ジュゼップ・プラ『灰色のノート:日記』 「1918年3月9日」(2)

カタルーニャの作家、ジュゼップ・プラの代表作、『灰色のノート:日記』の翻訳です。(加藤広和)


ぼくの両親が結婚したのは若く(20歳だった)、とても健康なときだった。それで僕も、生まれてすぐにとてもよく育った子供だと言われた。いまでこそ赤ん坊の体重はしょっちゅう測られているし、最近では体重を測るための、ゆりかごの付いた体重計を備えた薬局もあるが、ぼくが赤ん坊だったころにはそれはまだ一般的ではなかった。もし測ったら、赤ん坊としてはけっこうな体重になったことだろう。母がよく語ってくれたが、むかし、母や子守が僕を乳母車に乗せて散歩に出ると、外で出くわしたカップルがぼくの頬をみてはうっとりとしていたらしい。女性の方はぼくをみるとおおはしゃぎして、よく人が赤ん坊に話しかける時につかう、わけのわからない調子の声でわけのわからないことを話しかける。それから脇にいる男の方を、こんなことを言いたげに、笑いながら見る。
「私たちの子どももこんなふうになるかしら……」
男の方はというと、謙虚で都会的な上品さをみせて、恥ずかしげに目を落とす。おそらくこんなことを考えている。
「できる限りのことはしよう……」
その辺の通りを散歩しただけで生まれ故郷の若者にこんなに高邁な考えと素晴らしい感情を抱かせたというのは嬉しいことだ。成長してからというもの、これほどまともで尊敬されるような結果を残したことはない。
ともかく、ぼくはノウ(Nou)通り(あるいはプログレス(Progrés)通り)で生まれた。これは長い道で、とても閑散としていて、教会の大ろうそくのようにまっすぐだった。カリタ(Caritat)通りからパラモスの線路の方に続いていた。無駄に大きい家で背がかなり高く、正面は山から下ろしてくる風をもろに受けていた。そのせいで通りの方に向かっていた部屋は冬にはとても寒く、凍えたようだ。反対に、南側はとても日当たりが良く、小さく囲われた畑に面していた。その畑の向こうがわ、低い壁を越えたところにはジョアナマ(Joanama)の畑が見えた。それはもっと大きく、とても丁寧に耕されていた。ぼくが(自分は昔から片付けは苦手なのに)ちゃんと整理されて片付いたものを見るのが好きなのは、しっかりと設計され、水をやり、よく耕されたこの畑を眺めていたときの精神的な喜びに由来するというのはありそうなことだ。
自分が幼かった頃については何も思い出せない。聞くところによると、猩紅熱や麻疹といった、子供がふつうかかるもの以外にはなにも病気をしなかったらしい。赤ん坊の時は甘い恍惚のなかに生きていたようだ。家族生活ということについては、ほぼ間違いなく文句のつけようのないものだった。もしできることなら親を選びたかったというふうに言う人がたまにいるが、ぼくはもし選べたとしても、ぼくを産んで育ててくれた人たちを選ぶだろう。みんな、良いことだったり悪いことだったり、いろいろなものを親にねだる。お金や社会的地位、ずる賢さや図太さといったものだ。しかし、それはたいてい子供に譲ることのできないものだ。親に要求できるのはただひとつ、頑丈で健康な身体だけだ。その他のことはみな偶然で予測できないことによっている。
いろんな意味で、幼児期というのは地上の生においてもっとも幸福な時代ではないかと思う。なんて素晴らしい時期だろう! 長い眠りや柔らかいクッションに朝寝、そしてあの滋養に富んだおいしい液体をいつまでも吸っていられることといったら! 本質的に食欲しか感じず、周りの人がみな自分のその食欲を満たすために汲々としているところを眺めていられる、そんな世界に生きるのは絶えざる眩惑、至福の魅了に違いない。想像してみてほしい。これはかなり確かだと思うのだが、子宮にいたときや、幼年期の庇護下にあるときのぼんやりした記憶が、時を経るに従って、対照的に不安感や落ち着かない感じを生むのだろう。生は、失われた甘美さ、奪われた幸福への憧憬へと姿を変えてしまう。しかし、静かな喜びや植物的な安心感につつまれたこの時期について、ぼくはどんなものであれ正確で具体的な記憶を持てたためしがない……きっと、だからこそ授乳期の魔力が強くなっているのだろう。失われた楽園――地上の楽園のように。
家の近所に、アンリケタ(Enriqueta)さんという未婚の老婦人が住んでいた。彼女は背が低く、ふっくらとして、凝った作りのコルセットに体を押し込み、洗練された感性のわりに赤ら顔で、とても高く盛り上げた髪型に押しつぶされそうになっていた。アンリケタさんの菜園(それはむしろ小庭園とでも言うべきものだった。というのも、彼女は自分の計画において卑近な俗悪さになど決して譲歩しなかったからだ)は、うちの庭と井戸の縁石を介して接していた。その井戸を二戸で共有していたのだ。ぼくの母はよく、その井戸のまわりまでぼくを連れて行った。アンリケタさんは(聞いた話では)井戸の反対側からぼくを歓迎してくれた。そして、彼女があんまりたいそうに愛情を示すものだから、母はしばしば、割れ物でも扱うかのように、井戸の深い底の上を通って、ぼくを彼女の腕に渡さざるを得なかった。考えなしに感情を吐露することは――特に間に井戸があるなら――賢明だったとは言えないだろう。老婦人、母、そしてぼく自身、全員が井戸に落ちる恐れがあったが、実際は、言うまでもなくぼくが最も危険な立場だった。こういったことについて、それが行われていた当時の記憶があるわけではないけれど、この受け渡しはぼくを緊張感や生命の危機(こういったものは無視できないものだ)に慣れさせるために行われたのではないかと考えるに至った。しかし、いま、大人になってからそのことを思い返すと鳥肌が立つし、人間の愚かさがいかにはかりしれないかということについての確信を深めるばかりだ。
自分の中にどのようにして意識が目覚めたのか、描き出すことができない。暗闇は完全で、忘却は徹底的だ。思い出せる最初のことは映像的なものだ。ぼくはひとりで、父がテーブルで新聞を読むのを見ている。父の体は白いテーブルクロスの上にあり、シェードごしの石油ランプの光で顔が緑に染まっている。父の肌が緑に満ちているのを見てとても驚いたぼくは、神経質で抑えがたい笑いを弾けさせた。これに続く二つの記憶は嗅覚に関するものだ。一つはコルクが焼ける匂い。これはパラフルージェルの空気にいつも漂っていて、鼻のいいよそ者は、今まさに火事が消し止められたところのような感覚を覚えることになる。もう一つはみんなの着ている服のビロードの匂いで、ぼくはつねにこの匂いが、すえた、耐え難いものに思えた。後年、ぼくはこの悪臭と、歩くときにビロードのズボンがこすれる音とを結びつけて考えるようになった。四つ目の記憶は落ち着かないものだ。教会の鐘楼のコーニスぎりぎりのところをあるくという悪夢からくる不安感だ。高いところから見下ろすときのめまいはいつも耐えられなかった。ぼくは地上的な動物で、それもとても平らな土地の動物なのだ。水平的と言ってもいい。
これ以降のことは、ぼくの記憶の中ではイメージと思い出とがごちゃごちゃになっている。この錯綜したごちゃまぜの中に、妙に正確な記憶がある。ある日おしっこをしたら、アスパラ・ソバージュの匂いを嗅いだときの驚きだ。二時間前にアスパラガス入りのオムレツを食べていたからで、これで因果の法則を認識することになる。
ぼくが勉強に行き始めたのはとても早く、三歳のときだった。パラフルージェルのラジョラ(Rajola)のあたりにある、マリスト会が創立した学校の生徒だった。〈修道士〉たちはとても変わった服装をしていて、ぼくが彼らに、一瞬にして強い敬意を抱いたのも、あるいはそのことによるかもしれない。彼らは、リボン状の紐で絞られたスータン[司祭平服]を着て、肩には小さなマント――ちょうど、フランスの田舎にいる経営者がかけるようなものの半分くらいの大きさのもの――をかけていた。司祭がかぶっていた小さな帽子はそこでは驚きの的だった。というのも、当時、たいていの司祭は瓦を返したような形の帽子をかぶっていたからだ。短い靴の中には、黒い生地の靴下を履いていた。こうした変わった服装にも関わらず、学校はとても良かった。真摯で、完璧に統制が取れていた。ぼくを教えてくれたブラス(Blas)修道士は忘れがたい。基本的なことをしっかりと、かつ手早く教えてくれた。
それに、この学校は場所もよかった。教室は南に向かっていて、カレーリャ(Calella)の平野の、暖かく澄んだ空気を湛えていた。中庭は広くて日当たりが良かった。ここで過ごした時間は忘れがたいものだ。年齢に応じた遊びがあった。独楽、色の付いた線が入ったビー玉、馬跳び、ボール遊び、ブリ・ブレ[未詳。英訳はhurling sticks]……中庭の一角にはやせたザクロの木があった。その木は何かが強くぶつかったようで、傷がついていたのだが、それでも毎年とても香りのいい花を咲かせていた。赤く、真紅の花に包まれ、雌しべが黄色くなるさまは見事だった……あの頃、机から、いったいどれほどの時間あのザクロの木を眺めたことだろう。はるかな空は青、赤、緑といった色をとり、山から風の吹いてくる日には磁器のような青緑色をしていた……!
木曜日にはアン・マルケス(En Marquès)の松林に行った。そこはまるで巨大な庭園で、松がきれいに並べられ、対称的で、整っていた。風景は素晴らしく、古い塔がたくさんあり、奥にはアルマダス(Ermedàs)が見えた。とても高い松の木がならんで囲んでいた。この松林は薄暗く、きのこの匂いがして、夢見るような光がただよっていた。ぼくはここを偏愛していた。夜になると、高い枝の間で風が立てる低く孤独な物音に思いを馳せ、金色に光る葉叢にただよう静かで甘い光を眺めていた。
1904年に、ぼくたちは父がソル(Sol)通りに建てた家に引っ越した。当時ぼくは7歳で、妹のロザははいはいし始めたところだった。家に入ると、まだ塗装屋と壁紙屋がいた。その塗装屋のうちのひとりは口ひげを生やす風習の地域の出だったが、何日もはしごに登り、首をひねって、すこし舌を出しながら、不格好な天使を居間の天井に書いていた。とても細い筆で天使のお尻を仕上げながら彼は、口ひげの下で、今ではあまり聞かれない穏やかな感じで歌を口ずさんでいた。「雀や雀、寝にいくときに音を立て……」。とはいえ、家全体には新しい家特有の新鮮で、心地よい匂いがしていた。ぼくの最初の読書の記憶はこの家に結びついている。ある暑い午後、階段に座って、王族の結婚式の日にあったアナーキストのモラル(Morral)による爆弾騒ぎのニュースを読んでいた。これがぼくが初めて意識した、継続的かつ長さのある読書だった。
いつ、どのようにして、何によって気づいたのかはわからないが、ある日、我が家では(こう言ってよければ)客観的に言ってかなりいいものを食べているということに気づいた。ただこれはもしかしたらもう少しあとになって、成長してからかもしれない……ともかくこれは重要な発見だった。恵まれた立場にある家庭の人々が、ある種の想像力と現実感覚を持って市場に行くために身に着けている、重要な認識を初めてもったからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?