ジュゼップ・プラ『灰色のノート:日記』 「1918年3月8日」

カタルーニャの作家、ジュゼップ・プラの代表作、『灰色のノート:日記』の翻訳です。(加藤広和)


3月8日。 ―― インフルエンザが流行ったせいで大学が休校することになった。それ以来、ぼくは弟と一緒にパラフルージェル(Palafrugell)の実家で暮らしている。暇な学生が二人というわけだ。弟はサッカーが大好きだ。それで腕や足を骨折したこともあるのだが。弟とは食事のときくらいしか顔を合わせない。彼のやりたいようにやっているのだろうし、ぼくもそうしていく。バルセロナや、まして大学に戻りたいとは思わない。村で友達と過ごすほうがいい。

お昼ごはんのあと、デザートになって大きな皿のクレーム・ブリュレとおいしそうなクッキーがテーブルに出てきた。クッキーはきつね色にふんわりと焼いて、砂糖をすこしまぶしてある。母が僕にこう言った。

「今日で21歳ね」

確かに今日で僕は21歳だ。異論の余地はない。周りを見てみると、父は黙って、全くいつも通りに食べている。母はいつもよりいらいらしていないようだ。しかし、カタルーニャではふつう守護聖人の日しかお祝いしないことを考えると、このクレーム・ブリュレとクッキーの存在がなんだか怪しく思えてくる。本当にぼくの誕生日を祝うために作られたんだろうか。あるいは、一年生の時の大学の成績がかなり悪く、はっきり言ってお粗末なものだったことを思い出させようとしてるんじゃないだろうか。当然の介入と言うべきだろう! 漠とした謎のような息子を持つというのはさぞ落ち着かなかろう。もっとも、このデザートは僕に良心の呵責を引き起こすべきなんだろうが、それにしたところで本当においしそうなクッキーと文字通り甘美なクレーム・ブリュレを手にとるのをためらわせるほどではなかった。ぼくの軽薄さも大したものだ。おかわりをよそっていたら雰囲気がはっきりと冷たくなってきた。21歳!

家族! きみょうな、ややこしいもの……

午後も中頃になって雨が降りはじめた。細かく、濃密で、小さくゆっくりした雨だ。風は全くない。空は低く、灰色をしている。雨粒が地面や庭の木に降りかかる音が聞こえる。遠く、ぼんやりした木々のざわめき――冬の海のような。3月の雨だ。冷たく、氷のような。日が暮れるにつれて、灰色だった空はガーゼのように白くなってくる。鉛色で、現実感がない。村の屋根の上に、濃密で、触ることもできそうな静寂がのしかかる。降りかかる雨のざわめきがこの静寂をおぼろげな音楽へと引き伸ばす。この単調な響きに、一日中頭から離れなかった考えがたゆたっている。21歳!

雨を見ていたら退屈してしまった。何をすればいいのだろう。勉強しないといけない。それはわかりきっている。教科書を復習して、このつまらない弁護士の勉強をなんとかしないといけない。でもそれは無理だ。確かに道端で見つけた紙切れをつい読みふけるということはよくあるけれど、教科書を前にするとその好奇心も何重にも鍵をかけられたように閉じきってしまう。

日記を書いていこうと決めた。身の回りに起きたことなんかを、少しずつ、ただ時間をつぶすために書いていこうと思う。母はとてもきれい好きで、家を冷徹な秩序のうちに保つという執念に取り憑かれている。紙を引き裂いたり古いがらくたを燃やしたりするのが好きで、母にとって実用的・装飾的な用を今すぐに満たさないものはすべて屑屋に売り払ってしまう。だから、この日記が母の尊敬すべき家庭的美徳の手を逃れたとしたら、それは奇跡というべきだろう。といってもそれに大した意味があるわけでもないとは思うけれど……

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