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ジュゼップ・プラ 『灰色のノート:日記』

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カタルーニャの作家ジュゼップ・プラ(Josep Pla)の代表作『灰色のノート:日記』(El quadern gris un dietari)の翻訳です。当翻訳は翻訳権の十年留保… もっと読む
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ジュゼップ・プラ『灰色のノート:日記』 「1918年3月9日」(2)

カタルーニャの作家、ジュゼップ・プラの代表作、『灰色のノート:日記』の翻訳です。(加藤広和) ぼくの両親が結婚したのは若く(20歳だった)、とても健康なときだった。それで僕も、生まれてすぐにとてもよく育った子供だと言われた。いまでこそ赤ん坊の体重はしょっちゅう測られているし、最近では体重を測るための、ゆりかごの付いた体重計を備えた薬局もあるが、ぼくが赤ん坊だったころにはそれはまだ一般的ではなかった。もし測ったら、赤ん坊としてはけっこうな体重になったことだろう。母がよく語って

ジュゼップ・プラ『灰色のノート:日記』 「1918年3月9日」(1)

カタルーニャの作家、ジュゼップ・プラの代表作、『灰色のノート:日記』の翻訳です。(加藤広和) 3月9日。 ―― こういう類いの本では最初に伝記的な説明が来るものらしい。ぼく個人としては、回想録や思い出、記録といったものを読むのは、たとえ単純で平凡なものであっても面白く思える。もしこの日記が火の手を逃れたら、いつの日かぼくの遠い親戚や、あるいは知りたがりの暇人が目を通すなんてこともあるかもしれない。 ぼくは1897年3月8日、パラフルージェル(アンプルダ・プティ Empor

ジュゼップ・プラ『灰色のノート:日記』 「1918年3月8日」

カタルーニャの作家、ジュゼップ・プラの代表作、『灰色のノート:日記』の翻訳です。(加藤広和) 3月8日。 ―― インフルエンザが流行ったせいで大学が休校することになった。それ以来、ぼくは弟と一緒にパラフルージェル(Palafrugell)の実家で暮らしている。暇な学生が二人というわけだ。弟はサッカーが大好きだ。それで腕や足を骨折したこともあるのだが。弟とは食事のときくらいしか顔を合わせない。彼のやりたいようにやっているのだろうし、ぼくもそうしていく。バルセロナや、まして大学