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まるで老婆はエイリアン

あれは22歳。
団地で一人暮らしを始めた頃だった。

一人暮らし自体も初めてであった上に、訳あって通っていた専門学校を辞めて働かなくてはならなくなり、取り急ぎ地元の広告会社に就職した。
慣れない一人暮らしと、勝手のわからない仕事。

大人の階段をダッシュで駆け上がるような、目まぐるしい日々。
お金も体力の余裕もなく、帰ったら食事を取って寝るだけの生活を送っていた。

両親が近所に住んでおり、心配なのであろう、定期的にやってきては米を置いていってくれた。
両親は米農家でもなんでもないのだが、当時まだまだ食べ盛りの新社会人の僕にとっては嬉しいサポートだった。
男子米さえあれば死なず。
そんな言葉は存在しないが、毎日とにかく腹が減るし、とにかく眠い。

仕事でくたくたになって帰っても、欠かさず米だけは炊いていた。
早炊きの40分間に風呂を済ませ、炊けた瞬間に食べる。
ファミチキをご飯の上に乗せて、中濃ソースをかけるファミチキ丼。
とろけるチーズを熱々のご飯に乗せて溶かし、その上に納豆とふりかけをかけて食べるコスパ最高納豆チーズ丼。
僕にとって食事イコール米であり、とにかく常に米ばかり食っていた。
栄養バランスなどまるで無視で、ただ腹を満たすだけのひどい食生活だ。
しかし若い男にはそれが美味い。

ある夜、帰宅し玄関のドアを開けると、室内は異様な雰囲気に包まれていた。
水の滴る音が暗闇に響く。
古い1Kの間取りで、入るとすぐに居間があり、その奥にキッチン、さらに奥にタイルの床に簡素なバスタブがついた風呂場がある。
電気をつけてみると、風呂場からキッチンにかけて、茶色い水が天井から滴り落ちていて、キッチンのフローリングまでもが水浸しになっていた。

仕事をしている間に一体何があったのか。
まさかこの部屋にエイリアンでも潜んでいるのか。
しかしよりによって、東京の隅っこにあるこの団地から侵略を開始するはずもない。
僕がエイリアンなら、まずアメリカに行く。
茶色い水は、明らかに上の階から滴っていた。
これは水漏れに違いない。

ああ、めんどくさい。
どうやら僕は、今すぐ上の階に行かなくてはならない。
できるだけ現場を保存しながら被害を確認し、真上の部屋に向かう事にした。

階段を昇ると、古い団地によくある、くすんだピンク色の金属のドア。
定期的に塗装の補修はされているが、ところどころが瘡蓋のように剥がれ、錆びた地肌が見える。
当然すぐ下の階の僕の家とほぼ同じ造りなのだが、団地の他人の家というのはなんだか不気味だ。
アメリカと間違えて団地に降り立った、おっちょこちょいなエイリアンが住んでいてもおかしくないとさえ思う。

ノックは3回。
最近覚えた社会のルール。
一呼吸置いてドアが開き、ぬっと老婆が姿を現す。
老婆はその家で一人で暮らしているようだった。
よかった、人間で。
僕は状況を説明し、とりあえず現場を見に来てもらうこととなった。

老婆を家へ招き入れる。
「あら、これはひどいわね。」
一旦は受け止めてもらえたようだ。
話が通じない相手ではないらしい。
「うちは古いから風呂場の防水が弱くてねえ。」
なら存分に気をつけるがいい、と喉まで出かかったが、会社仕込みの愛想笑いで受け流した。
さてはこの老婆、心当たりがあるな。
おおかた風呂場で水を出しっぱなしにでもしたのだろう。
現場を見に来る事に、やけに素直に応じたのも合点がいく。
それに、古いのはうちも同じだから言い訳にならない。
ふとキッチンの隅に目をやると、両親からもらった10キロの米がずぶ濡れになっていた。
すでにいくらか食べていて開封済みだったため、中まで水浸しで、とても食べられそうにない。
なんてことだ。

「雑巾貸してくださる?」
まあ当然掃除は手伝ってくれるよな、と思いながら雑巾を手渡すと、
老婆はよいしょ、とシンクのふちに上りだした。

「あ、危ないですよ。」
まるで工事現場の看板のような、空虚な言葉が咄嗟に出た。
しかし老婆は聞かない。
天井に備え付けられた食器棚に片手で掴まり、雑巾を華麗に操り天井を拭いていく。
これが昭和の高度成長期を生き抜いた人の力なのか。
年齢の割に、実に軽やかな身のこなしだ。
一瞬感心しそうになったが、今度は片足立ちになって天井の奥の方まで拭き始める。

やめてくれ!
シンクの幅は多く見積もっても10センチ。
おそらく老婆は齢70を超えている。
10×70で危険度は700%だ。
この場合、片足だからさらに倍になるのか?
よく見れば靴下も履いているし、もはや計算不能だ。

老婆は僕の現実逃避的な心配をよそに、無事天井を拭き終えシンクを降りた。
よかった、怪我しなくて、本当によかった。
いつのまにか掃除をしてほしいという気持ちから、老婆が無事に生還することを祈るようになっていた事に気づく。
天井の隅の拭き残しなんて、もはや全く気にならない。
...この老婆恐るべし。
しかし米は別だ。
労働で払おうったってそうはいかない。
こっちは数キロの米が台無しになったのだ。
僕は皿洗いでただ飯を食わせる、街の古き良き中華屋ではないのだ。

僕は天井や床より、何よりも米がダメになったことが一番悲しかった。
だってお腹空いてるから。
この空腹は死活問題なのだ。
早く米を炊いて腹を満たし、さっさと寝て明日の為に英気を養いたいのだ。
そこで僕は、米の被害を思い切ってアピールしてみる事にした。
「両親からもらったお米もダメになっちゃいましたよ、ははは。」
両親からの仕送りという背景を強調し、会社仕込みの愛想笑いも添えた。
棘をできるだけ削ぎ落としつつも、被害をはっきり訴えるという、社会人には重要なスキルだ。
老婆の目の前で悲しげに、そしてゆっくりと市指定のごみ袋に米を入れていく。
重い。
正味5キロはあるだろうか。
さあ、米を弁償すると言うんだ。
こっちは今夜食べるものがないんだ。
あと数日は保つはずだったんだ。
せめて今日の分だけでも分けてくれ。

……。
返事はない。
ただの元気な老婆のようだ。

ダメだこの人。
やはり天井の拭き掃除だけで、なんとかこの場を収める気だ。
米の事なんてまるで気にしていない。
きっともう食も細くて、米の大切さなんて忘れてしまったのだろう。
猛烈昭和時代と違って、平成の世は物で満たされている。
僕も両親のおかげで食べるものに困ったことはない。
その瞬間を除いては。

もう帰ってくれ。
そうしたら僕は、今すぐ松屋に行って米を食うから。
そもそも僕はおばあちゃん子だったから、老婆に冷たくなんてできないんだ。思い出したよ、老婆とか言ってごめんね、おばあさん。
僕はため息とともに、米で満杯になったゴミ袋の口を結んだ。
「それじゃあ失礼しますね。」
おばあさんはまるでエアコンの取り付けでも終えたかのように、爽やかな笑顔で帰って行った。

僕は、おばあさんが階段を昇り、自宅へと帰っていく音をドア越しに確認してから、駅前の松屋へと向かった。
なんとか米にありつけたものの、その夜は長かった。
エイリアン臭い湿り気を帯びたエアコンの風が、寝付けない僕の額を撫でた。

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