅の途中で何時間も奔流を眺めてきた。こうした余暇は、無為であればこそ、想像力を楽しませる気晴らしの魅力がある。細枝が流れに消える。さらに、樅の若木が丸ごと沈み、再び浮かび、もがき、ついには散らばった岩塊の助けを得て、そこにしがみついて止まる……。不幸者! せめてこの野生の孤独のまま、木こりから忘れられ、兄弟の育つ森の近くに留まるのか、それとも無慈悲な激流に流され、山から遠く離れ、木や花が人間の奴隷として生きている遠くの畑へと運ばれるのか? それが問題だ、わたしは河岸に立って思い悩む。その間にも、波に波が続き、泡に泡が続く。時は進むが、何も決まらない、そして……悩んだまま立ち去る、つまり、これは人間心理の不思議なところだが、絶対的な力を行使せずにいるよりも、不幸な枝を足場から引き抜いて激流の中に放ち、遭難しながら浮き沈みするのを目で追い、運命を見届けてから立ち去りたいと、百回は思った。

実を言うと、わたしは別の機会にも、こうした野蛮な災難を善行で救ったのだった。フルカ川が緑の高原を気まぐれに彷徨い、ゆったりとロイス川に流れこむユルスランの荒涼とした谷で、ある日わたしは砂利に水路を掘った。干上がりかけた水たまりにうっかり入ってしまった小魚を助けるためだ。窮地に陥った哀れな昆虫に同情し、危険から遠ざけて安全な花咲く隠れ家に運ぼうと回り道もした。道沿いに茂る枝が、懇願するかのように曲がっているのを見て、手すさびに杖を振り回して罪のない多くの命を切り捨てる旅人の残忍な本能を何度も抑えた、これらの善行が罪滅ぼしになると願っている……。しかし、何だって? つき出た先端がわたしの自尊心に障った枝を折るのも、同じくらい度々だった。身勝手な好奇心に駆られ、知恵と苦労を絞の末に築かれた集落を荒らしもした。美しい苔に覆われ、優しい窪みに小さな花の一群を匿っている路傍の石が、暗く深い谷底へと転がり落ちるのを何度も望んできた、そして今日それを恥じている。大気も光もなく、再生をもたらす日の出から遠く、夜の寒さに備えるよう告げる日没からも遠い谷底だ! こうして王は作られる。たまの善意は己惚れた気まぐれにすぎないが、自尊心は野蛮であり、遊びが犠牲者を生む。

ラウターブルンネンからヴェンゲルンアルプと小シャイデックの麓(ふたつの名前は同じ山を指している)へ行くには、リュートシーネ川を小さな木の橋で渡るが、この橋は、愛好家が奔流を眺めたり苦境にある枝を見たりできるよう特別に架けられたかのようだ。しかしその日は、観光客の大群に混ざり、立ち止まって光景を眺めずに一行を追った。橋を渡り、一群となっていた別々の集団が分かれて、いくつかの集団は先へ進み、他の集団は後に残るというとき、わたしは自分が始めた小説の登場人物たちのいる集団と一緒に行こうと努めた。若者とわたしは徒歩で登った。一緒に歩いたおかげで、わたしたちはすぐに打ちとけ、話すようになった。わたしたちの前では、若い女性とその父親が騾馬に乗っていた。父親のほうは、登るほどに新しく周りに現われる美景を見て、ますます昂奮していったが、娘は落ち着いていた、あるいは少なくとも美景には関心がなかったようで、道をジグザグに曲がるたびに向きを変える騾馬に身を任せ、どこへでも視線の向きを変えていた。

はじめに着いた高原には、若く茂った楓や、老いて葉を落としたり嵐で枝を落としたりした楓が点在しており、着くと歌が聞こえた。丘の斜面にグリンデルヴァルトの少女がふたりいて、観光客が近づくと山のバラードを歌うよう教えられているのだ、その素朴な旋律は和声による反復句で区切られ、穏やかな牧草地の前、動かない岩の下という、まさにその場所から聞こえてきて、落ち着いた朗らかな静けさが表わされている。わたしたちは立ち止まって耳を傾けた。しかし、歌声が止むやいなや、同行者ふたりのうち年長の者が感動を爆発させた。騾馬の上から全力で喝采を叫び、娘にも案内人にもわたしにも誰彼なしに話しかけて、魂に一杯の歓喜を喧しいほど強烈に主張した。

しかし、同じ音楽が、聴く者すべてに同じ影響を及ぼすのではない。確かに表現力の豊かな音だが、ごちゃごちゃしている。心を動かすが、心を整えたり導いたりはせず、ある者にとっては歓喜と幸福の讃歌のようでも、別の者にとっては絶望や不毛しか感じられない後悔の叫びのようなのだ。少なくともわたしは眼前の事態をそのように理解した。男が喜びで昂奮しきっているとき、青白い娘は何とか感情を抑え、涙を零しそうになっていた。それに気づいた父親は、喜びの只中で目の当たりにした光景に驚き、たちまち心配のあまり悲しくなって、さらに若者の目を気にしたに違いない戸惑いを見せた。若者のほうは、娘の苦悩に気づく様子もなく、わたしが先頭に立とうとすると合流して、ふたりで一緒に歩いた。しばらくして若者が言った。「もし煙草を持っていたら、一本いただけますか? 従妹の気分を害さないように十日間も禁煙していましたが、もう我慢できないのです!」

わたしが煙草を渡すと彼は火を点けた、そこでわたしも自分の分を取って、彼の煙草から火を貰った。しかし、一連の動作をしながらも、わたしは内心で自分に毒づいていた。兄弟でも恋人でも婚約者でもないなら従兄でしかあり得ない、昨日の晩に気づかなかったのか! ところが、わたしの煙草に火が点いたとき、彼は言ったのだ。「あれはわたしの婚約者です。とても悲しんでいる、でしょう? ……」今度は、またしても内心で自分が愚か者でしかなかったと認めたが、外見上は、昨日はじめて見たときに思ったとおりだというかのように装った。「愛というのは、強烈で誠実な愛であれば、常に漏れ出てしまうんだよ」と朗らかに言ってやった。この言葉に若者は驚いたらしく、わたしをじっと見た。「すると、今そうなっているというのですか? そんなことは思ってもいませんでした」そして考えながら再び歩きだした。わたしも続いた。

変な恋人だ、わたしが彼の立場だったら違うようにするのだが! と、わたしは歩きながら思った。ただ、あえて尋ねる気も起きなかったので、わたしは話を周囲のものに移した。とくに、頂上ちかくに立派な唐松が一本だけ立っており、四方八方に曲がりくねった腕を広げて、苦しむ旅人たち、太陽の熱に焼かれたり南側の地平線を囲む氷の円形劇場の輝きに目を眩まされたりした旅人たちを呼んでいるかのようだ。「美しい木蔭だ!」と同行者が叫び、わたしたちは唐松へと向かった。一帯は嵐に打ちのめされた地面で、揺れもせず地面にしがみつく短かく丈夫な草しか生えていなかったが、枝の天蓋の下からインターラーケンの方角を眺めると、起伏のある荒々しい峰が見え、近くの峰は奇妙なほど鮮やかな色で目を楽しませるが、最も遠くの峰は天空の輝く光に浸って漂う蒸気のように見えた。この光景に、わたしは思わず喜びを露わにした。アルフレッドが水を差した。「確かに美しいです、しかし、このような光景を楽しむには、自由な心……いや、無為の精神でなければなりません、というのも、誤解してほしくないのですが、自由かどうかといえば、わたしの心は今でも自由ではあるのです。あなたが見たあの娘を、わたしは従兄のような心で愛しています。ただ、わたしは彼女を手に入れたいとはあまり思っていないので、まさに今わたしが彼女を所有すると決まりそうで、困っているのです……」そして言葉とは裏腹の声色と表情で続けた。「もっとも、考えてみてください、これ以上の気品や心惹かれる優しさ、より美しく恵まれた魂のあかしとなる特徴を持ったひとを、どこで見つけられるでしょう? ……」

わたしは反論しないよう努めていた、というのも、わたしは旅先で愛すべき美人に出会うと、優雅に騾馬に乗っていても、空地の芝生や小道の曲がり角に現われても、たちまち虜になってしまうから、ご賢察のとおり、その台詞は娘に対するわたし自身の気持ちをよく表わしていたのだ。ただ、話が予想外の方向へ進むのでますます驚き、さらに、若者がわたしに打ち明け話をするので気をよくした。「失礼ながら言わせていただくと、あなたはわたしに多くを語りすぎたか、あるいは充分に語っていないかです、そして、最後の言葉でわたしの好奇心を、とりわけ興味をこれほどまでにかきたてるのを恐れなかったのですから、わたしがもっと知りたいと言っても驚かないでください」彼は答えた。「驚きません。残念ながら、馬鹿げた話なのです!」そして、話しはじめようと、こう言った。「はじめに叔父について知ってもらいましょう……。いや、そこまでだ! こちらが叔父です」若者は話を切って、煙草を落とすと靴の踵で踏み消した。

確かに、ふたりが合流してきたのだが、ふたりだけではなかった。わたしたちがふたりを置き去りにしたところから程なくして、祭りの話をしていた紳士がふたりに追いついて一緒に登り、唐松の下に着いた娘は、騾馬を降りてしばらく日蔭に座った。紳士が遠くからわたしたちに叫んだ。「皆さん! 石楠花! 石楠花! ……石楠花を知っていますか! ……アルプスの薔薇ですよ……」そして、わたしたちに出会わないよう唐松から少し離れたところを行くイギリス人の一団を見つけ、叫びながら駆け寄った。「石楠花! 石楠花! 石楠花!」イギリス人たちはされるがままで、各々が丁重に石楠花の枝を受け取ると、この最後の唐松から四分の三時間かかる山頂を目指して歩みを続けた。

その間、騾馬は草を食べに行き、わたしたちはユングフラウの一段低い肩の部分をなす大きな峰の向かいに座って、暗い紺碧の空に映える壮大なギザギザの姿を眺めた。しかし、若い娘とその父親は、大袈裟に感嘆しているふりをして自分たちの心中の気がかりを隠せる絶好の機会だと焦るあまり、景色をほとんど眺めておらず、心ここにあらずなのは明らかだった。そのとき、祭りの紳士がわたしたちのところへ戻ってきて、感嘆しながら物を差し出す様子を見せたので、叔父は勢いよく立ち上がり、怒りに満ちた口調で言った。「わたしたちに構わないでください、放っといてください! ……ああ! あなたのしつこさがわたしたちを苦しめてきたのが分からないのですか! ……何なんですか! 配慮も遠慮もない! ……よく聞いてください、わたしはあなたのアルプスの薔薇が憎たらしい!」そのとき父親は、見苦しい罵声に娘が困惑し赤面しているのを見て、怒りを倍増させた。「ほら、迷惑紳士さん、わたしの愛するひとたちを苦しめているのは、あなたの忌まわしいアルプスの薔薇だ!」そこまで言うと父親は再び腰を下ろし、祭りの紳士のほうは、怒るというよりも面喰らって、賢明にも何も言わずに立ち去ったが、どうして理性ある人間がアルプスの薔薇に対してそんなにも耐えがたい嫌悪感を抱くのかは分からずじまいだった。

わたしはというと、激しい悪口に戸惑って、あの叔父はまともな頭ではなかったに違いないと思うようになった。この考えをすっかり確信するに至ったのは、こうした場面の雰囲気で、案内人とわたしが黙っていたところ、彼の甥が、ある種の無関心で、怒りにつき合う必要のない人間に対してするように、沈黙を破るのを見たときだった。わたしに穏やかに話しかけ、わたしの話してきた山々の名前を述べたのだ。これらの名前は、わたしたちの耳には荒々しく聞こえたが、険しい音の武骨な調和によって、感覚や心象の力を蘇らせ、自然の壮大さと有無を言わせぬ力強さを持つ円頂丘や山頂、巨人を、心に浮かび上がらせた。とくに、山脈の峰々を指す単語のほとんどが、堂々たる雄々しい崇高さを表わし、力の象徴のようだが、最も高く君臨する山頂のユングフラウという優雅で穢れない名前には平伏している。それに気づいた若者は興味深い考察を行ない、人間が心の自然な本能にのみ耳を傾ける場所ならばどこでも、威力や活力に満ち、その象徴を人間に見せてくれるものに対して称讃を惜しまない、ただし名誉や権威は、同じく野にあって人間を魅了し喜ばせるもの、つまり貞淑な優雅さと純粋な美しさに限られるのだ、と機知に富んだ言葉で結論づけた。そして振り返って「あなたはどう思いますか、親愛なる従妹よ」と言った。娘はますます動揺し、何も答えずに顔を赤らめた。同行者の言葉に機転と気質が欠けていたのだとわたしが思いかけたとき、まさしく彼が、わざと引き起こした動揺を利用するかのように言った。「マリ、ずいぶん悲しんでいるね! ……そして、叔父さん、ずいぶん不幸そうですね! お訊きしますが、偽りの立場、まがいものの幸福の確かな証ではないですか? ……」この言葉が発されるやいなや、叔父の視線に恐怖と疑念と憤怒が溢れ、娘が慌てて口を挟んだ。「アルフレッドさん、何てことを言うのですか? どうして偽りなのですか? どうしてまがいものなのですか? ということは、あなた自身がわたしに示してくれた親切で誠実な愛情に、わたしが温かく変わらない愛情で応えたいと思うのは、あなたにはそんなに奇妙に見えるのですか?」

娘が話していると、鋭い言葉がアルフレッドの心臓に突き刺さったかのように、わたしには見えた、というのは、それまで自分を抑えていた若者が、喜びに震え、顔に激しい感情の炎を燃え上がらせたからだ。もっとも、若者は即座にこの猛烈な動きを抑え、わたしが席を外そうとすると、わたしに座っているよう手振りをした。彼は言い表せないほど甘い調子で、しかし若干の苦味を利かせて、話を続けた。「マリ、あなたを愛しすぎないように頑張っている従兄を、もっと労わってください……そして、まだ叔父さんが幻想を抱いているのに反して、わたしたちは互いに相手のものとはなれないのですから、単純な愛情を示すのもやめてください、わたしの心はあまりにも勘違いしやすいので……」曖昧さの少ない口ぶりは、すでに決心しているのだと仄めかしており、それまで何とか我慢していた叔父は、たちまち激昂して激しい非難を爆発させた。娘が若者を撫でて落ち着かせようとしたりおびえた様子を見せて父親を抑えようとしたりする一方、案内人たちは、合図をされたか、あるいは目の前の悲しい口論を終わらせたいという本能的な欲求からか、騾馬を進ませた……。アルフレッドが言った。「待ってください! まだ言い終わっていません! マリ、聞いてください。わたしは、わたしがまだ公正かつ理性的でいられる間に、あなたのお父さんが与えてくださった贈り物をお返しします。そして、とても後悔しながらも自分自身を犠牲にするがゆえに、あえて期待するのです、わたしがあなたの知人たちの中で最も献身的であり、あなたの友人たちの中で最も信頼できる人物であると、あなたが思い続けてくれることを」

叔父は騾馬も台詞の終わりも待たずに歩き出し、尋常でない昂奮状態で、山小屋へと続く道を登りはじめており、娘は急いで自分の騾馬に乗って、一刻も早く追いつこうとした。騾馬に座ると、娘はさっとアルフレッドに手を差し出し、彼の行ないを嘆きつつも変わらぬ愛情を持っていると示してから、その場を去った。唐松の下に残されたわたしと同行者は娘を目で追い、手前の丘の向こうに姿を消すと、ふたりで芝生に座りなおし、長いこと黙っていた。アルフレッドには考えこむ理由があっただろうが、わたしのほうは、折に触れて家庭内の事情を伝えられるのに戸惑っていたから、一緒に唐松の木蔭に来たときに訊ねた質問を繰り返さぬよう気をつけていたのだ。

とうとう彼が、投げやりに寝そべったまま言った。「不思議なゲームだ。人間の愛情というゲームでは、偶然か、さもなくば意地悪な悪魔が、ほとんどいつもカードを握っている! ……それとも、気まぐれな心が常に適正な計算を妨げ、富や地位、知性、あるいは性格のよさですら無縁なままの動機で若い男女が愛しあうよう、神慮による知恵で定められたのか? わたしとしては、このふたつの見方の間で、いつも揺れ動くしかありません。どちらに身を委ねるかによって、わたしの魂は、悲しみながらも甘受するか、皮肉や嘲笑や嫌気の苦い汁を糧とするか、です」そして、娘が姿を消したほうを向いて、優しい同情に満ちた気品ある口調で続けた。「美しい子よ、あなたが愛し、夫にしたいのは、彼ではなくわたしなのです! ……けれども、より強い気持ちに引っぱられているのだから、行ってしまいなさい、どうかあなたが人生を全うできますように!」

ここでまた間が空いた、というのは、同行者の考えが変わるにつれて、わたしにとって同行者の見えかたも変わってきて、初対面の目上の男を前にして心が怖気づき言葉が出てこないのに似た恥ずかしさを感じたからだ。とはいえ、何かしら高尚な理由から愛情も克己心を引き出しているのに感心して、彼の愛情の秘密にもっと踏みこんでみたいという思いが抑えられなくなった、すると彼のほうが感づいたようで、話を再開した。「残念! そうなんです、わたしには恋敵がいるんです!」わたしはすぐに言った。「昨日見ました」彼が喰いついた。「見た! どこで?」「ラウターブルンネンで、昨日の晩に」すると彼はまた肘をついて言った。「なるほど、ありうる。振り向けばそいつが近づいてくるのが見えるはずだ」この言葉にわたしは激しく動揺した。実際、その瞬間、前日ラウターブルンネンでわたしに声をかけてきた若者が、シャイデックへの道とは少し離れた森から急に現われ、こちらに向かってきた。わたしたちの座っている木蔭に着いたが早いか、外套の下から拳銃を取り出し、芝生に投げ捨てた。そしてアルフレッドに言った。「わたしの持ってきた武器が、あなたのお気に召すとよいのですが。少なくとも、わたしがあなたから得たい満足とは何かを武器があなたに示しますから、愛の共有がわたしに与えてくれた権利を無視して、あなたが従妹との結婚を受け入れたその日いらい、わたしは不幸であるのと同じくらい憤慨しているのだと、武器があなたに告げますように!」

アルフレッドはわたしに向かって言った。「あなたは煙草を持っていますね。一本をこの方に、一本はわたしにください。はじめから人殺しの武器に頼るのではなく、まずは和解の一服を試してみましょう」相手の若者は言った。「喜んで」そこでわたしが煙草を配り、火をつけると、アルフレッドは続けた。

「あなたの提案は、わたしを誘うにはあまり相応しくありません……なぜなら、決闘のように偶発的な出来事が、わたしを名誉ある死に至らしめたとして、あなたにとってと同じくらいわたしにとっても利益にならないとは、わたしに見えないからです。わたしにとっては何も、ほとんど何も楽しくありません。わたしの冷めた心に新しく心惹かれる道を開いてくれた唯一のもの、それは従妹を自分のものとすることでした、そして今、あなたはわたしに挑戦しようと、この荒れた山までわたしを追いかけてきた……。だから闘う覚悟はできています、今ここで闘ってもよい、ただ、わたしたちのどちらかが必ず命を落とすという条件つきです、もし、盲目の運命がわたしを助けるために、間違った犠牲者を出すのを、わたしが恐れなければ。なぜなら、あなたを殺したとして、わたしはどうなるでしょう? あなたの血で汚れた手を、従妹に差し出せると思いますか! ……あなただって、わたしに血を流させたあとで、彼女が再びあなたを愛し、あなたを夫とすると思いますか? ……だから、お分かりでしょう、この決闘は不可能なのです」

相手の若者は激昂して言った。「不可能! 不可能だと! あなたの勇気や誠実さを疑わせるような単語を、急いで撤回したまえ……。そうだ、わたしも分かっている、この戦いの結果がどうであれ、わたしもあなたもマリを失なうのだと。それでもわたしは、恨みを晴らすべく、名誉のために求められること、立場ゆえに要請されること、そしてわたしの心が渇望していることをやり遂げる!」彼は誇り高くも感情的な身振りをしながら続けた。「それに、もしマリがわたしのものでなくなったとして、彼女が他のひとのものにならないならば、それは何でもないことなのか? ……わたしがマリから愛され、マリから信頼されたのだから、それに報いる権利があるのではないか!」そして、わたしに向かって言った。「あなたとは知り合いでもありませんが、わたしはあなたに判断してもらいたい。言ってみてください」

突然の質問に困惑したものの、わたしの置かれた立場上、何かしら和解につながる、あるいは単に曖昧な返事をしようとしたところ、アルフレッドが急いで口を挟んだ。軽蔑に満ちた口調で言ったのだ。「あなたのお話を聞いて、叔父が娘の幸せを確実にするために、あなたの気持ちよりもわたしの気持ちを頼ったのは正しかったと、確信しました! ……何ということだ! 話の中で、あなたはマリについてしか考えず。あなたはマリの運命をよいものにしよう、少なくとも尊重しようという気がなく、彼女が他人のものでない限り、見捨てられて生き、苦い後悔に苛まれ、わたしたちのうちひとりに死をもたらしてしまったと悲嘆に暮れようとも、あなたはどうでもよいのです! ……実を言うと、それが本心だとは思いたくない。もしあなたに心があり、自分を大事に思い、何より従妹を愛しているならば、決闘は不可能なのだと、今度こそ同意していただきたい! ……」

アルフレッドがそう話している間、相手の若者の顔には、恨み、怒り、自尊心の棄損、嫉妬深い絶望が交互に現われ、目つきや態度で威嚇しながら激情を爆発させそうになったり、愛情深く気高い言葉に気圧されたかのように苦しげな嗚咽を漏らしかけたりした。しかし、何か不吉な決意を予感させるような雰囲気を漂わせつつも、どうにか持ちこたえた。「話は終わりですか?」そう訊かれたアルフレッドは、つっけんどんに、きっぱりと答えた。「そうしたかったのですが、いま言った理由では聞きいれてもらえないようなので、今度こそ最後です! 今晩、わたしたちはシャイデック経由でマイリンゲンに到着します。あなたも一緒に湖を通って行き、明日の朝八時にレスティの小さな草原で、ひとりの証人に見てもらいましょう。証人さえよければ、わたしとあなたで立ち会ってもらうのです。武器については、あなたが決闘を挑んできたのですから、わたしに選ぶ権利があります」もっともな理由で不可能だと宣言したばかりの決闘を同行者が正式に受け入れたので、わたしはひどく落胆したが、彼の要求に従うしかなかった。そして、若者が拳銃をしまってラウターブルンネンへ戻るのを見届けたのち、わたしたちも唐松の木蔭を離れて山小屋に向かった。

皆ご賢察のとおり、わたしはアルフレッドとふたりきりになるのがとても待ち遠しかった、彼がそうした行動をとった動機を訊きたかったからだ。しかし、はじめからわたしにこの件についての質問を禁じたかったかのように、わたしたちが再び山を登り始めてすぐ、彼は急いで会話を他の話題にそらそうとした。「あなたはスイスのドイツ語を知っていますか」わたしがドイツのドイツ語さえ知らないと答えると、彼は言った。「それは残念ですね。三年前にここで羊飼いからバラードを教わったので、あなたにもわたしと同じように味わってもらいたかったのですが。せめて直訳の歌詞で聴いてみてください。

 

ユングフラウ

 

真夜中、秣に身を寄せたわたしは、

乙女が眠っているのを見た。

そして満月が輝いていた、

草原の土塊の上に。

眠れ、眠れ、羊の群れよ、

そして、お前、傲慢な心よ、

腹いっぱい草を食べよ、

わたしの黒い雄牛よ!

 

夜明けに、わたしは震えながら見た、

乙女が凍えて息を吐くのを。

そして、東から最初の火が

乙女の赤くなった肩を撫でているのを。

行け、羊の群れよ、

そして、お前、傲慢な心よ、

草を食みに行け、

わたしの黒い雄牛よ!

 

わたしは乙女が目覚めるのを見た、

夜明けが遠ざかって、

太陽の千の火に代わるとき

優しく撫でられるのを。

食べよ、食べよ、羊の群れよ、

そして、お前、傲慢な心よ、

草を食いつくせ、

わたしの黒い雄牛よ!

 

一日じゅう撫でよ、

美しい太陽、あなたの白い仲間よ。

愛し合っている間、

山の上ではすべてが生き、輝いている。

跳べ、羊の群れよ、

そして、お前、傲慢な心よ、

草の上で跳べ、

わたしの黒い雄牛よ!

 

そして、より特徴的な節でもう一回繰り返した。

 

跳べ、羊の群れよ、

そして、お前、傲慢な心よ、

草の上で跳べ、

わたしの黒い雄牛よ!

 

彼は叫んだ。「これだ、新鮮な、本当の詩だ! 無邪気な、明るい、印象的な、素朴で透明な詩だ、もしわたしが……」ここで邪魔が入った。前日の夕食のとき一緒にいた観光客たちのほとんどが、ちょうどわたしたちのところに到着したのだ。ご夫人がたは喉が渇いて死にそうで、紳士たちは疲労困憊で、誰もが酷暑を嘆いていた。しかし、同行者が礼儀正しく近づいて、機転の利いた発言で盛りあげ、親切で歓待すると、喉の渇きも暑さも疲労も魔法のように消えてしまった。そして結局、小シャイデックの山頂に一時間で到着したのは、一緒に歩く楽しみを早々に切りあげる破目になってしまった、道を急ぎすぎた、と皆の意見が一致した。

山小屋に到着したときには十時で、見渡すかぎり空に雲ひとつなかった。わたしたちの前を行っていた観光客の集団は、早くもウェンゲンの斜面に何組かで広がり、アイガー、ジルバーホルン、ユングフラウといった、この場所からな重厚な気品と壮大な威厳の最もよく見える圧倒的な光景を、静かに内省しながら眺めていた。座っている斜面から、草木の生えない細い淵へと視線をやると、小石や雪崩の残骸の広がる下から、見えない濁流が響いてくる。荒涼とした淵の底から、氷を支える巨大な土台がむきだしの絶壁として立ち上がり、ここでは鋭角に、刃のように薄く割れている。さらに上では、奇抜なピラミッドや優雅な円錐、細い針や丸い円頂で終わっている。しかし、水平線から太陽が昇ると、一帯は燃えあがり、台地が現われ、澄んだ影に包まれたままの青白い斜面がクレバスの断崖につながって遠くで冷たい息を吐いているとき、がらんどうの裂目の端には、後ろから照らされて自ら光っているかのように輝く銀色に縁どられた岩の出っぱりがあちこちに見える。あるいは、不思議なほど透明で、青みを帯びた飾り帯が伸びて、日陰の荒々しい氷の中に消えてゆく。

この光景の何と美しいことか、壮大さの中にあって何という安らぎか! 実際、あちこちを流れる水、滴る水、滲む水、溢れる水の音が混ざって、無人の場所に絶えず動きや働きの印象を与えている。もっとも、この上から命じられた働きは、何だか分からないが揺るぎない平安に支配されており、静かなる崇高に直面した魂は、いちどきに平穏と幸福で満たされる。もし一瞬、この近寄りがたい場所から目を逸らし、周囲の山に目を移せば、隣の泉で澄んだ水を汲んだ甕を頭に載せて戻ってきた山小屋の日焼けした娘や、生えかけの角に慣れないでいる快活な雌牛に出会えるのだ、この美しく魅惑的な対比がどれほど喜びをもたらすか、荒々しい自然と豊かな自然、暗い氷と明るい草、死と生が隣接している衝撃的な組み合わせがどれほど思索を促すか! わたしはというと、人里離れた丘に籠って、世の中のすべてを忘れつつあり、昨日の晩の小説さえ、午前中の行路でも目の前で数ページめくられたものの、好奇心を満たすよりも苛立たせた、というのは、そのとき祭りの紳士がわたしに向かってくるのを見て、平穏や夢想が消えるのを感じたのだ。この紳士は、ユングフラウをよく見るには欠かせないという緑色の眼鏡を集団から集団へと勧めまわったあと、わたしにもその道具を使わせに来た……。ところが、ちょうど彼がわたしのところに着こうとしたとき、突然、大きな雷のような音が空気に満ち、号令をかけられたかのように、それまでウェンゲンの斜面に散らばって座りながら輝やかしい氷の光景を静かに見ていた全員が、目撃し、立ちあがり、動揺し、自ずと互いに引き寄せられた。

雪崩だ、しかしまだ何も見えない。ただ、山小屋の羊飼いが、音に呼ばれて戸口に顔を出し、耳を澄ませ目で確認したあと、花崗岩の絶壁の一番高いところ、上から絶えず押し出される氷が深淵に張り出しているところ、そして雪崩の出どころを指差した。すぐさま皆の視線がそちらへ向き、そして間もなく、最初に雪塊の割れた岩棚、さらにその下にある岩棚の全てから、次々と大量の雪が流れくだり、それが日陰から立ち昇って、はじめは灰色で青白く、日向にまで達すると不意に照らされて輝き、銀色の房と輝く塵、巨大な雲となるのを、皆が眺めた……。一斉に喜びの声が上がり、見事な光景を歓迎したが、羊飼いは無関心で、物憂げに戸口の柱に凭れ、落ち着いた目でわれわれの服装や表情、騒がしい様子を観察していた。

しかし、この光景を見ていた者たちの中に今朝の紳士と娘はおらず、アルフレッドも半時間前から行方知れずだったのだが、雪崩の音が止んで、ふとわたしが振り返ると、少し離れたところに、山の民たちの真ん中でふたりの男と会話するアルフレッドが見えた。男たちはユングフラウ登山に来たヌーシャテルの若者で、空が静かなのに後押しされて、危険な登頂を先延ばしにせず、計画を話し合い、そのときウェンゲンに集まっていた案内人たちと計画や可能性について議論し、翌日に必ず登ると決めていた。男たちがアルフレッドの知性と勇気に気づいたらしいと分かって、わたしが近づくと、彼らはアルフレッドを登山に誘っていたが、さまざまな口実で断られていた。結局、あまりに強く誘われて、ちょうどわたしが見えたのもあり、アルフレッドは言った。「この方も証言してくださるでしょうが、明日わたしを待ちうけているのは、延期したら不名誉となるのを免れない事柄なのです。どうかこれ以上誘わないでください、そして、あなたがたに秘密を喋ってしまったからには、どうか黙っておいてください」ふたりの若いヌーシャルテル人は、この返事に戸惑ったものの、アルフレッドと握手し、それから、雇ったばかりの追加の案内人を呼んで、すぐさま最後の準備に取りかかり、その日のうちに翌日の起点に着くよう出発した。

彼らが去った後、わたしはアルフレッドに言った。「それで、あなたは決闘で決着をつけると決めたのですか?」「決まっているでしょう? 実をいうと、わたしは先の若者にも、そんな決闘は無理だと言いました。けれども、わたしが従妹と結婚するのはもっと無理なのだし、わたしが従妹との結婚を拒んだら彼もまた結婚できません」そして彼は微笑んだ。「何という泥沼だ、そう思いませんか? だから、どんな出口であれ良い出口であると、分かってくれるでしょう。ところで、日差しが暑いです、わたしは訳あって山小屋には入れないので、惨めな立場について最後まで話を聞きたいのでしたら、向こうの岩陰に座りましょう」

わたしたちが芝生に寝転がったところで、アルフレッドは言った。「あなたが今朝わたしに激怒するのを見たひとは藝術家です。藝術家には二種類います、ご存じでしょう。一方は判断力がなく、お人よしで、寛大で、気前よく、活動的で、血気盛んで、極度に感じやすく、無一文です。彼もそのような人物で、十九年前に、娘のマリとそっくりの、わたしの叔母と結婚し、情熱のかぎりを尽くして彼女を慕いながらも、無思慮や癇癪や不如意によって、さらには彼女を悲しませたのに絶望して、重石も節度もない極端な性格をした繊細かつ理性的な魂に襲いかかる日々の苦痛や波乱によって、彼は、あなたには初めて話します、そうすればわたしが落ち着くから、そして昨日の夕方に一目見たときからあなたを信頼できると親近感を覚えたからです、――彼は毒を呑んで寿命を縮めたのです! ……」ここでアルフレッドは涙で目を潤ませ、わたしは急に心動かされて胸が熱くなり、思わず彼の手を握った。わたしは彼の語りに魅了され、個人的に打ち明けられた尊い目撃談に魅了され、彼の涙に魅了されていた、というのも、涙を見て、わたしがすでにこの若者に認めていた精神や性格の他の特質に、真正かつ繊細な感受性を加えねばならないと悟り、わたしは甘美な印象で満たされたのだ。

アルフレッドは続けた。「叔父のさまざまな愚行のうちでも極めつけは、自分の生徒を受け入れたこと、とくに、唐松の下でわたしを罵った若者を自分の家に迎え入れたことです。若者はフレデリックという名前で、才能も知性もあり、しかし重石がなく、やはり無一文でした。叔父は彼に魅了され、従妹は彼を気に入り、彼の言い分によれば、結婚を申し込んだときにはすでにいくつか約束を交わした後だったようです。叔母は、軽率な行動のもたらす避けがたい結末を予防するだけの力はありませんでしたが、それでもフレデリックの要求を拒否するつもりでした。しかし、当時すでに病気であり、心配と憂鬱で疲れきって、結婚を阻止できるほど長くは生きられないかもしれないという思いに苛まれ、苦悩と不安に押しつぶされて間もなく亡くなりました、他方で叔父は、叔母の死期を確信するにつれて、あらゆる感情が過剰になり、無念や後悔や絶望でしばしば我を忘れるほどでした。またあるときは、叔母の願望を何でも聴いて、娘の運命をフレデリックに、藝術家に、あるいは軽率な父であり許しがたい夫である自分に少しでも性質や性格や職業の似ている人物に任せないよう、叔母に固く約束しました。そんな折に、わたしが現われたのです。わたしには財産があり、従妹を尊敬するのと同じくらい愛しています。何より、わたしは従妹を彼女の母親の生き写しと見ていましたから、可哀そうな叔母の亡くなる間際に、この方策によって、彼女の願いのうち最も古く、おそらく最も大切と思われるものを叶え、彼女の最期の数週間を飾れると考えました。しかし、叔母が息を引き取る前から、わたしはすでに、親孝行のためと思ってわたしに身を捧げたマリが、かつてフレデリックに誓った愛を心から追い出せていないと、うすうす気づいていました。わたしがこの地方へと旅に出たのは、距離を置かせ、気を逸らし、親密な交流をして、彼女の気持ちを抑え、わたしに近づけられればと、漠然と望んでいたからです……。しかし、今朝あなた自身が目撃したように、若い娘たちの歌に驚いた彼女は、後悔を露わにし、あまりに長いこと隠してきた彼女の苦悩を漏らし、やむを得ず必要に迫られて、わたしは叔母が墓まで持っていった約束を破らねばなりませんでした。しかし、もう沢山です」話している間、アルフレッドは何度も山小屋に視線を向けた。「彼らが出発しようとしています。このひとたちの前で父親からまた冗談を言われてマリが苦しまないよう、先回りして、わたしも遅れず合流すると伝えてください」

わたしはアルフレッドを残し、気乗りのしない用件を伝えに行った。叔父はわたしの伝言をほとんど気にせず、早くも騾馬に乗って先頭を進み、わたしは娘が騾馬に乗るのを手助けした。だが、わたしたちがふたりきりなのを好機と思ったか、すぐさま彼女が、困惑し赤面しながら言った。「あなたがアルフレッドの友人だというので、わたしはあなたを信じます、そして、これが最後のお願いです……。わたしの名において、そして彼の叔母の名において、今朝あなたの前で彼がわたしに言ったことを撤回するよう、彼にお願いしてください……」娘が言い終わると同時に、落ち着いて進む叔父を遠くから見ていたアルフレッドが、自ら彼女のもとへ走り、傍に立って手を取ると熱烈に口づけした。「構いません、従妹よ、あなたが喜ぶなら、このひとの前で言ったことを撤回しますよ、しかし、あなた自身がわたしからその権利を取りあげるのでなければ、わたしがあなたの優しく誠実な夫である幸せを諦めたとは、けっして言わせません!」この台詞に、娘は喜びというより感謝の表情をしたが、その気持ちはすぐに、父を満足させ安心させるであろう知らせを早く伝えたいという焦りに変わった。

わたしはアルフレッドの台詞に喜ぶどころか驚いた、そして、先刻わたしが聞いたばかりの真逆の言葉と比べ、誠実で思慮深いと思っていた若者のうちに移り気の徴候を見てとった。従妹との結婚を取り返しのつかない形で約束して、翌日に決闘する約束をきっぱりと封印し、争いの結末がどうであれ若い男を誘いこんだ約束を無にする準備をしているのだと思うと、その行動は不可解ではないにせよ無謀すぎると思わざるをえなかった。それで、彼から証人を頼まれた悲しい任務で頭が一杯だったところ、たちまち決闘に意識が向き、考えれば考えるほど、不可能なようにも不可避なようにも思えた。そんな心境でウェンゲン山頂の裏側に回ると、グリンデルヴァルトの輝く芝生、大シャイデックの滑らかな斜面、右にはファウルホルンの禿山、左にはアイガーの高地から遥かなるマッターホルンの山頂まで連なるまばゆい氷が、目に飛びこんできた。しかしわたしは、これから起こる衝突、その衝突の引き起こすであろう不吉な出来事を予測するのに夢中で、他のときならばわたしを激しく魅了したであろう雄大な景色にも感動せず、この素晴らしい場所に期待していた感銘や感嘆は一切なかった。

グリンデルヴァルトに着くと、同行者たち三人が、わたしの席も用意された食卓で待っていてくれた。アルフレッドの叔父がわたしを迎えるときに寂しげな表情をしたので、甥の決意に予期せぬ変化が起こったと気づいているのが、すぐさま察せられた。喜びに溢れ、嬉しさに輝いて、感情の奔流に限度を保つのが難しく、ふたりの婚約者穏やかな充足感を邪魔しない出口を探すかのように、陽気な呼びかけや剽軽な挨拶で来訪者に対して感情をまき散らした。すると、廊下を歩きながら部屋番号をひとつひとつ大声で読みあげ、目当ての部屋を見つけた祭りの紳士が、入口に来た。叔父が叫んだ。「給仕さん! 食事をひとりぶん!」そして紳士のもとに駆けよった。「今朝わたしが無礼にもあなたを急かしたのは、悲しみに打ちひしがれていたからです、しかし天国のような幸福に変わりました! どうかお許しください、そして、お許しただけるなら、わたしたちと夕食を共にしてください!」こう言いながら、ふたつの大きな杯になみなみと注ぎ、ひとつを手にして言った。「あなたの健康に、そしてアルプスの薔薇に、乾杯!」祭りの紳士は杯を空けると、しばらく席を外すと断ったが、間もなくわたしたちの食卓に戻ってきて、腰を落ち着けた。

二時ごろ、わたしたちは大シャイデック越えに出発した。このシャイデックは、小シャイデックよりも高いが、険しくはないので、孤立した山というより広く隆起した台地のようで、その形状のため、本来ならば登るにつれて疎らで痩せてゆく畑が、頂上附近まで見られるのだ。ここから谷へと下る氷河のすぐ傍で、石で囲われた貧相な区画の横を通ると、小さな穂の薄い毛で覆われており、花が咲くのを恐れているかのように寒々としているが、ささやかな光景に何だか分からない魅力があって考えさせられる。哀れな山の民、過酷な労働に何と少ない報いだろう! 弱々しく芽吹いて、あなたの儚い命を何と脅かすことか? 神よ、これらの畑が実を結び、散らばった家々に冬の蓄えを与えるまでに、あなたはどれほど用心し心配したことか! ……それなのに、遅い春は早い冬へと変わり、ようやく整地されて再び花を咲かせた大地が、また霜の下へと消えてしまう、この厳しい気候に生きる無名の民が、雪の積もった小屋に何ヶ月間も埋もれながら、他の者よりも、われわれよりも、悲しみ、苦しみ、困窮しているという話は聞いたことがない。

大シャイデックの山頂はマッターホルンの裾野に寄りかかっており、ローゼンラウイの芝生に垂直の控壁を立てるヴェッターホルンの山頂まで、氷を冠した岩壁が続き、その岩壁から雪崩が何箇所も落ちて、溝の底に白い三角形を作り、互いに泥まじりの流れで近くのものとつながっている。反対側の斜面の砂地には、育ちの悪い唐松が数本あり、あるものは氷の破片で折られながらも伸び続け、曲がった枝を短かく地上に投げ出している。またあるものは霜に枯らされ、生気のない姿と青白い裸の枝は、詩人がコキュートの荒涼たる海岸に登場させる、ひょろ長い亡霊を思わせる。しかしローゼンラウイでは、巨大な堆積物、凄まじい割目、大地そのものが裂けて激流の深淵を覗かせている恐ろしい光景と、黄金色の草原、爽やかな空地、雑木林の木蔭、水のせせらぎが川底の岩の周りを遊んだり砂利の上を軽やかに滑ったりする長閑で心地よい光景が隣り合って、顕著な対照が作られている。ローゼンラウイの先では、谷が細くなって峡谷となり、険しい道が曲がりくねって、やがて最後の折り返しを過ぎると、眼下に胡桃の森、緑深い草原、アーレ川の青い流れ、マイリンゲン、その向こうには、反対側の山の岩を背にして緑の丘があり、その上に灰色の陋屋が建っている。これがレスティの草原だ。

わたしたちはグリンデルヴァルトからマイリンゲンまで一気に行くつもりだったが、ライヘンバッハの滝からすぐの峡谷の出口に最近建てられた宿を見つけ、アルフレッドが一晩泊まろうと提案した。「今晩、街で宿が見つからないかもしれません、それに、明日の朝、街まで行くには二十分もかからないでしょう。どうですか、叔父さん?」叔父は賛成し、わたしも賛成した、そして少し迷っていた祭りの紳士も賛成した。ただ、祭りの場に時間どおり到着できずに力士の見世物を見そびれはしないかと、宿に着くやいなや、正確な案内や詳細な情報を求めて、通行人に、ワイン給仕に、そして最後に宿の主人に、その奥さんと娘に声をかけた。しかし誰も、祭りというのが何だか分からず、しかも仕事に忙しかったため素っ気ない答えだったので、紳士は配膳室に降りて料理人に質問しようとした。料理人たちは笑い上戸で、料理を作りながら、手に入ったものは何でも笑いにするのだ。料理人は紳士を快く迎え入れ、ソースに胡椒をかけたり煮込みを混ぜたりする手を休めることなく、翌日の出し物の演目を喜んで教えてくれた。力士、衣装、鳴り物、幟、そして雄牛を先頭にした二千頭を超える雌牛が、一斉に鐘を鳴らして地域を盛り上げる。この壮大な描写は、より細部が詳しくなっている以外は、インターラーケンの木こりの説明と酷似していたので、紳士は元の冷静さを取り戻し、すぐに食堂へ戻って、喜びで朗らかになり、情報を得られて満足し、食欲旺盛になって食卓に座ったのだった。

夕食のとき、わたしたちは氷河や雪崩、そして祭りの話をした。しかし娘はほとんど会話に参加せず、前の晩よりもずっと悲しく憔悴して見え、途方に暮れて黙ったまま生気なく青ざめたり、無理して喋ったり笑ったりするあまり動揺して赤面したりした。しかし鋭い視線で彼女の苦悩を見逃さなかったアルフレッドは、注意を逸らすため、そして早く食事を終わらせるため、叔父を楽しませ、わたしたちを冗談で喜ばせ、食事を急がせた。デザートが出されるやいなや、彼は言った。「マリ、君は疲れているし、きっと力士を見たくもないだろうから、もう食卓にいる必要はないし、朝もゆっくり寝ていたらよい。さて、わたしたちは、このような予定としましょう。八時にレスティの平原で祭りが開かれます。ここを七時ちょうどに出発して、そこまで行きましょう。紳士さんの言う鐘や鳴り物を充分に見物したあと、従妹よ、必ず戻って来て、何が起こったか、最も楽しい報告をしましょう……」「賛成! 賛成!」食卓のふたりはすぐに声を上げたが、わたしはといえば、アルフレッドが叔父に予想外の提案をしたのを聞き、唖然として狼狽した。実際、この物語は、感傷的に始まり、不吉に変わり、最後は不条理になってしまった。つまるところ、突然の変心で事あるごとにわたしを甚だ驚かせてきた若者と知り合ってから僅か数時間しか経っていないのだと思うと、彼が本当にわたしを重大な事態に巻きこもうとしたのか、悪い冗談でわたしに役を割りふってみせたのか、もはや断定できなくなった。さらに、一刻も早く見極めねばならないと思ったところ、それを阻止するかのように彼は席を立って、わたしに優しく「おやすみ」と言って、従妹を部屋の戸口まで送ったあと、即座に自分の部屋へと引っこんでしまった。つまり昨日と同じ時刻に、わたしは祭りの紳士とふたりきりになったのだ、そして紳士がまだ肉料理の最初の一切れを食べているのに気づき、再び鳴り物や鈴の話を始めようとする紳士を礼儀を尽くして遠ざけ、紳士と別れて寝床に就いた。

うまく寝つけず、夜明けには目が覚めて、わたしは体操しようと道に出た。しかし、寒さの厳しい時刻で、地面は露に濡れ、ますます凍えて、わたしは急いで戻り、台所の火で体を温めた。そこには女中がいて、柴を燃やした明るい炎の上で洗濯物を裏返していた。わたしが「早起きですね」と言い、女中が「準備できましたか?」と答えたとき、戸口に叔父が現われて叫んだ。「行け! 走れ!」そして、わたしを見るなり目に涙を溜めて一気にまくし立てた。「ああ! 君、昨日から何という変わりようだ! 恐ろしい夜、嗚咽、激情、娘の苦闘、わたしが娘にさせた約束!」わたしは話を止めさせ、苦しみに共感していると伝え、慰めや助言のために、どんな厄介事が起こったのか教えてくれるよう頼んだ……。彼の言うには、一時ごろ、苦しげな溜息が聞こえたような気がして娘の部屋に駆けつけると、娘が呻きながら泣いていた。絶望した姿に心を痛め、前日の自分の激昂と強情のせいだと自分を責め、娘の望みどおりアルフレッドとの婚約を解消してフレデリックと結婚させようと提案した。そして、この計画に同意してもらおうと一晩じゅう頑張った挙句、逆に、昨日やっと結び直したものを解くような真似は一切しないと、確固たる約束をさせられて、ようやく娘を落ち着かせられた。「これが今のわたしです。望まぬ譲歩をし、意に反して隠れ、心にもなく偽り、それゆえ、雁字がらめで、打ちひしがれ、絶望して、この地獄の祭りを楽しまねばならない!」こう言い終わったとき、祭りに参加していた紳士が牛追い歌〔ラン・デ・ヴァッシュ、スイスの民謡〕を心地よく口ずさむのが、階段から聞こえてきた。叔父が言い返した。「失せろ、この馬鹿野郎!」そして顔を合わせる前に立ち去り、わたしは打ち明け話の反応に困ったまま取り残された。

間もなく祭りの紳士が戸口に現われ、牛追い歌を最後までわたしに聞かせようと立ち止まってから、わたしに近寄って朗らかに手を握った。温厚な顔は喜びに溢れていた。前日とはまったく違う装いで、アルプスの祭りで場違いにならないよう気を使っているのがよく分かった。襟開の上着で、襟を折り、緩く巻いたネクタイの端を風になびかせ、頭にはドイツ風の縁なし帽をかぶり、手にはシャモアの角をつけた長い槍を持っていた。その恰好を見て、わたしは思わず吹き出してしまったが、紳士は些かも気を悪くせず、緋色の紐で吊った小さな山羊の角笛を掴んで口元へ持ってゆくと、力いっぱい鳴らし、そして言った。「皆さんに合図するには、これが一番」また高々と吹きはじめたところで、慌てて駆け寄った女中が、若い娘のために耐えがたい音楽を今すぐ止めるよう懇願した。「お安い御用です、美しいお嬢さん、可愛い寝顔の嫌がることは決して致しませんとも」そう紳士は言い、確かに吹くのをやめた。

しかし、このとき突然アルフレッドが現われ、わたしたちふたりに挨拶すると、一点の曇りもない様子で言った。「叔父に一緒に来てもらうのは、なかなか大変です。しかし、もしあなたがたがわたしたちよりも先に行かれるのであれば、叔父はもうわたしをひとりで行かせたくないと思っているでしょうから、もっと楽に叔父を連れて行けるはずです」そして、わたしに目配せしながら続けた。「それから、祭りについてですが、わたしも見たいと思っています」わたしは答えた。「あなたの言うとおりにしましょう。もしわたしたちに先に行ってほしいというのであれば、わたしはもう出発できます」「行こう!」祭りの紳士が意気揚々と叫んだ。わたしの前を歩き、再び大声でランツ・デ・ヴァッシュを歌った。朝は昨日と同じように晴れ渡り、空気はこの上なく新鮮で清らかだった。質素で長閑な印象のおかげで、考えが暗いほうに向かわなかった。アルフレッドの雰囲気や口調から、彼の段取りを信頼し、彼の意図に期待しようという気になり、もう陰気な考えは浮かばず、金色に輝く山々に不吉な陰りはなかった。シャイデックからの道とグリムゼルからの道の終点である屋根つき橋でアーレ川を渡り、マイリンゲンを左手に見て、森を抜け、レスティの灰色の陋屋が建つ小さな草原に出た。しかし、いくら目を凝らして探しても、同行の紳士が見たのは、幟や鈴ではなく、わたしたちが近づくと立ち上がった若い男がひとりだけだった、そして広げたハンカチの上に、拳銃、弾丸、火薬瓶……。それを見た紳士は、顔一杯に激しい恐怖の表情を浮かべ、見なかったことにしようとしたが、若い男のほうは、少し躊躇ったものの近寄ってきて、丁寧で儀式めいた挨拶をくれ、話したいという仕草をした。「お分かりでしょう、この地域には知人もなく、またわたしの名前と存在をある程度まで隠しておかねばならなかったので、友人を連れて来ることはできなかったのです。そこで、勝手ながら、わたしの敵とまだ関わりのないないあなたがたのどちらかに、わたしの証人になっていただきます」同行の紳士は、思いがけない提案に唖然として、返事をしなかった。わたしが代わりに答えた。「これは、誠実な男の、誠実な男に対する、辞退できない任務です。ですから、彼とわたしは、その役割を進んで引き受け、あらゆる義務を果たすよう努力すると、わたしが保証します」こうして、ドイツ風の縁なし帽をかぶり、アルプスの祭りの用意をしていた紳士は、目的も条件も分からぬ決闘の証人となるのが決まったのだ。

ところが、間もなく草原の反対側にふたりの人間が現われた。ふたりを見るなり、互いの態度から、宿を出たあとふたりの間に何かあったのではないか、とくに叔父のほうは、娘の結婚を争っている恋敵の決闘を見るためにここへ来るのだと前もって聞かされているのではないかと、わたしは思った。重々しく勿体ぶっていたもかもしれないが、少なくとも叔父がフレデリックを見て何の驚きも示さなかったのは確かだ、そのフレデリックは、叔父が現われるのを見て、いたく動揺して言った。「どういうことだ? ……マリの父親の前で決闘しろというのか?」「そうはさせません」わたしは答えた。もっとも、わたしたちが話している間に、アルフレッド自身が叔父を追い払っており、叔父はわたしたちに黙礼して道を進み、小屋に着くと、後ろに隠れて見えなくなった。

青ざめた顔のアルフレッドが、震える声で相手に言った。「あなたとの決闘に応じるために、わたしは大変な努力をしました、というのも、昨日も今日も、わたしたちの運命というより、わたしにとって大切な従妹の運命が、この場で決まるのだと、わたしは充分に考えてきた……。しかし、彼女は今、ふたりの対戦者の間に置かれています、片方はあなたです、愛を共有する権利を主張しています。もう片方はわたしです、彼女と結婚しようと努め、求め、手に入れましたが、正直にいってこの状態には耐えられません、ふたりのどちらかを永久に消して問題を解決するのはわたしたち次第です。だから、昨日わたしが同意の条件として明示したとおり、この結果を確実にもたらす決闘ならば何でも受ける用意があるし、確実かつ不可避の方法で結果につながるのでない決闘ならば受けません」フレデリックは、この条件を認める身振りをした。するとアルフレッドがわたしたちのほうを向いて言った。「証人の皆さん、あとはあなたがたの役目です」

祭りの紳士は膝が震え、顔面蒼白で、この上ない不安を物語っていたが、わたしはというと、これほど生き生きとした感情、これほど過酷な疑念、これほど恐ろしい困難を一度に経験したのは、人生で初めてだった。実際、これほど重大な局面でのアルフレッドの威厳ある毅然とした口調に、寛大な人柄から感じられた和解の意図など疑わしくなって、わたしは恐ろしい破局が迫るのを予感した。他方で、敵対するふたりの名誉がまだ一時的な問題にすぎない状態で、場違いに口を挟んで、できるならば何としても阻止したかった事態を決定づけてしまうのではないかと、わたしは恐れた。よくよく考えた末、装填した武器を渡さないかぎり何も事件は起こらないだろうと思い、しばらくはこちらから何も言うまいと決めて、無言でハンカチを掲げ、祭りの紳士を手招きして、遠くへ退いた。そして、フレデリックが燕尾服を脱ぎ、アルフレッドがわたしのいた場所に立っている間に、わたしは拳銃に弾を込めた。わたしが拳銃を置くのを彼が見るまで、何があっても彼に渡す拳銃を置かないよう、同行の紳士に三度念押しして、ふたりで決闘の場に戻った。

わたしは口を挟もうとしたが、短かくも重苦しい待ち時間のうちにアルフレッドの顔に優しく穏やかな表情が広がっており、わたしの心は喜びで満たされ、この若者が言葉を発する前に、わたしは不可解に思われる彼の行動のすべてを理解した。とりわけ、叔父の執念深い頑固さとフレデリックの激しい嫉妬のせいで実現しそうにない従妹の幸福を、気高い無私無欲と巧妙な慎重さで、絶えず望みつづけたのだ。準備が整ったところで、彼は相手に言った。「気まぐれをお許しください、わたしはそこから始めるべきでした。証人の持ってきた武器ではなく、同じ結果をもたらすであろう他の武器に代えましょう」そして、美しい顔に親しみやすい微笑みを浮かべた。「あなたの愛するひととの結婚を、わたしが譲れば、敵は消え、マリの従兄かつフレデリックの友人である者だけが残るのではないでしょうか! ……」その瞬間、わたしの瞼から涙が溢れ、その向こうに騒々しくも感謝に満ちた、沸きたつような光景が見えた。ふたりの若者は互いに抱きあった。駆け寄ってきた叔父は昂奮して叫んだ。不安に苛まれていた同行の紳士は安堵と感動でアルフレッドの手を握り、もう片方の手でわたしに倣って拳銃を放り投げた。

アルフレッドへの尊敬で一杯となり、わたし自身も心からの深い喜びに包まれたが、その場に相応しい表現をするのが難しく、はじめのうちは思わず何度も大はしゃぎしたのを覚えている。行ったり来たりし、跳ねまわり、次々と皆に抱きつき、もしレスティの小さな平原に誰か来たら間違いなくわたしは飛びついて予期せぬ抱擁を浴びせたに違いないと思う。というのも、美しく、利害にとらわれず、確固たる大きな意志によって追求され、人間性、正義、私利や嗜好を越えた理性による偉大で恵み深い力をもって為される行ないは、見る者の魂を歓喜の渦による狂おしい恍惚に投げこむからだ。実際、この光景によって一時的に本来の自由で高貴な感覚を取り戻した魂は、もはや何によっても潰されず、何によっても邪魔されず、力強く広がる素朴な喜びの爆発によって、この甘美な充足感の快楽を表出する。何と素敵なことか! わたしたち五人は、ついさっきまで互いに深く対立していたり、昨日まで一度たりとも会わなかったりしたのに、今しがたの出来事で同じ印象を抱き、突然の幸福、温かい愛情、固い友情で心がひとつになった。さらに、祭りの紳士は、鈴も鳴り物も力士も忘れ、身近なひとに慈悲深い神からの祝福があったと語る旧友どうしのように、わたしと腕を組んで一緒に丘を下りた。

やがてわたしたちは宿に戻った。アルフレッドは笑顔で、決闘の後に恒例の、和解の昼食が用意されているとわたしたちに伝えるとともに、自分で機を見て従妹に話すから先に目撃談を話さないよう頼んできた。しかし、この種の秘密は、歓喜や感動、誰かを早く喜ばせたいという気持ちが、計画を妨げ、念入りな準備を不可能にするのが常である。だから、若い娘は食卓に入った途端、父の表情、その顔に輝く喜び、アルフレッドの雰囲気や態度から、すべてを察した。彼女の目から温かい涙が溢れ、昂奮した父親も、急に現われて足元に跪いたフレデリックも構わず、真っ先に、高貴な犠牲と保護者のような愛情で彼女の願いを叶え、彼女の幸せを保証してくれた者に、惜しみない感謝を注いだのだった。

その晩、月の昇った頃、わたしはアルフレッドとアーレ川のほとりを散歩した。彼は悲しげで、会話は気だるげだった。最後に、自分の内なる苦闘いを終わらせようとするかのように、彼は言った。「だから、わたしは少年のままでいるのだ!」

(訳:加藤一輝)

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