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大地の子 ー 山崎豊子

この小説は、私の人生を方向づけるきっかけになった作品だった。この小説に出会ったのは、高校生のころ。NHKで偶然放送されていた大地の子のドラマを視聴し、そこから釘付けになった。再放送を録画し何度も観た。

この史実をもっと知りたくて、当時住んでいた地域の図書館で大地の子の小説を借りては読み漁った。ネタバレになるので、詳細は記載しないが、世界で働く上では知っておくべきことが沢山語られていた。 フィクションだけれども、史実をきちんと調査し、相当数の中国残留孤児をインタビューをした上で作成されたものだと聞いた。なので自分も身の回りの戦争経験者に祖父母にもたくさん話を聞いてみた。祖父が駅で電車を待っていたときにグラマンが飛来し、木に登り機銃掃射を避けたが、列車に乗っていた人は亡くなったという話、祖母の通っていた女学校は軍需工場となり、ほとんど勉強せずに戦争に使う物品を作っていた話、戦時中教員不足で臨時で学校教員となった祖母が突然教育をしていたという話。第二次世界大戦を経験した人から話が聞けるのは最後の世代なんて言われていけれけど、実際戦争が終わってまだ100年も立っていない。まだ聞ける。なぜ日本の一般人がこんなにたくさん中国に渡ったのか、どうしてこんな悲劇が繰り広げられたのかという疑問が拭いきれず、昭和の歴史、特に戦争に突入していったあの時代への興味が膨らんだ。残念ながら身の回りには満蒙開拓団に送られた人を知る人はいなかった。

進路を決める際に、未来を創るには歴史に学ぶことも大切だと自分に言い聞かせ、この分野の歴史を学ぶことに決め、大学は文学部の歴史学科に入学した。就職どうするの?といろんな人から聞かれたけれど、それはどうにかなるだろうと思っていた。実際どうにかなった。本当にやりたいことがあるのであれば、外野の心配の声などは聞き流せばよいと後で思った。私の場合本当にやりたいことだったので実際のところ全く迷わなかったが、外野の声に迷いが生じる程度の想いなら考え直したら良いのではないかと思う。

大学では、近代史のゼミもあったがどうしても卒業論文を観てもらいたい明治維新専門の教授がいたため、頼み込んでそのゼミで満蒙開拓団についての研究卒論を書かせてもらった。近代史の教授に対しては失礼なことをしたと思うが、師を誰にするかは重要。説得してなんとか聞き入れてもらった。教授間で揉め事が起きるかなど全く頭にはなかったが、そんなことも背負って受け入れてくれた教授には感謝しかない。当時卒論の研究のため、中国東北部を視察に入れるかもしれないという話が飛び込んできた。しかし、ときの首相による聖域なき構造改革によりODA予算が削られ、話を聞いてもらっていたNGOが解散し結局中国行きは難しくなった。諦めきれず卒業旅行では北京を訪問。中国東北地方への個人旅行は中国語も話せなかった私にはハードルが高かったため、断念した。そのため、中国現地ではなく、日本国内の地方自治体がどのように満蒙開拓団の送出に関わったのか、中央政府の施策と絡ませた研究に変更した。その変更は正解だったのかもしれない。過去に研究している人があまりいなかった。

有名な送出地域としては長野県が有名だが父方の故郷の大分県からも多少の派遣があったため、休みのたびに祖父母の家に長期間滞在し、公文書図書館や地元の国立大学図書館に入り浸った。当時の原文に当たっているうちに、沢山の気づきを得た。教授の指導のお陰で就職したあと、歴史学会で卒論発表させてもらう機会も頂くことができた。

その後、就職した会社で忙しく日々を過ごしていたため、歴史から離れた生活を送っていたが、ある時突然中国への異動命令が出た。赴任先は上海。製鉄会社の舞台だと思った。寒気がした。ハルピンやフフホトなどへは結局行けなかったが、上海の宝山区はもとより、蘇州、西安、広州、北京、大連の街には訪問できたし、中国語も日常会話はできるようになった。

今はシンガポールに滞在しているが、このあと、中国東北地方を訪れる機会がある気がしてならないので、マーケットや屋台などでは現地の方と中国語を使うようにしている。将来中国のどこかでこの話を直接する機会があることを期待して。

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人生を変えた一冊

2020年、オンラインで沢山の方にお会いし、たくさんの価値観に触れ、自分の中の考え方が揺れ動いていることに気づきました。この瞬間に、感じたことを言葉で表現してしてみる事にしました。 子育ての事、教育こと、人に関すること、外国人の上司と働くと言うこと。つれづれなるままに。