グザヴィエ・ド・メーストル「シベリアの少女」冒頭

【原題:La Jeune Sibérienne】
【最初にメーストル自身が述べているとおり、この少女の話は既にコタン夫人が小説にしていましたが、脚色を嫌ったメーストルが事実に沿って書いたものです。現在もイシムの街には少女の像が建っています。原典はŒuvres complètes du comte Xavier de Maistre (Nouvelle édition), 1866を使用しました。()は原註、〔〕は訳註です】

パーヴェル1世の治世〔1796-1801年〕の終わり頃、父の赦免を請うために歩いてシベリアからサンクトペテルブルクまで行ったという少女の勇気は、当時たいそう評判となり、ある有名な作家(コタン夫人のこと)が少女を主人公にして興味深い旅を小説にした〔Sophie Ristaud Cottin, Élisabeth ou les Exilés de Sibérie, 1806〕。けれども少女を知っているひとは、父に対する極めて純真な愛の他には何も持たず、何の支援も助言もなしに、自ら最も健気な行動を思い立って実行したという、この幼くも気高い少女に、作者が色恋沙汰や小説的創意を加えたのを、よく思っていないようだった。

少女の冒険は、小説家が架空の登場人物に演じさせるような予想外の面白さはなくとも、単なる経験談として脚色なしの事実そのものが充分に面白いから、読んで全く楽しめないということはなかろう。

プラスコーヴィヤ・ルポロヴァ〔Прасковья Луполова〕というのが少女の名前であった。父はウクライナの貴族の家系だが、たまたま彼の両親が諸事情でハンガリーに移っており、そこで生まれ、しばらく黒色軽騎兵隊〔ユサール・ノワール、1793年にフランス北部で結成された義勇軍。同年、正規軍に編入され第10軽騎兵隊となった〕に入っていたが、間もなく退隊し、ロシアに来て結婚した。その国で再び軍務に就き、長らくロシア軍に務め、トルコとの会戦に幾度も出征した。イズマイールやオチャコフの奇襲〔いずれも露土戦争(1787-1791年)でロシアが陥落させたトルコの要塞〕に加わり、部隊で武名を鳴らした。シベリア送りにされた理由は分からない、訴訟も再審も秘匿された。ただ、隊長の悪意から不服従の咎で裁判にかけられたのだと言う者もいた。いずれにせよ、娘が旅に出たとき、彼は14年来シベリアにおり、トボリスク県の国境に近いイシムという村に流され、土木作業を課されていない囚人に支払われる僅か10カペイカの日給で家族と暮らしていた。

うら若いプラスコーヴィヤは、村の洗濯や刈入の手伝いをして、力の許すかぎり農村の仕事を何でもこなし、報酬に小麦や卵や野菜を持ち帰って、両親の家計を支えた。幼い頃にシベリアへ来たので、これ以上に幸せな境遇を思い描くこともなく、多くの辛苦を耐え忍ぶ骨の折れる労働に喜んで励んだ。華奢な手は他の仕事をすべきもののように思われた。母は貧家のやりくりに精一杯で、悲惨な境遇を甘受しているようだった。しかし父は、少壮の頃から軍隊の活気ある生活に馴染んでおり、現状を受け入れられず、たびたび絶望の発作に襲われたのは、ただ不幸の極みにあるからというだけではなかろう。

父は悲しみに呑まれていることをプラスコーヴィヤに見せまいとしたが、両親と自分の部屋を隔てる壁の隙間から一度ならず父の涙を見た娘は、少し前から両親の酷な身上を考えるようになっていた。

ルポロフ〔ロシア語の姓は男女で語尾が変わる。男はルポロフЛуполов、女はルポロヴァЛуполова〕は何ヶ月も前にシベリア総督に嘆願書を出したが、以前から返事を貰ったためしはなかった。公務で文書を預かりイシムを通る官吏が、総督への請願に口添えを約束してくれた。哀れな流刑者は一縷の望みを懸けた。けれども相変わらず返事はなかった。旅行者や配達夫が(ごく稀ながら)トボリスクへ来るたびに、失意の苦しみが今ある不幸に重なっていった。

かような痛ましい時期に、少女が収穫から帰ると、涙にくれる母を見つけ、また苦悩のあまり錯乱しきった父の青ざめた顔と沈んだ目つきに驚いた。娘の姿を見るなり父は叫んだ。「あれこそわたしの不幸のうちでも一番むごいものだ!あれこそ怒れる神がわたしに賜った子だ、自分の不幸と子の不幸で二重に苦しませ、わたしの眼前で奴隷のような仕事に疲れて弱ってゆく子を見せつけ、どんな男にとっても父になるのは幸せなことなのに、わたしにとってだけは父という肩書を天からの決定的な呪いの言葉にしようと!」プラスコーヴィヤは恐ろしくなって父の腕に飛び込んだ。母と娘は、貰い泣きしながら父を慰めた。この光景は少女の心に最も強い印象を与えた。このときはじめて、両親は娘に絶望的な境遇を包み隠さず語った。このときはじめて、少女は一家の不幸の全体像を描くに至った。

その頃、齢15の年、サンクトペテルブルクへ父の赦免を求めに行こうという発想が、はじめて心に浮かんだ。少女自身の語ったところによれば、ある日この幸福な考えが雷のように閃き、ちょうど祈りを終えたときのことで、えも言われぬ動揺をもたらした、という。以来ずっと天啓であると確信し、いかに意気を挫かれる情況にあっても固い信念が支えとなった。

それまで自由の希求など考えたこともなかったのだ。かつてない感覚に、大きな喜びで一杯となった。さっそく祈りを再開したが、あまりに漠然とした思いつきに自分でも何を神に祈ったらよいか分からず、ただ感じるばかりで説明できない幸福を奪われることのないよう祈るのみであった。とはいえ、サンクトペテルブルクへ行って皇帝に跪き父の赦免を請うという計画は、どんどん心の中で大きくなって、それしか考えられなくなった。

家に近い樺林のはずれに祈りの場所を定め、足繁く籠りに行った。通い詰めているうちに定例となった。そこでは計画のことばかり考え、若い魂の情熱をありったけ傾注して、どうか旅をさせてくれますように、旅するための力と方法を賜りますようにと神に祈った。夢中になるあまり、しばしば林の中で我を忘れ、日々の仕事を放ったらかしにするので、両親に咎められた。思案中の計画を打ち明けるにはしばらくかかった。思い切って説明しようと父に近づくと、いつも勇気がなくなった、上手く行かない気がしていた。けれども、充分に計画を練り上げたと思うに至り、話す日を決め、臆病に打ち克つのだと固く決意した。

当日、プラスコーヴィヤは朝早く林へ行って、考えを述べる勇気と両親を説得する弁才を神に祈った。そして両親のうち先に会ったほうに話をしようと決めて家に戻った。母のほうが寛大だから、運よく先に出くわすことを願った。しかし家に向かっていると、玄関の脇の椅子でパイプを吹かしている父が目に入った。少女は敢然と父のほうへ進み出て、計画の話を切り出し、精一杯の熱弁でサンクトペテルブルクへと出立する許可を請うた。口を挟まず大真面目に聴いていた父は、話が終わると娘の手を取り、夕食の支度をする母のいる部屋に戻って叫んだ。「母さん、よい知らせだ!有力な庇護者が見つかったぞ!娘が今すぐサンクトペテルブルクへ行って、自分で陛下に話をつけてくるそうだ」それからルポロフはプラスコーヴィヤの言ったことを冗談交じりに全て喋った。「くだらないことを言っていないで自分の仕事をしてくれたらよいのに」と母が応じた。少女は両親に怒られると身構えていたが、茶化されると太刀打ちできなかった、一切の望みを無にされたようだった。ひどく泣き出してしまった。らしくない陽気さを一瞬だけ見せた父は、たちまち元の厳しさを取り戻した。泣くのを叱っていると、気の毒に思った母が笑って娘を抱き寄せた。布巾を渡して「さあ、夕飯にするからテーブルを拭いてちょうだい。そしたら好きなときにサンクトペテルブルクへ行って構わないよ」と言った。

プラスコーヴィヤに計画を飽きさせるには、叱咤や折檻よりも、こうした茶番のほうが効いた。ただ、子ども扱いされたために感じた屈辱は間もなく消え失せ、少女は挫けなかった。沈黙の氷を破ったのだ。何度も繰り返し頼み、あまりに頻繁でしつこいので、耐えかねた父は本気になって怒り、二度とその話をしないよう厳しく言いつけた。母はいっそう優しく、困難な計画を夢見るには幼すぎることを分からせようとした。

それから3年間、プラスコーヴィヤが願いを変えることはなかった。母の長患いのため、もっとよい時機まで計画の延期を強いられた。けれども、日々の祈りのときに父から出発許可を得られるよう願わない日はなかった、いつか神が叶えてくれると確信していた。

このような年若いひとが敬虔な心や篤い信仰を持っているのは奇特に思われるに違いない、教育の賜物でもないから尚更である。父は無信仰ではないにせよ祈ることは僅かだった。その点では母のほうが厳格だったものの総じて知識を欠いており、プラスコーヴィヤは自身を突き動かす感情を自ら得たのだ。この3年間で分別もはっきりし、家の中で少女の意見は重みを増した。だから自分の計画を提示して議論することもでき、もはや両親は子どもの戯言と思わなかった、けれども娘がいっそう大切になったからこそ両親は強く反対した。引きとめは心に訴えかける性質のものであった。からかったり脅したりするのではなく、情と涙で翻意させようとした。「わたしたちはもう歳だ、ロシアには財産も友人もない。お前しか頼れる者のいない両親を寂寥の地に置き去りにして、両親を自由にするどころか余命を縮めるかも知れないのに、ひとり命を落としかねない危険な旅に出かける気なのか」こう説かれるとプラスコーヴィヤは涙で答えるばかりだった。とはいえ意志は全く揺らがず、日を追うごとに志操を固くしていった。

〔以下しばらく旅の準備が続きます〕

〔訳者の確認した限り、以下の既訳があるようです。多くは少女向けの読み物としての翻案です。
野村壽惠子『シベリアの少女』、大倉書店、大正5(1916)年
水谷謙三「シベリアの少女」、『シベリアの少女 他一篇』、長崎書店、昭和15(1940)年
中村義男「シベリヤの乙女」、『コーカサスの捕虜』、山根書房、昭和19(1944)年
田沼利男『シベリヤの少女』、実業之日本社、昭和24(1949)年
岡田弘『シベリヤの少女』、白水社、昭和25(1950)年
訳者不詳『カバヤ児童文庫 第10巻・第3号 野越え山越え』、カバヤ児童文化研究所、昭和28(1953)年
野田開作『世界少女名作全集19 あらしの白ばと』、偕成社、昭和34(1959)年
池田宣政『シベリヤの少女』、女子パウロ会、昭和49(1974)年
名木田恵子『マーガレット文庫 世界の名作14 シベリアの少女』、集英社、昭和50(1975)年〕
〔なおコタン夫人の小説にも以下の既訳があります。
淺井榮煕・坂本筒藏『孝女美談 沙漠の花』、集成社、明治20(1887)年〕

(訳:加藤一輝)

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